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宇田川悟写真展(4月11日~25日)

私の初の写真展が開催されています。長く暮らしたパリ時代に撮りためた写真です。
世にいう終活とやらに背中を押され、パリから運んだスライドを整理したらパリだけで約1万5千点、フランス全土で約3万5千点。取材で撮影した写真もあれば、プライベートで自由気儘に撮影した写真もあります。
この大量の写真を処分するのは忍びないと思ったことが写真展に繋がりました。
・宇田川悟写真展「私が暮らした20年のパリ情景」
・会期:2016年4月11日(月)~25日(月)
・開館時間:10:00~18:00(日曜祝日休館)
・会場:日仏会館エントランスホール(入場無料)
・後援:共同通信社
・詳細はTMF日仏メディア交流協会、(公財)日仏会館のHPをご確認ください。
・私の在館日は「udagawasatoru@gmail.com」にお問い合わせください。

*以下は写真展開催の「御挨拶」。
 昨今パリはテロの街になってしまったようだが、今も多くの伝説と物語を生み出してきた憧れの街であり続けている。自由と人権と多様性を重んじる社会を目指して世界の人々がこの街を訪れた。小説家もいれば詩人もいれば、画家も音楽家も旅行者もいる。
 かつて「パリの空の下」というシャンソンが流行った。その空の下で、時代の移ろいや変遷に翻弄されながらも人々は食べて歌って恋をしている。それは昔も今も変わらない日常である。
 昨年数ヶ月、世に言う終活とやらに背中を押され、十数年前にパリから運んだスライドフィルムを整理したら、パリやフランス各地で撮影した写真が数万点に達した。取材で撮影した写真もあれば、私的な旅の途上で撮影したものもあるが、何よりこの大量な写真を前に唖然としたのは本人である。
 パリではたっぷり時間があったから、カメラ片手に春夏秋冬、自由気儘に散歩しながら撮った。時には、変貌するパリの中で、アジェやブレッソンやドアノーがスナップした瞬間を感じさせる場面が残っていた。
 さて、整理した写真をどう処分しようか頭を悩ませていたある日、素人カメラマンの浅はかさなのだろうが、ふと写真展の開催を思いついた。
 パリで執筆を続けていた私が撮影したのは、表題のようにパリに住み始めた80年頃から20年ほどだが、それはアナログからデジタルへと徐々に舵を切る時代に符合する。
 写真を整理しながら驚いたのは、瞬時に忘れていた記憶が甦ることが多々あったことだ。そういう意味で写真は「記憶延命装置」なのかもしれない。
 今展は主に人物に焦点を合わせた。時機を得て、初の写真展を日仏文化・学術の交流拠点である日仏会館で開催できたのは何かの縁だろう。未熟な作品だが、ご高覧くだされば幸いである。

*以下は展示作品40点の写真キャプション。
-半切(16点)
1.フランス革命を演じるストリート・パフォーマンス
2.昼下がりのセーヌ河岸の密会
3.母子の愛情
4.ムフタール市場で買い物
5.幻想的なポン・デ・ザール(芸術橋)
6.老女と食べるマドモワゼル
7.ロンシャン競馬場の勝負師
8.イヴ・モンタンと老人
9.新聞雑誌に囲まれて爆睡
10.ダンスパフォーマーの恍惚と不安
11.頑固な旧人類は絶滅寸前
12.ノートルダム寺院の近くで歩道駐車
13.若者で盛り上がるメーデー
14.教会から出てくるカップルを祝福
15.パリの空の下(建物はポンピドー・センター)
16.陽だまりで読書するパリジェンヌ
-4切(24点)
1.FN(国民戦線)の横断幕を掲げる老淑女
2.移民労働者のデモ
3.コントルスカルプ広場の革命記念日(7月14日)
4.セーヌ船上のピクニック
5.モンマルトルの階段
6.スキンヘッドの職人芸
7.保守派の子沢山
8.ちょっと妖しいパフォーマンス
9.ダービー開催日の富裕層
10.お喋りとバゲットとマダム
11.路上から姿を消したガラス職人
12.セーヌ河岸で新聞を読むホームレス
13.密談と老女の眼力
14.さくらんぼの実る頃
15.美しき夫婦愛!?
16.リュクサンブール公園の怪女
17.パリの憂鬱
18.ヴィンテージカーとモデル(ヴァンドーム広場)
19.ノートルダムの舌出し女
20.80年代初頭のフェミニズム運動
21.ジャン・ギャバン風にベレー帽を
22.酒とバラの日々
23.ビュット・ショーモン公園の彼方に高層ビル
24.枯葉と兄弟(リュクサンブール公園)

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長らくご無沙汰でした。
年を越し、すでに桜の季節を迎えました。激動する世の変遷に唖然茫然。みなさまのご健勝をお祈りします。
さて、私の初の写真展が開催されます。長く暮らしたパリ時代に撮りためた写真です。
世にいう終活とやらに背中を押され、パリから運んだスライドを整理したらパリだけで約1万5千点、フランス全土で約3万5千点。取材で撮影した写真もあれば、プライベートで自由気儘に撮影した写真もあります。
この大量の写真を処分するのは忍びないと思ったことが写真展に繋がりました。
・宇田川悟写真展「私が暮らした20年のパリ情景」
・会期:2016年4月11日(月)~25日(月)
・開館時間:10:00~18:00(日曜祝日休館)
・会場:日仏会館エントランスホール(入場無料)
・後援:共同通信社
・会期中の14日(木)に私の講演会を同館で行います。開場は18:00、開演は18:30。
参加申し込みはTMF日仏メディア交流協会事務局「info@tmf.cc」までお願いします。
詳細はTMF日仏メディア交流協会、(公財)日仏会館のHPをご確認ください。
なお、私の在館日は「udagawasatoru@gmail.com」にお問い合わせください。

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前回分の再録です。拙著とトークイベントの宣伝です。ご容赦ください。
*9月10日、対談集『覚悟のすき焼き-食からみる13の人生』(晶文社)から発売されました。4年余前に同社で出版された『最後の晩餐-死ぬまえに食べておきたいものは?』の第二弾です。収録されているのは松浦晃一郎(前ユネスコ事務局長)、松任谷正隆(音楽家)、五味太郎(絵本作家)、佐藤可士和(クリエイティブディレクター)、大岡玲(小説家)、吉本ばなな(小説家)、三遊亭好楽(落語家)、見城徹(編集者・幻冬舎社長)、石丸乾二(俳優・歌手)、髙田郁(小説家)、真山仁(作家)、平松洋子(エッセイスト)、村上龍(小説家)の諸氏。
*以下に同書の「あとがき」を添付し、「刊行記念トークイベント」の開催をお知らせします。後者は見城徹氏(編集者・幻冬舎社長)と私とのトークイベントです。乞うご期待。

*あとがき
 前著『最後の晩餐-死ぬまえに食べたいものは?』を出版してから四年余の歳月が流れた。本書の対談集は第二弾である。
 昨今の出版不況にもかかわらず、稀に本のタイトルでベストセラーになることがあるから書名は徒や疎かにできない。これまでに刊行した拙著の書名はいずれもすんなり決定したが、本書の場合はなかなかに難産だった。社内の編集会議でも妙案が浮かばず、営業部の方々が書店員に意見を訊いてくれたり、皆さんが知恵を絞ってくれたが容易に決まらない。私も浅知恵を捻ってあれこれ考えたが、そうは問屋が卸さない。前著に倣って『最後の晩餐』を使えば一件落着なのだが、今回はそれに与したくない。本書に登場する皆さんの食べる力や創造力や人生観、さらに叡知と寛容と決断などを少しでも感じさせるようなタイトルに近づけないか。
 そうこうするうちに編集部から「覚悟」という言葉が浮上してきた。人は誰しもある時期を迎えると、人生の最後を意識して「覚悟」という言葉に直面せざるを得ない。私のようないい加減に能天気に生きてきた人間でさえ、その言葉を聞くと一瞬たじろぐ。やがて、「覚悟」を使った書名はどうだろうかと考えていると、本書に登場する髙田郁さんが使った「覚悟のすき焼き」という言葉に結び付いた。この短い言葉の中に、食に込められた最後の強い思い、過ぎ去った昭和という時代に生きた家族の情景、人生に対する矜持と諦観などが混じり合った気配を感じたからである。
 私事ですが(私事しか書いていないけれど)、本書の発売時期が決まった頃、東北地方の沿岸を走るローカル線に乗ってきた。生来のものぐさは人後に落ちないから、自分なりに期するところがあってのことだったのだろう。加齢と共に体力や気力や精神力の衰えを日毎に感じている身としては、重い腰を上げて出発したものの、やはり何時間も座り続けなければならない鉄道の旅は予想以上にしんどい。にもかかわらず、ある種の爽快さを感じて身の引き締まる思いがした。隈なく各地を回ったフランスとは決定的に異なる、日本海と太平洋の両沿岸に広がる海辺の光景に虚を突かれたからだ。
 そうして居酒屋、料理屋、漁港の市場の定食屋、ホテルの食堂、旅館の和食など時間の許す限り食べた。確かにどれもこれも美味しいのだが、しかしなぜか物足りなさが残る。実は、そんな物足りなさが、もしかしたら私のささやかな生きる原動力になっているのかもしれない。人生に答えがないように、最後の覚悟の晩餐にも解答がないのだろう。むしろそう思うことで、明日はどうなるかわからない命へ繋がる食べ物に出合えるような気がするのだ。
 まだインターネットのない三十代後半からフランスという異国で暮らし、普通の人たちから見れば大きく外れた人生を歩んできた。だが、フランス料理だけは人並み以上に食べた。そうだからこそ、前著で「最後の晩餐」としてフランス料理のフルコースを挙げたのだが、その選択が現在の私にふさわしい「覚悟の晩餐」なのかどうかおぼつかない。今は静かに十三人の賢人の声に耳を傾けたい。またその声が一人でも多くの読者に届くことを願っている。
 本書が世に出るまで多くの人々の協力を得た。十三人の方々をはじめ、帯文を頂戴した村上龍さん、対談の場を与えてくださった味の素食の文化センターの食文化誌「vesta」編集部の小林顕彦と和田道子の両氏、終着点までお世話になった晶文社編集部の浅間麦さんに改めてお礼を申し上げたい。

 二〇一五年八月一日 東京 
                                                                           宇田川悟


*「『覚悟のすき焼き-食からみる13の人生』(晶文社)刊行記念トークイベント」
「“食”は勝負の場」」
ジュンク堂書店 池袋本店
開催日時:2015年10月29日(木)19:00 ~
見城 徹(編集者・(株)幻冬舎社長)
宇田川 悟(作家)

『覚悟のすき焼き』は、ゲストの食卓にまつわるあれこれを掘り下げながら、各人の仕事や人間的魅力、その信念にせまる対談集。
その刊行を記念して、対談者のお一人である見城徹氏と著者・宇田川悟氏のトークセッションを開催します。会食の場では、「身を削って、身をよじって、身をやつして、相手と一騎打ちをしたい」と語る見城氏が、自身の生きる原動力である“食と女性と仕事”の関係を、縦横無尽に語り尽くします。生を謳歌する国、フランスで長く暮らした著者・宇田川氏との軽快で旨みたっぷりなトークをお楽しみください。
【講師紹介】
見城徹(けんじょう・とおる)
1950年、静岡県生まれ。編集者・(株)幻冬舎社長。慶應義塾大学法学部卒。角川書店を経て、93年に幻冬舎を設立。『弟』(石原慎太郎)、『大河の一滴』(五木寛之)など、編集者・経営者として22年間で21本のミリオンセラーを世に送り出している。自身の著書に『編集者という病い』『異端者の快楽』、サイバーエージェントの藤田晋との共著に『憂鬱でなければ、仕事じゃない』『絶望しきって死ぬために、今を熱狂して生きろ』がある。食通としても有名。氏にとって「食」は編集者としての勝負の場でもある。
宇田川悟(うだがわ・さとる)
1947年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。作家。フランスの社会・文化・食文化に詳しい。フランス政府農事功労章シュヴァリエを受章。主な著書は、『食はフランスに在り』(小学館ライブラリー)、『パリの調理場は戦場だった』(朝日新聞社)、『ニッポン食いしんぼ列伝』(小学館)、『フランス 美味の職人たち』(新潮社)、 『東京フレンチ興亡史』(角川oneテーマ21)、『ホテルオークラ総料理長 小野正吉』(柴田書店)、『最後の晩餐』『料理人の突破力』(共に晶文社)など多数。
★入場料はドリンク付きで1000円です。当日、会場の4F喫茶受付でお支払いくださいませ。
※事前のご予約が必要です。1階サービスコーナーもしくはお電話にてご予約承ります。
※トークは特には整理券、ご予約のお控え等をお渡ししておりません。
※ご予約をキャンセルされる場合、ご連絡をお願い致します。(電話:03-5956-6111) 
■イベントに関するお問い合わせ、ご予約は下記へお願いいたします。
ジュンク堂書店池袋本店TEL 03-5956-6111 東京都豊島区南池袋2-15-5

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*9月10日、対談集『覚悟のすき焼き-食からみる13の人生』(晶文社)から発売されました。4年余前に同社で出版された『最後の晩餐-死ぬまえに食べておきたいものは?』の第二弾です。収録されているのは松浦晃一郎(前ユネスコ事務局長)、松任谷正隆(音楽家)、五味太郎(絵本作家)、佐藤可士和(クリエイティブディレクター)、大岡玲(小説家)、吉本ばなな(小説家)、三遊亭好楽(落語家)、見城徹(編集者・幻冬舎社長)、石丸乾二(俳優・歌手)、髙田郁(小説家)、真山仁(作家)、平松洋子(エッセイスト)、村上龍(小説家)の諸氏。
*以下に同書の「あとがき」を添付し、「刊行記念トークイベント」の開催をお知らせします。後者は見城徹氏(編集者・幻冬舎社長)と私とのトークイベントです。乞うご期待。

あとがき
 前著『最後の晩餐-死ぬまえに食べたいものは?』を出版してから四年余の歳月が流れた。本書の対談集は第二弾である。
 昨今の出版不況にもかかわらず、稀に本のタイトルでベストセラーになることがあるから書名は徒や疎かにできない。これまでに刊行した拙著の書名はいずれもすんなり決定したが、本書の場合はなかなかに難産だった。社内の編集会議でも妙案が浮かばず、営業部の方々が書店員に意見を訊いてくれたり、皆さんが知恵を絞ってくれたが容易に決まらない。私も浅知恵を捻ってあれこれ考えたが、そうは問屋が卸さない。前著に倣って『最後の晩餐』を使えば一件落着なのだが、今回はそれに与したくない。本書に登場する皆さんの食べる力や創造力や人生観、さらに叡知と寛容と決断などを少しでも感じさせるようなタイトルに近づけないか。
 そうこうするうちに編集部から「覚悟」という言葉が浮上してきた。人は誰しもある時期を迎えると、人生の最後を意識して「覚悟」という言葉に直面せざるを得ない。私のようないい加減に能天気に生きてきた人間でさえ、その言葉を聞くと一瞬たじろぐ。やがて、「覚悟」を使った書名はどうだろうかと考えていると、本書に登場する髙田郁さんが使った「覚悟のすき焼き」という言葉に結び付いた。この短い言葉の中に、食に込められた最後の強い思い、過ぎ去った昭和という時代に生きた家族の情景、人生に対する矜持と諦観などが混じり合った気配を感じたからである。
 私事ですが(私事しか書いていないけれど)、本書の発売時期が決まった頃、東北地方の沿岸を走るローカル線に乗ってきた。生来のものぐさは人後に落ちないから、自分なりに期するところがあってのことだったのだろう。加齢と共に体力や気力や精神力の衰えを日毎に感じている身としては、重い腰を上げて出発したものの、やはり何時間も座り続けなければならない鉄道の旅は予想以上にしんどい。にもかかわらず、ある種の爽快さを感じて身の引き締まる思いがした。隈なく各地を回ったフランスとは決定的に異なる、日本海と太平洋の両沿岸に広がる海辺の光景に虚を突かれたからだ。
 そうして居酒屋、料理屋、漁港の市場の定食屋、ホテルの食堂、旅館の和食など時間の許す限り食べた。確かにどれもこれも美味しいのだが、しかしなぜか物足りなさが残る。実は、そんな物足りなさが、もしかしたら私のささやかな生きる原動力になっているのかもしれない。人生に答えがないように、最後の覚悟の晩餐にも解答がないのだろう。むしろそう思うことで、明日はどうなるかわからない命へ繋がる食べ物に出合えるような気がするのだ。
 まだインターネットのない三十代後半からフランスという異国で暮らし、普通の人たちから見れば大きく外れた人生を歩んできた。だが、フランス料理だけは人並み以上に食べた。そうだからこそ、前著で「最後の晩餐」としてフランス料理のフルコースを挙げたのだが、その選択が現在の私にふさわしい「覚悟の晩餐」なのかどうかおぼつかない。今は静かに十三人の賢人の声に耳を傾けたい。またその声が一人でも多くの読者に届くことを願っている。
 本書が世に出るまで多くの人々の協力を得た。十三人の方々をはじめ、帯文を頂戴した村上龍さん、対談の場を与えてくださった味の素食の文化センターの食文化誌「vesta」編集部の小林顕彦と和田道子の両氏、終着点までお世話になった晶文社編集部の浅間麦さんに改めてお礼を申し上げたい。

 二〇一五年八月一日 東京 
                                                                           宇田川悟


*「『覚悟のすき焼き-食からみる13の人生』(晶文社)刊行記念トークイベント
「“食”は勝負の場」」
ジュンク堂書店 池袋本店
開催日時:2015年10月29日(木)19:00 ~
見城 徹(編集者・(株)幻冬舎社長)
宇田川 悟(作家)

『覚悟のすき焼き』は、ゲストの食卓にまつわるあれこれを掘り下げながら、各人の仕事や人間的魅力、その信念にせまる対談集。
その刊行を記念して、対談者のお一人である見城徹氏と著者・宇田川悟氏のトークセッションを開催します。会食の場では、「身を削って、身をよじって、身をやつして、相手と一騎打ちをしたい」と語る見城氏が、自身の生きる原動力である“食と女性と仕事”の関係を、縦横無尽に語り尽くします。生を謳歌する国、フランスで長く暮らした著者・宇田川氏との軽快で旨みたっぷりなトークをお楽しみください。
【講師紹介】
見城徹(けんじょう・とおる)
1950年、静岡県生まれ。編集者・(株)幻冬舎社長。慶應義塾大学法学部卒。角川書店を経て、93年に幻冬舎を設立。『弟』(石原慎太郎)、『大河の一滴』(五木寛之)など、編集者・経営者として22年間で21本のミリオンセラーを世に送り出している。自身の著書に『編集者という病い』『異端者の快楽』、サイバーエージェントの藤田晋との共著に『憂鬱でなければ、仕事じゃない』『絶望しきって死ぬために、今を熱狂して生きろ』がある。食通としても有名。氏にとって「食」は編集者としての勝負の場でもある。
宇田川悟(うだがわ・さとる)
1947年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。作家。フランスの社会・文化・食文化に詳しい。フランス政府農事功労章シュヴァリエを受章。主な著書は、『食はフランスに在り』(小学館ライブラリー)、『パリの調理場は戦場だった』(朝日新聞社)、『ニッポン食いしんぼ列伝』(小学館)、『フランス 美味の職人たち』(新潮社)、 『東京フレンチ興亡史』(角川oneテーマ21)、『ホテルオークラ総料理長 小野正吉』(柴田書店)、『最後の晩餐』『料理人の突破力』(共に晶文社)など多数。
★入場料はドリンク付きで1000円です。当日、会場の4F喫茶受付でお支払いくださいませ。
※事前のご予約が必要です。1階サービスコーナーもしくはお電話にてご予約承ります。
※トークは特には整理券、ご予約のお控え等をお渡ししておりません。
※ご予約をキャンセルされる場合、ご連絡をお願い致します。(電話:03-5956-6111) 
■イベントに関するお問い合わせ、ご予約は下記へお願いいたします。
ジュンク堂書店池袋本店TEL 03-5956-6111 東京都豊島区南池袋2-15-5

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*9月10日、対談集『覚悟のすき焼き-食からみる13の人生』(晶文社)から発売されます。4年余前に同社で出版された『最後の晩餐-死ぬまえに食べておきたいものは?』の第二弾です。収録されているのは松浦晃一郎(前ユネスコ事務局長)、松任谷正隆(音楽家)、五味太郎(絵本作家)、佐藤可士和(クリエイティブディレクター)、大岡玲(小説家)、吉本ばなな(小説家)、三遊亭好楽(落語家)、見城徹(編集者・幻冬舎社長)、石丸乾二(俳優・歌手)、髙田郁(小説家)、真山仁(作家)、平松洋子(エッセイスト)、村上龍(小説家)の諸氏。乞うご期待。
*昨年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。
*昨年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯文より)

月刊「東京人」連載第4回
 今年は永井荷風没後50年。雑誌で特集が組まれているが、私も一時期荷風にはまった。何かに憑かれたように彼の作品を夢中で読んだり彼が通った店に出没した。放蕩の限りを尽くした荷風が畳に突っ伏して死んでいる写真に衝撃を受けたのは、多くの荷風ファンと同じだろう。理想的なランティエ(高等遊民)だが、自由を謳歌するためには最後は金の力が物を言う。死後預金が2300万あったそうだが、半端な金額じゃない。ところで、ある日を境に憑き物が落ちたように荷風から離れた。あの熱狂は何だったのか。 
 荷風が出入りした店は主に銀座と浅草。「偏奇館」があった麻布や「上野精養軒」や神楽坂などは番外編である。文人墨客が立ち寄る銀座のハイカラな店は今と比べれば桁違いに少なかったから、彼らが食べたり歓談する場所は限られていた。19世紀後半から20世紀前半のパリも文学者や芸術家が集まる店も同じようなものだった。戦前、荷風が通った銀座で現存するのは「千疋屋」「風月堂」「竹葉亭」「不二家」などで、戦後通った浅草では洋食の「アリゾナキッチン」、「どぜう飯田屋」、蕎麦の「尾張屋」、シチューの「フジキッチン」、喫茶店「ハトヤ」、甘味処「梅園」など。喫茶店「ボンソワール」はすでに更地。麻布十番の「永坂更科」は健在で、神楽坂の洋食屋「田原屋」はふぐチェーン店に代替わりした。
 「アリゾナキッチン」に荷風の写真が飾ってあるが、客は少ないしインテリアは寂しい。ビーフシチュー(2200円)の肉はぱさついて酸味がきつい。デミグラスソースと肉がまったりからまり、ガツンとほっこり旨いのがビーフシチューの本領だというのにがっかり。チキンレバークレオール(1300円)も冴えない。荷風はこの味を好んで食べていたそうだが味音痴である。帰朝者・荷風はフランスで舌を鍛えたはずだけれど、もともと食べ物に興味がなく、料理と女性は一体のものだ。金持ちのくせに知人以外は割り勘で、知人だけは見栄を張って奢っていたという。嫌な男だ。少しやけになって、晩年の荷風御用達の京成八幡駅にある大黒屋のカツ丼で食べた。味音痴を確信した。

第5回  
 2008年の首都圏「住んでみたい街」調査ランキングで首位になった吉祥寺。自由が丘の後塵を拝していたが昨年は追い抜いた。吉祥寺はデパートも大手スーパーも大手家電店もある大きな街だ。けれどもコンパクトにまとまり、大規模店舗と地元商店街のバランスが見事に取れている。井の頭公園という絶妙な「空虚な空間」が素晴らしい。それに昭和の風景と香りが漂う出色のハーモニカ横丁が駅前に残るのは驚きである。
 まずお隣の三鷹駅で下車。生誕50年の太宰治に敬意を表して墓参りをした。帰途国分寺にある、太宰が通った三鷹の鰻屋「若松屋」がルーツの「東鮨」で蒲焼を食べた。当時を再現した濃いタレが特色だ。痩せ型で女好きの太宰はああ見えて結構食い物にうるさかった。
 吉祥寺に戻りハーモニカ横丁を覗く。行列に並んで有名な「ミートショップ サトウ」のメンチカツを買った(1個180円、5個以上140円)。行列してまで買おうと思わなかったが、デパ地下のメンチにいつも失望していた身としては初めて旨いメンチに出遭い溜飲を下げた。横丁には羊羹の「小ざさ」をはじめ約90店が軒を連ねる。
 吉祥寺はジャージーな街だ。軽快で動きがあって懐が深い。1960年創業の「ファンキー」と「サムタイム」でジャズに浸り、大人の料理屋や居酒屋に潜りたい。私の調査と吉祥寺在の食通の推奨を付き合わせた結果を次に挙げる。派手じゃないけど、それぞれリーズナブルで期待を裏切らないと思う。もてなし上手の和食「あき」(料理に山廃が合う)、美味しい和食「ノ貫(へちかん)」(野菜を使ったメニューが嬉しい)、遠来からの客も多い「おでん太郎」(おでん以外にも一品料理)、吉祥寺で2番目に古い和食「豊後」(数年前現在地に移転。大分の酒「一の井手」が旨い)、シャッターのイラストで知られる居酒屋「闇太郎」(頑固なお喋り大将)、カウンター9席のシャレた「ビストロ・エディブル」(気軽でジャージーな料理)。もう一度人生があれば吉祥寺に住んでみたいものだ。

第6回
 数十年前の六本木は団塊世代にとって魅惑に満ちたエキゾチックな街だった。次第にその輝きは失われたが、今でも得体の知れないエキサイティングな雰囲気が脈打つ。六本木ヒルズと東京ミッドタウンの誕生以降、新たなエンターテインメントが加わった。
 ヒルズはロブションの2つ星「ラトリエ」、天ぷら「みかわ」(茅場町本店がベター)、「キッチンブラッセリー」(3千本のフランス産ワイン)、「バー」(バカラグラスを使用)、51階「ヒルズクラブ」(絶景なる眺望)に注目。対する後発のミッドタウンはどうか。人気ピッツァ「ナプレ」(空席ありでも常に満席看板?)、イタリアン「ヴィノテカ」(ラストオーダー前に入りボトル1本で夜景を満喫)と「カノビアーノカフェ」(総ガラス張りだから客席が丸見え)、豚料理「平田牧場匠」(B1の割安店がお得)、ライブ「ビルボード」(上質な好感度は表参道「ブルーノート東京」の方が上)、3つ星姉妹店「濱田屋」(奥座敷の趣)。ところで回転寿司の登場をどう評価するか。しかもヒルズともども代替わりの回転率の早さに目が眩む。集客に苦労しているようだが、大丈夫か。
 先頃、一時代を画したフランス料理「アピシウス」の名シェフ・高橋徳男がヒルズ移転後、日の目を見ずに他界した。ディベロッパーに口説かれて出店したらしいが、その無念はいかばかりか。合唱。
 無機質な高層ビルに厭きたら賑やかな街に出よう。ヒルズ界隈のお勧めは名門ビストロ「オー・シザーブル」、庶民派イタリアン「シシリア」(独特のグリーンサラダが健在)、うどん「つるとんたん」(人気歌手がプロデュース)。ミッドタウン界隈は同じく蕎麦「長寿庵」(他の同名店より旨い)、実力派フレンチ「レストラン・フー」、魚料理「魚真」(CPに満足)、ワインバー「祥瑞」(銀座の穴場ビストロ「グレープガンボ」と同系列)、豚料理「眞平」(世界1ソムリエの店)、和食「神谷」(階下のスポーツスクールから漂う汗に?)。このご時勢、あまり懐を気にしないで食べられる店だ。

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*9月10日、対談集『覚悟のすき焼き-食からみる13の人生』(晶文社)から発売されます。4年余前に同社で出版された『最後の晩餐-死ぬまえに食べておきたいものは?』の第二弾です。収録されているのは松浦晃一郎(前ユネスコ事務局長)、松任谷正隆(音楽家)、五味太郎(絵本作家)、佐藤可士和(クリエイティブディレクター)、大岡玲(小説家)、吉本ばなな(小説家)、三遊亭好楽(落語家)、見城徹(編集者・幻冬舎社長)、石丸乾二(俳優・歌手)、髙田郁(小説家)、真山仁(作家)、平松洋子(エッセイスト)、村上龍(小説家)の諸氏。乞うご期待。
*昨年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。
*昨年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯文より)
ご覧ください。

月刊「東京人」連載第1回
 「プティ・パリ」の異名をもつ神楽坂がヒートアップしている。さらに火をつけたのがテレビ放映された「拝啓 父上様」。不況の最中でも昼夜を分かたず人出が途切れない。今や西の祇園、東の神楽坂なんて言われ、若い女性が住みたい町の上位に上がるそうだ。ヒューマンな規模に文化と食の多様性が生きている。夕暮れどきお座敷に向かう芸者と学生が違和感なくすれ違う町など東京広しといえどもないだろう。紅葉や漱石、荷風など文人墨客が馴染み、石畳の路地や横丁にほのかに差す光に日本的美意識を感じるフランス人が住む。彼らが愛読する谷崎の『陰影礼賛』の影響が大きいか。  
 食の散歩のスタートは神楽坂のシンボルの毘沙門天。半径100メートル四方に名店や老舗を含めて人気店が目白押しだ。毘沙門天の前に煎餅「福屋」とうどん会席「鳥茶屋」、その間の横道になべ料理の「山さき」、クレープの「ル・ブルターニュ」、酒亭「伊勢藤」。その先の小道を進むとドラマの舞台になった、今はなき料亭跡。昭和30年代風が色濃い本多横丁の入り口が和菓子「千鳥屋」と肉まんの「五十番」で、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが来店した鰻の「たつみや」、おでん、元芸者の小料理屋、天ぷら、スペイン料理、フレンチ、ワインバー、寿司屋、料亭「牧」、筆者がオーナーのバー「ビス」、煎餅「珍味堂」(午前中限定の注文販売のみ)、沖縄料理、ビストロなど選択の困るほど舌をそそる。路地には高級寿司屋「寿司幸」、粋なネーミングの芸者新道、かくれんぼ横丁にも飲食店が並ぶ。近くに神楽坂在住のお騒がせ大物占い師が食堂に使っている小料理屋もあるが、店名は泉鏡花の作品から取ったもの。探し当ててほしい。
 圧巻は毘沙門天の裏手の狭いエリア。ミシュランの3つ星「石かわ」、2つ星「一文字」、1つ星「小室」の懐石料理の豪華三役揃い踏み。料理に関していえば私的には「小室」に3つ星を献上したい。界隈にはやきとり「文ちゃん」、蕎麦屋「蕎楽亭」、ちゃんこ、トルコ、クスクス、アフリカなどの異国料理、イタリアン、ジャズバー、ワインバーなど多士済々だ。たかが神楽坂、されど恐るべし神楽坂! 

第2回
 60~70年代、一世を風靡した男性ファッションのVAN。その総帥が石津謙介だ。私は彼の生涯を追った著作で功績を称え、食の北大路魯山人、政治の白洲次郎と並ぶ、御しがたい意志をつらぬいた昭和のダンディ3傑と呼んだが、いまいち石津の評価につながらない。そんな石津の終焉の地が四谷・三栄町。同行したパリの中華料理店で、味付けが悪いとキッチンに入って手直しするような、味にうるさい男だった。彼のご贔屓は3店。今はなき寿司屋「纏」、荒木町のあんこう鍋・穴子料理「たまる」、石津直筆のフランス語が残るパリ風の小粋なバー「ピガール」。
 荒木町は隣町の神楽坂にお株を奪われるまで盛んな歓楽街だった。今でも往時を忍ばせるが、そもそも文人に縁が薄く、いまや芸者が絶滅したから寂れた風情が漂う。「でも、閉店したらすぐ新しい店が入る」と耳にするから、昭和の面影が残る荒木町の神話と幻影は健在らしい。神楽坂が初々しい年増なら、荒木町は盛りの過ぎた年増か。
 四谷見附に近い立ち飲み「鈴傳」で喉を洗い、懐が暖かくてミスマッチを楽しむなら3軒先の「すし匠」(東京寿司ベストスリーに入る)を予約したい。その奥座敷にフレンチ「オテル・ドゥ・ミクニ」。しんみち通りのお薦めは絶品おでん屋「でん」、地酒と家庭料理「都」の2軒。新宿通りの懐かしいジャズ喫茶「いーぐる」(18時までおしゃべり禁止)、居酒屋「萬屋おかげさん」、三栄町に最強フレンチ「北島亭」と繁盛店のたん焼「忍」(予約は5~6時)、荒木町に名物居酒屋「ととや」(仏像面の板前オーナーの笑顔が素敵)、「おく谷」(62歳と思えない板前)、鍋屋「桃太郎」、和食「和膳くつき」、ビストロのパイオニア「パザパ」など選択に迷う。中華と韓国を挙げれば「峨嵋山」と「妻家房」だろう。2、3軒はしごしたら四谷見付に戻り、駅ビル「アルテ」のパン屋「ポール」で525円の土産袋でも買って帰ろうか。

第3回
 タイトルのフランス語と散歩にかこつけて少し苦言を呈したい。散歩で気になるのがけたたましい騒音だ。日本人は慣れているから今さら音の氾濫に驚かないだろうが、街角や駅のプレットフォームに立ち止まると、無神経な音の洪水に恐怖を感じるのは私だけか。
 さて、雪の降る夜は楽しいペチカ、じゃなくて、おっとこれは冗談。話題の池袋と表参道のエチカだ。池袋は東京メトロ乗降客NO1で、これ宣伝につとめ、ヨーロッパ調の造りに「池袋モンパルナス」なんて文化面を強調しているから、さぞやと期待がふくらむ。でも、第一印象のしょぼさはなぜ? 狭いエリアの有効利用は得意だろうに、ぎゅうぎゅう詰めはその限界を超えてセンスの欠片もない。そして東京メトロとフランス語で名乗るくらいだから、食のゾーンは予想通りフランス語を使っているけれど、見たこともない形容詞を名詞の前に置き(普通、形容詞は名詞の後に置く)、しかも前置詞は誤りだ。トイレを探したら、「HOMME」(男性)の表記が飛び込んできた。一瞬、ホモ専用のトイレでも設置したのかと目を剥いた。
 人は見かけが9割と言われる昨今、これじゃ福笑いだ。フランス語を多用するのはフレンチやビストロで、メニューの誤植はご愛嬌で笑えるが、パブリック・スペースはそれでは済まないだろう。フランス語を使えばオシャレだと思う浅はかさと単細胞に敬意を表したい。まあ相応の金を使っているようだし、「神は細部に宿る」国ならばこそ、細心な注意を払って誤植を出さないようにしてほしい。一方、表参道エチカの飲食エリアは流行の横丁的雰囲気で賑わっているから、かろうじて合格点。
エチカを作る前にやるべきことがあるだろう。駅によってバラバラな階段の左右通行を統一し、蜂や蟻の大群が一斉襲撃を仕掛けてくるようで眩暈を感じる広いコンコースに、いっそ、何も考えない子どものような、規制されることを快感に思う国民だから、左右通行を厳重に仕切る頑丈なガードレールでも敷設したらどうか。

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*9月初旬、対談集『覚悟のすき焼き-食という窓からみる13の人生』(仮タイトル)が晶文社から刊行されます。4年余前に同社で出版された『最後の晩餐-死ぬまえに食べておきたいものは?』の第二弾です。収録されているのは松浦晃一郎(前ユネスコ事務局長)、松任谷正隆(音楽家)、五味太郎(絵本作家)、佐藤可士和(クリエイティブディレクター)、大岡玲(小説家)、吉本ばなな(小説家)、三遊亭好楽(落語家)、見城徹(編集者・幻冬舎社長)、石丸乾二(俳優・歌手)、髙田郁(小説家)、真山仁(作家)、平松洋子(エッセイスト)、村上龍(小説家)の諸氏。乞うご期待。
*昨年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。
*昨年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯文より)
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*引き続き第23回の後半を掲載します。
第23回②(2015年8月1日)
 世界中のチーズファンに賞賛されるロックフォールに、いまなお受け継がれる伝承は恋物語である。
 ある熱い夏の日、いつものように羊飼いの少年は羊の群を追い、山間に到着して持参の昼食を取った。ところが戸外が非常に熱かったので狭い洞窟に潜り込む。その場でパンと赤ワイン、ドロッとした凝乳を食べようとしたまさにその時、この世のものとは思えない美しい歌声が耳に響いてきた。ふと戸外に目をやると、可憐な羊飼いの娘が羊の群を追っているではないか。彼は食事をほったらかし、すかさず娘の後を追った。
 それから3か月後、羊飼いが洞窟に戻ると食べ掛けの食事がそのまま残っていた。パンはすっかり青カビにおおわれ、まったく食べる気が失せたが、勇気を出して凝乳のほうを口に入れると、これまで味わったことのない、得も言えぬ美味しさに驚いた。こうして青カビによるロックフォール伝説が誕生したというわけだ。
 昔からロックフォールに病み付きになった人たちは大勢いる。バターのように滑らかで、ピリッと塩味がきき、香りがあってトロリとした舌触りに虜になった有名人のなかに8世紀のシャルルマーニュ大帝、14世紀に「この村以外でロックフォールの名前を使用してはならぬ」と原産地呼称を与えたシャルル6世、稀代のプレイボーイ・カサノヴァなど。
 シャルルマーニュ大帝は食べ始めた頃、青カビをせっせと削って食べていたそうだが、侍従にカビこそもっとも栄養があると進言されて止めたという。カサノヴァの場合は、もちろん女性を口説くための小道具に使ったのだろう。
 ロックフォール村は人口わずか200人程度の静かな村だが、工場が稼動する日はその6倍に膨れあがる。ロックフォール関連で生計を立てている人たちは1万に達する。チーズはこの村の一大産業になっているのがわかる。
 村にはロックフォールメーカーが数社あるが、そのなかの最大手はソシエテ社。ソシエテというフランス語には会社という意味もあるが、考えてみれば、会社という名前のソシエテ社というのは奇妙だ。1824年にチーズ職人や販売業者が集まって創業されたというが、会社名を考える段になって俄然議論が沸騰したらしく、喧々囂々いつまでも決まらない。ほとほと困った挙句、誰かが、「じゃあ、会社だから、そのままソシエテとでもつけようか」と決まったらしい。  
 チーズ作りは至ってシンプルだ。毎朝、搾乳農家が羊乳を工場に納入し、その生乳をベースに毎日8千~1万個が作られる。羊乳は適正な状態かどうか厳しく検査され、合格すればタンクにストック。洞窟で自然に発生する青カビの胞子や酵母菌などが添加し、温度32度で2時間煮沸して凝乳を作る。後は型にはめて水分を分離し、地中海産の粗塩をまぶし、時々上下をひっくり返しながら3日間そのままの状態で寝かせる。それを地下のカーブに搬入し熟成させる。
 特にロックフォールの特徴づけているのが、ペニシリウム・ロックフォルティ菌と呼ばれる青カビだ。洞窟で自然に発生するこのカビを利用することもあるが、通常は焼いたパンを洞窟に入れておいて繁殖させ、それを粉にしてから使用しているという。
 見所はチーズを熟成させる全長数キロに及ぶ、自然にできた洞窟を利用したカーブ(熟成室)である。石灰岩におおわれ冷気が充満した内部はどこも濡れていて、足元に気をつけながら進んで行く迷路は不思議な雰囲気をかもし出す。
 そして、あのロックフォールを誕生させるのに不可欠なのが、自然の奇跡と呼ぶしかない、洞窟内で発生するフルリーヌと呼ばれる独特の気候である。古代から洞窟に流れているフルリーヌとは、適度な温度と菌の胞子を含む湿った外気のこと。それが洞窟の割れ目から入ってきて、ロックフォールの熟成を促すという。年間を通じて温度6~8度、湿度90パーセントに保たれている。こうした自然の温度と湿度と通風が熟成にピッタリ合っているそうだから、まさに偉大な自然の恵みというしかない。
 直径約20センチ、高さ約9センチ、重さ約2、5キロで、脂肪分52パーセント以上のロックフォールが暗い裸電球の下、天上から雫が垂れてくるなか数十万個が木製の棚に並べられている熟成室の眺めは、神秘的で壮観というしかない。
 熟成室で青カビの発酵が始まると、カーブの温度は13、4度に上昇する。その後、室温は低下し、21~25日の発酵期間を経て終了。ロックフォール作りは1年のうち半年しか行われない。というのも、羊の出産は毎年12月で、搾乳はそれに合わせて12月から約半年になるからだ。また生乳を生む羊は、日光すら遠去けなければならないほど繊細な種で、放牧もままならぬというのもその理由である。
 美味なるロックフォールを世に送り出すのがチーズ職人の仕事である。こればかりは機械にゆだねるわけにはいかない。最終的に熟成しているかどうかの判断は職人が定める。それを見極めるために、第一に熟成の度合によって微妙に色が異なるから、色の選別が行われる。次は匂いを嗅ぎわけ、最後はしっかり舌で味わう。
 この3つがチーズ職人に欠かせない重要な作業だが、それこそ長年の訓練と感覚が物をいう。その他、ぬめりがあるか、乾燥していないかどうか、強度の判別も彼らの判断にゆだねられる。いずれにしても、職人に求められているのは、辛抱に耐える我慢強い性格と、長年の訓練と感覚である。まだまだ分からないことばかりだと、私が取材したチーズ職人は語った。長い間、自然の摂理と共生しながらロックフォール作りは行われてきたのである。 
 さて、フランス人はロックフォールにどんな印象を持っているのか。一口にロックフォールといっても10種くらいあり、その味はまろやかなものから、辛目のものまでさまざまだ。熟成の期間と度合によって味わいは微妙に違うが、個人主義のチャンピオンといわれるフランス人だから、それこそ好みは千差万別といえる。
 一般のフランス人は日頃、家庭では他のチーズより割高のロックフォールを食べているわけじゃなく、レストランやビストロのランチやディナーなどハレの場で食べることが多い。イギリスのスチルトンもイタリアのゴルゴンゾーラもブルーチーズで有名だが、ショービニストのフランス人の好物は断然ロックフォール。ロックフォールを使ったソースを肉に添えたり、スライスしてカナッペで食べたり、ラングドック地方の名物タルトに使われたり。 
 ある時、一通り見学が終わり、地下200メートルの洞窟内でロックフォールを賞味した。私も人後に落ちないファン。パリ時代からずっと夜型で、仕事が終わった深夜にワインをともにロックフォールをつまむと、一仕事を終えた充実感が体の芯からにじみ出てくる。そんな人間だから、目の前に3種類のロックフォールが、食べやすいように一口大に切り分けられているのを見て身震いした。その傍にワインが数本置かれている。
 3種類のロックフォールを、現地の洞窟で賞味できる贅沢な機会なんてないだろうから、これを幸運と言わずしてなんと言おうか。それぞれ微妙に味が違うのは別々のカーブで熟成され、しかも熟成期間が違うから。すべて絶品だったのは言うまでもないが、驚いたのはワインとのマリアージュがべら棒に良かったことだ。
 そのワインは、ボルドーの有名な甘口白ワインのバルサック。もともとロックフォールなどブルーチーズは、ボルドーのソーテルヌ系甘口白ワインととても相性がいいが、本場の洞窟で、しかも熟成期間の異なるロックフォールをバルサックと味わったのだから、これはもう至福という以外にない。
 取材を終えてパリに戻った翌日から、私のささやかな遍歴が始まった。日中近所のマルシェでロックフォールを買ってきては、夜になると甘口白ワインを飲みながら食べる。まず洞窟体験にならってバルサックからスタートし、ソーテルヌ系のワインを数種類飲み干した。それだけでは飽き足らず、やがてフランス各地の甘口白ワインに食指を伸ばした。ボルドーからアルザスへ飛び、遅摘みワインを味わい、そこからフランスを横断して、ペリゴール地方に近い南西地方のモンバジアック、その下にあるピレネー山脈の麓で作られるジュランソンの甘口白ワインに挑戦。
 さらに踵を返して、今度はフランスの西から東に横断して、ジュラ山脈の麓で作られる珍しいヴァン・ジョンヌ(イエロー・ワイン)を買い求めた。そして最後にたどり着いたのが、ラングドック・ルシヨン地方の甘口ワインのバニュルス、モリ、リヴザルドなど。
 いまはあまり飲まれなくなり生産量はグッと減ったが、これらの甘口白ワインはフランス人にとってひどくノスタルジーを誘うらしい。
 私が何度も同じチーズ屋に通うものだから、マダムと親しく口を聞くようになって、その理由を訊ねたら、
 「昔はフランスの子どもたちが病気になったときなんかは、母親からスプーン一杯の甘口白ワインを飲ませてもらったのさ。やっぱりお酒だからそんなにおねだりできなかったけどさ。でも、甘くて美味しいから、つい手が出すの」
 なんて色っぽくウインクする。
 「だから甘酸っぱい記憶がいつまでも残っているわけなの」
 他にもそんな思い出を懐かしそうに話すフランス人もいた。いわばフランス版たまご酒といったところだろうか。 
 この間、甘口白ワイン遍歴のお供になった青カビチーズはロックフォールだけでなく、ブルー・ドーヴェルニュ、フルムダンベール、ブレス・ブルー、サンタギュールなどフランス産だけでなく、果てはイタリアのゴルゴンゾーラやイギリスのスチルトン、デンマークのダナブルーなどへと進み、私のチーズ遍歴はヨーロッパ各地へ広がった。甘口白ワインとブルーチーズを求めて国内外の地図上を散歩するうちに、私の体重は無慈悲にも確実に増えていったのである。
 肥満で思い出すのがミモレットやコンテ、グリュイエールなどを使ったリゾットだ。そういえば黒澤明監督はイタ飯が好きだったようで、好物はアルデンテではなく、ふっくらして柔らかいリゾットにパルミジャーノをたっぷりかけ、時にはバターやエクストラバージンオイルをかけたという。私もそれを真似てパルミジャーノに代わり、フランス派としてはフランス産のミモレットやコンテ、グリュイエールをたっぷりかけて食べた。それもまた肥満の要因だったろう。
 パリで暮らしていた頃はフランス産チーズをよく食べた。これまで挙げてきたブリやカマンベールの入門編から始まり、シェーヴル、青カビチーズ、セミハードやハードタイプ、サン・タンドレやモン・ドールやエポワスなどなど、私の体を通り過ぎていった数々の忘れがたいチーズ。
 私の肥満を形成する何十分の1かはフランス産チーズに起因していることは間違いない。で、その頃に戻りたいかと聞かれたら、やはり「Non!」だろうな。
                                      
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*昨年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。
*昨年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯文より)
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*引き続き第23回の前半を掲載します。
第23回①(2015年7月15日)
 引き続きもう1度チーズについて書かせてほしい。
 フランス人にとってワインを生産しない地方はあってもチーズを作らない地方はない、というのが大いなる自慢である。たとえば、牛や羊を飼うための牧草も生えないような荒地でさえ山羊ならば生息できるし、その山羊の乳からシェーヴル・チーズが作られる。一説には国内生産されるチーズの種類は400とも500とも言われ、毎日どこかで新しいチーズが誕生し、同時にどこかでひとつ消えていくらしい。
 かつて、フランスの威厳と権威を体現したような「国父」ド・ゴール大統領が残した有名なセリフに、「こんなにチーズのある国を治めるのは至難の業である。それに比べて、ソースが3種類しかないイギリスを治めるのはたやすい」がある。当時はまだEUが成立する以前で皮肉たっぷりに言ったとか言わないとか、それほどチーズの種類が多いのだ。
 周知のように日本人旅行者の食欲と胃袋はフランス人に敵わないので、パリのレストランでフルコースを食べても、だいたいがメイン料理あたりで満腹になり途中でギブアップする。だから、必然的にチーズにまで手が伸びない。フランスで楽しい食事をしてもチーズの思い出が欠けているのは、そのためだ。
 まずはフランスチーズの代名詞になっている「カマンベール」から。一地方の特産品でしかなかったカマンベールが、一躍世界的に知られるようになるいきさつは、前回取りあげた「ブリ」に似ている。
 カマンベールの故郷はパリ近郊のノルマンディ地方である。酪農地帯として知られるこの地方は、穏やかな風景がなだらかに続き、緯度的に北海道に近いから日本人の気持ちに合うようだ。私は何度もこの地方を車で訪れ、チーズが村名となって連なる、チーズ街道とも言うべきカマンベール村やポンレベック村、リヴァロ村でチーズを買ったり、この地方の名産品シードルや年代物のカルヴァドスを車に積んでパリに戻ったものだ。
 カマンベールにまつわる逸話はよく知られている。いまから200年余り前、ノルマンディ地方の小村に住むマリ・アレルという農家のおばさんが作ったチーズをナポレオン1世に献上したところ称賛されたという。ところが、これとは異なるエピソードもあって、時代が下りマリ・テレルという同じ名前の若いマリが、ナポレオン1世の甥に当たるナポレオン3世に献上したという話も残っている。いずれにしてもナポレオンといいマリといい、彼らのおかげでカマンベールは世に知られるようになった。村を有名にしてくれたマリおばさんの像が村に建てられているが、これはカマンベールでひと儲けしたアメリカ人が1928年に建てたものだ。
 次いでチーズにまつわる政治的話題をひとつ。10年ほど前までフランスでもっともメディアを賑わす人物と言われたのが、ジョゼ・ボヴェという農民である。当時のシラク大統領や社会党のジョスパン首相はじめ多くの政治家が彼を表敬訪問した。英雄視され大統領選にも立候補した彼が来日した折、私も多少なり関心があったので、知人に誘われ講演を聞きに行った。会場は決起集会のような騒然たる雰囲気だったが。
 じつは、99年8月に発生したファストフード焼き討ち事件の首謀者だったのがジョゼ・ボヴェで、一躍反グローバリゼーションのリーダーとして時代の寵児に祭り上げられた。焼き討ちされたのは仇敵のマクドナルド。場所は有名な青カビチーズのロックォールを生産する村に近いミヨー村である。事件の原因は、成長ホルモンを使用したアメリカ産牛肉の輸入を禁止したEUに対して、アメリカが取った対抗措置である。食大国フランスは、以前から農業問題に関してEU内で常に強硬な姿勢を取ってきた。たとえば、ワインやチーズをはじめ高級農産物を生産するから、他国から低価格の農産物が国内に輸入されることにたえず目を光らせ、国内価格の値崩れを警戒していた。
 従って、安全性が保証されないアメリカ産ホルモン牛のEU輸入に強硬に反対する立場を鮮明にしたのである。それに対するアメリカ側の回答が、EU産の高級食材に100パーセントの関税を課すという強硬手段だった。当然、対象となるのは主にフランスの食材。他国の食品でフランス産を凌駕する農産物は少ないからで、槍玉に上げられたのがフォワグラやチーズである。
 アメリカの措置に怒ったのがロックフォールの生産者である。「ブルーチーズの王様」と称えられ、世界各国に輸出されて多くのファンを持つ、おらが村のチーズが対象品目に入っていたからだ。こうしてボヴェ一派がアメリカの「侵略」のシンボルであるマクドナルド襲撃したのである。事件後、リーダーだったボヴェは逮捕・収監された。
 いったい、なぜ一農民に過ぎなかったボヴェが国民的英雄になったのか。それは、ボヴェがアメリカの禁輸措置がロックフォールという国有財産に匹敵する農産物に及んだことに憤激し、徹底的に闘ったからだ。つまり、フランス人固有の食の快楽と官能と追憶に敵対するものに対して不退転の決意と信念を誇示した、そんなボヴェの不屈な闘志が国民的な支持を得たのである。マスコミを含め大多数のフランス人が、自国の農産物を守るためならばボヴェの暴力を肯定する、という他国では考えられないような暗黙の合意に達したのである。
 閑話休題。
 数あるブルーチーズのなかで私が好きなのは、このロックフォール。フランスには世界一厳しいと言われる品質検査のAOC(原産地管理呼称)があり、ワイン同様チーズにも適用される制度で、1925年にロックフォールはチーズとして初めてAOCを与えられた。
 生産地は南仏地中海沿岸から100キロほど内陸に入った中央山塊の南に位置し、周囲はロックフォール一色に染まっている。辺鄙な場所だから車を使わないとたどり着けないので、さすがにこの村を訪れるフランス人は多くないが、私はパリ滞在中3度ほどこの村を訪れた。周辺はブドウも麦も育たない不毛地帯だから、唯一ロックフォールが村の財産といえる。
 村は標高千メートルほどの台地にあり、そこからの眺望は素晴らしく、今度は反対の山並みまで行きロックフォール村を遠望すると、天空のラピュタのように山裾にぽっかり浮かんで見える。聞けば数万年前、大地震か地殻変動によって周囲が陥没し、谷間に残されたのがロックフォール村だという。その当時、地中海は目前に迫っていたそうだ。
 ロックフォールはフランス最古のチーズと言われ、その歴史は2千年以上も前にさかのぼる。かのジュリアス・シーザーが、フランスの前身であるガリアを征服した時に賞味したという記録が残っている。

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*昨年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。
*昨年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
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*引き続き第22回の後半を掲載します。
第22回②(2015年7月1日)
 通常、手頃な値段のレストランやビストロのコースメニューは3皿注文できる。つまり、オードブルとメインの後に、食べる人の好みによって残る1品を、チーズかデザートのどちらかを選択しなければならない。日頃は食事の最後を甘いもので終わらせたいと思っているので、デザートを抜くのはしのびがたい。というのも、一般にフランス料理は砂糖を使わずに隠し味に酢を使うことが多く、日本料理で感じる甘さが少ないので、どうしても甘味の多いデザートを食べる傾向にあるからだ。だからといって大好きなチーズを外すわけにはいかない。というように、みなさんハムレット的な悩ましい心境に陥るわけで、その辺りの気持ちを先のコリッシュが代弁したのだ。
 庶民的なレストランだと、仮にチーズを注文したならば、限られた種類だがチーズの盛り合わせをドンとテーブルに置いたウエイトレスが、
 「好きなだけお食べ!」
 と気前よく言い放っていくから思い存分食べられる。でも、その場合デザートは涙を飲んで次回へ先送りにするが。もっとも、高級レストランならコースメニューにチーズもデザートも含まれているから、そんな悩みは解消できる。両者ともワゴンに乗って運ばれ、ウエイターがチーズとデザートをあれこれ説明した後で好きなものを選べる。なおチーズを食べる時のワインはどうか。本来はチーズに合ったワインを選ぶべきだが、友人知人がそれぞれ異なるチーズを選んでいる。そうなると予算がふくらみ収拾が付かなくなるから、通常はどのチーズにも合うよう赤ワインを飲む。
 ともあれ、フランス人の食生活に欠かせないのがチーズで、よく日本の漬物に比べられる。最近は漬物を食べない日本人が増えているそうだが、フランスでチーズを食べない老若男女はいない。だいいちチーズを食べないと食事が終わった気分にならないらしく、満腹感を得られないからだ。たとえば、病院食でもリハビリセンターの食事でも、しっかりチーズが出てくるし、おまけに病院のディナーにボトル4分の1の赤ワインも出てきたりするから驚く。
 いっぽう、ここ20年ほどフランス人のダイエット志向は強まり、食生活の変化が随所に見られる。ダイエットに励み脂肪分の多いチーズを食べない若い女性の冷蔵庫のなかには、もはやミネラルウォーターとヨーグルトだけしかない、なんていう極端な場合もある。でも、よく見ると、その脇にちゃっかりチーズがあったりするけれど。
 フランス人の一人当たりの年間チーズ消費量は約20キロ、つまり1ヶ月に1.7キロほど食べている。どんなに豪華なメニューでもシンプルなメニューでも、どんなに満腹であろうとも絶対に外さない。チーズに関しては別腹というのがフランス人の考え方で、その場合のお供は赤ワインが多く、チーズのために赤ワインを必ず残しておく。もし1本開けて飲み終ってしまったら、もう1本開けるというように。
 パリに住んでいた頃、仕事でフランス人カメラマンと地方を回り、翌日パリに戻る車中で、
 「帰宅したら最初になにを食べたい?」
 なんて聞くと彼らは一様に、
 「もちろんビフテキ・フリット(ステーキと付け合せのフレンチポテト)。焼くのが面倒な時はバゲットにチーズ!」
 と疲れていても嬉しそうに頬が緩む。いずれにしても、フリット派もチーズ派もお供はオーディナリーな赤ワイン。疲れて帰宅した日本人に置き換えれば、さしずめご飯に納豆に味噌汁、あるいはお茶漬けに漬物、それに日本茶といった感覚に近いだろうか。
 一般にリーズナブルなレストランやビストロではチーズはメインを食べ終えた後のデザートの前に、木製の四角いプラトーと呼ばれるプレートに載せてテーブルまで運ばれる。そのプレートに添えられたナイフを使って、自分の皿に取り分ける。それをバゲットやレーズンパンと一緒に食べるか、時にはライ麦パンやくるみパンなどと合わせたり。そしてチーズを、ヴィネグレット(酢とオイルベースのドレッシング)で味付けたシンプルなサラダと一緒に食べることが多い。
 プレートに載せられたチーズはどんなものか。たとえば「ブリ」「シェーヴル」「トム・ド・バスク」「リヴァロ」「ロックフォール」「ブルー・ドーヴェルニュ」「コンテ」、ハーブをまぶしたコルシカ産羊乳チーズなど。白カビチーズをはじめウォシュタイプや青カビチーズなどバラエティに富み、食感や味や見た目のバランスを考えながら用意されている。高級フランス料理店を測るバロメーターのひとつが、チーズの品揃えにかかっていると言われている。家庭では種類は少ないが、冷蔵庫のなかには必ず保存されている。
 寒い季節が到来すると、子どもたちのいる家庭でよく作るのが「ラクレット」。アニメの「ハイジ」に出てくるチーズとして知られているが、可笑しいのはフランス人でハイジが日本製だと知る人はまずいない。かつてそのアニメがテレビ放映されていたが、みなさん原作はスイス人が書いたと信じて疑わなかった。
 このラクレット、もともとはラクレという動詞(「削り取る」の意)から派生した名詞で、料理や製菓用の「へら」とか、料理用語の「ラクレット」とかになった。昔から熟成したチーズを火にあぶり、溶けた部分をナイフでこそぎ落としながら食べることから、今ではそのチーズ自体をラクレットと呼ぶようになった。スイス産が有名だが、むろんフランス産のラクレットも同様に美味しい。
 フランスの家庭では、ジャガイモやソーセージやアスパラなどの上に薄くスライスしたラクレットを乗せ、ラクレット用の小型オーブンで焼いたとろとろに溶けた熱々を食べる。香ばしいクリーミーな、トロリとした食感がなんとも言えず、ラクレット・パーティーの後は異常な満腹感に襲われる。一緒に飲むのはアルザス産などの白ワインが多い。
 私たち日本人に馴染みのフランス産チーズの話をしよう。トップバッターは、昔からパリっ子が愛してやまない癖のないクリーミーなブリ。どうやら8世紀頃から食べられていたようで、一躍世に知られるようになったのは、19世紀初頭に開催された「会議は踊る」で有名なウィーン会議である。発端は、1年もだらだら続いた長引く饗宴外交に痺れを切らした、そんなある日のこと、余興でおらが国のチーズを持ち込んで世界一旨いチーズ・コンテストが開かれたことからだ。発案者はフランスの老獪な政治家タレーランで、彼は自国産の「ブリこそ世界一!」と強く推した。これに激しく抵抗したライバルのイギリスが推挙したのが「スチルトン!」。いっぽう、オランダは「絶対にリンバーガー!」と反撃に出た。
 各国が頑強に自国のチーズが最高だと一歩も引かなかったが、結局50種類を超えるチーズのなかから選ばれたのがブリ・ド・モー(モーは村名でモー産)だったという。こうしてヨーロッパ列強が集まる国際会議で晴れてチーズの王様に選ばれたのだ。おかげでフランスの一地方のチーズが世界的に知られるようになったというエピソード。
 ブリ好きはルイ14世もルイ16世も人後に落ちない。とりわけ目がなかった16世はフランス革命で失脚し、ほうほうの体でパリから愛妻の故郷ウィーンに向けて逃亡を企てたものの、ブリ村に近いヴァレンヌという町で逮捕された。その際、無能だけれど食いしん坊だった16世はワインとブリを所望したと言われ、実際に食べたという。フランス革命が成功した頃、ある革命家が「ブリ・ド・モーは金持ちにも庶民にも愛され続けている。革命が起こることすら想像できなかった頃から、ブリは人びとに平等を説いていた」と述べたそうだ。
 さて、大きいもので直径35センチもある、円盤型の白カビチーズのブリを、パリっ子は午前中に開かれるマルシェで食べたいだけ切ってもらう。チーズ屋のおばさんが、慣れた手つきでブリを切る手元に、舌なめずりしながら熱い視線を浴びせるパリっ子。都市生活者の例にもれずパリも核家族が多いから、たいていの場合、大きなブリを中心から45度の角度で切った8分の1を買う。それをビニールと紙で二重にした包装紙にくるりとくるんだ三角形のブリは、パリっ子の食卓に欠かせない大切なご馳走である。
 かつてパリを囲むイル・ド・フランス(フランス島)は豊かな食の大地だった。セーヌ、マルヌ、オワーズという3本の雄大な川がもたらす肥沃な盆地は大消費地のパリを抱え、豊富な食材を供給し続けてきた。ルイ14世の大好物は、パリの北西十数キロにあるアルジャントゥイユで作られるアスパラガス。第二次大戦以前のアルジャントゥイユは、ルノワールらの印象派画家が好んで描いたひ なげしが咲き誇る田園地帯だった。
 また、フランス人が皿の上に乗っているのを見るだけで、子どもの頃に食べた給食を思い出すというグリンピースの特産地は、パリ西南10キロのクラマールである。現在はアルミとガラスの近代建築が立ち並ぶ、一大ビジネスセンターに変貌したデファンス地区にしても、昔はブドウ畑に一面覆われていた。そうした食の大地は近代化の大波とともに潰え、今やイル・ド・フランスで作られる農作物はわずかしかなく、パリっ子の胃袋を満たすにはとても足りない。
 そんな状況のなかで、イル・ド・フランス特産品としての誇りを守っているのがブリ・チーズである。数ある白カビチーズのなかでも王座に輝くブリは、パリから東に約40キロのモーという町と、そこから南に少し下ったムランが主な産地だ。癖のないモー産の方がパリっ子に人気があるようだ。

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*昨年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。
*昨年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご覧ください。

*引き続き第22回の前半を掲載します。
第22回①(2015年6月15日)
 最近は海外に出かける日本人のレストランでのマナーが板についてきた。ところが、気の知れた仲間同士で食事をしていると、つい気が緩むのだろうか、日頃は慎んでいるマナー違反がついと顔を出す。一般にフランスのレストランでサービス係りが嫌う、決して褒められない日本人による3大行為を挙げるとすれば、「グルグル皿回し」「飲んだワインのラベルを全部はがしてもらう」「写真を撮りまくる」。
 それぞれ説明するまでもないだろうが、「グルグル皿回し」といっても猿の皿回しじゃなく、たとえば4人が4種類の異なる料理をオーダーして、それぞれ四等分に切った皿をグルグルとテーブルの上で回すこと。旅行者的感覚からすれば、その共愛の精神に満ちた気持ちも分からないわけではない。ましてパリの高級店に行く機会など滅多にないだろうし、一生に一回行けるどうかさえおぼつかない。その点はフランス人とて同じことで、ミシュランの3つ星に行くことなど一生に一度あるかないかという人が大半だから。だから、みんなで料理のエッセンスを味わったり楽しんだりする観点からすれば、間違っちゃいない行為だろう。生涯の楽しい思い出として記録に留めておきたい気持ちも分かる。
 でも、フランスの3つ星で食べたという事実は自慢できるだろうが、やはり高級店ではやってはいけないマナー違反と言わざるを得ない。なぜならば、基本的にフランス料理というのは、大皿で取り分けるスタイルは別にして、一皿の上に素材やソースや付け合わせなどすべての要素が渾然一体となって完璧に作られている料理だから。フランスでも日本でも、フレンチレストランのテーブルに塩やら胡椒やらが置かれていないことが、その証左だ。ずいぶん堅いことを言っているとは思うけれど、その点は忘れないでほしい。
 正直に言えば、私も時に皿回しをする。どうやらこのやり方は日本人特有の行為らしい。ヨーロッパ人を見ていても、そんなことをする人はほとんどいない。それにワインを選ぶ場合も皿回しをしては困る。各人の皿の上にバラバラにされた異なる料理の断片が4品並ぶと、厳密に言えばすべての料理に合うワインを選ぶのは難しいからだ。そんなワインなんておそらく選択できないだろう。とはいっても、私としては他の客に迷惑がかからなければ料理を切り分けようが、どんなワインを選ぼうが大目に見てあげたい。ただフランス料理の原理原則だけは知っておいてほしい。
 次の「ワインのラベル問題」。これも致し方ないと思う。時間と金をかけて遠路はるばる憧れのパリに来て高級店で食べるのだから、飲んだワインのラベルを思い出として手元に残しておきたいだろう。ただ私は、何もラベルを求めるなと言っているわけではなくて、日本人が揃いも揃って全員すべからく横並びの如く所望することが奇妙だと申し上げているのだ。他国の旅行者は、ラベルをはがしてもらってまで持ち帰ろうとはしない。
 将来が見えにくい不安な社会といっても、いまなお日本は世界3位の金持ち国家。東南アジアの躍進中の国々とは違い、もはや立派な成熟社会である。そんな国の住人が、相も変わらず駄々をこねる子どものようにラベルをおねだりするのはいかがなものか。ソムリエやワイン通や年季の入ったラベル・コレクターならいざ知らず、一般人はそんな要求をそろそろ願い下げにしたらどうだろうか。その銘柄と味覚を頭の中に記憶するだけでいいのではないか。もちろんソムリエに頼めば喜んでラベルをはがしてくれるが、それほどの高級ワインでもない限りもう止めよう。
 最後の「写真をパチパチ取りまくる」は見苦しく、周りから見ても感じがよくない。料理が揃ったところで会食者全員が中腰になり、いっせいに撮り始めるシーンを私もレストランで見たことがある。さすがにパリでは、そんなはしたない光景はあまり目にしないけれど、東京のレストランでは時折見かける。ブログにでも掲載するつもりなのだろうが、顰蹙を買う行為だ。なかにはネットで実況中継しているアホがいて、さらにびっくり。これじゃ料理人が精魂こめて作った温かい料理が冷めてまずくなる。これまた日本人特有の習性から来る不作法だろう。
 ともあれ、レストランというのは厳然たるパブリックな場であり、常に見知らぬ他人の眼差しにさらされている場であることを深く胸に刻んで事に当たってほしい。ちなみに、レストランで最高の席はどこか。それは常連の指定席となっているダイニングの中央あたりで、客の美しい姿形と食べるマナーを見てもらえるよう店側が配慮するからである。とかく日本人は客室のコーナーに座りたがるが、これも日本人特有の心理的な問題かもしれない。
 閑話休題。
 東京でナチュラルチーズが手の届かない高級品だった時代も、本家フランスではむろん日常食である。1970代後半に渡仏した私は専門店やスーパーで数多くのチーズを目にして仰天した。以前書いたように、パリの片隅にある公園でホームレスが輪になり、市販のペットボトルに入ったワインをがぶ飲みしている光景にカルチャーショックを受けたのと同様、彼らがぶ厚く切ったチーズをはさんだバゲットを口に放り込んでいたことにも驚いた。
 いまはプロセスチーズと区別する意味で、わざわざナチュラルチーズと書く必要はない。東京のおしゃれな町ならチーズ専門店の1軒もあるだろうし、私の住む神楽坂にもある。石鹸と見まごうプロセスチーズで育った世代にとって、デパ地下やスーパーに並ぶ豊富なチーズの品揃えには言葉を失う。
 80年代から始まったフランス食品の日本への登場は、21世紀を迎えてシャンパンやワインを頂点に全種類そろった感がある。そのなかでチーズの出番はワインに先行されてなかなか訪れず、一部のファン以外に普及しなかったが、近年ワインの名脇役ともいうべきチーズにようやく日が当たるようになったことは喜ばしい。
 癖のある独特の風味というイメージが強いチーズに、パリに暮らした私は慣れ親しんだ。たとえばニンニク入りのチーズと聞けば、日本人なら誰だって「?」マークが頭のなかに点灯するはずだ。このガーリックの独特の風味を持つのが「ブルサン」。日本人なら滋養食でも臭いのきついニンニク入りのチーズを思い浮かべるが、実際にはそんなイメージからほど遠く、滑らかで口当たりが良い。生クリームで延ばしたブルサンを、ラディシュ(ハツカ大根)ですくってカリッと食べるとまことに旨い。日本でも3種のブルサンを買える。
 南仏や南イタリアの小さな町や村の裏通りを歩くと、アパートの窓から吊るされた大量のニンニクを見かける。昔から食材としてのニンニクの効用はよく知られているし、イタリア人に言わせれば、ニンニクはパスタに欠かせない3種の神器(他にトマトとオリーブオイル)であるそうだ。
 そのブルサンとテレビCMにまつわる話題に触れよう。フランスではテレビは家庭内でそれほど重きを置かれていない。家族みんなで一緒に見るわけではないし、部屋の片隅のぽつんと置かれている。そしてCMが消費者の購買欲にほとんど影響力を及ぼさないから、のべつ幕なしに大量のCMは流れない。CM天国の日本に比べたら質量ともに周回後れのレベルに過ぎない。現在のようにテレビが朝から夜中までノンストップで放送されるようになったのは、たかだか1980年代に入ってからである。かつて公共放送は政権の監視下に置かれていたから(公共放送は現存する)、おのずから強力なCM規制が働き、CM文化が発展する余地がなかったのである。
 そんなテレビに初めてCMが流れたのは68年のこと。その第一回の記念すべきCMにガーリック風味のブルサンが登場したというわけだ。内容は、パジャマ姿の男性がその5年前に発売されたブルサンを食べるといった、到ってシンプルなもの。私はパリ時代、25年前に放映された、そのCMを回想するといったような番組で、当時のレトロっぽい映像を見たことがある。じつはこのブルサンのCMが誕生するまでに、4年という歳月がCM認可問題をめぐって侃々諤々議論されたという。
 周知のようにフランス人のチーズ好きは半端じゃない。よく耳にするのはナポレオンとその妻ジョセフィーヌの逸話である。なんでも妻のチーズ匂に辟易したナポレオンが求められた性愛を断ったというもの。あるいは、19世紀初頭『美味礼賛』(原題は『味覚の生理学』)を出版した美食家のブリア・サヴァランの言葉を挙げよう。同書のなかで数々のアフォリズム(警句)を書いているが、よく知られているのが、「君の食べたものをいいたまえ、さすればキミがどんな人物は当ててみせよう」。チーズに関しては、「チーズのない食事は、片目のない美女のようなもの」があり、チーズ好きのフランス人の面目躍如だ。ところで、かつてパリから送った美食についての原稿にこの表現を引用したら、編集者から指摘され「片目の不自由な美女」に訂正させられた。日本では片目のない美女という表現は差別用語だと言われて。
 彼らフランス人にとってチーズは命綱みたいなものだから、絶対に食事に欠かせない。そこで思い出すのが毒舌でならし、一時代を築いたコリッシュという人気喜劇役者。映画やテレビで大活躍し、果ては大統領選にまで出馬した。社会的弱者のためボランティアに参加して絶大な支持を得た。この手の人気者は各国にいるが、さしずめ日本ならビートたけし、イタリアなら話題になった「五つ星運動」のリーダーのベッペ・グリッロ。今は亡きコリッシュが残した名言が、「人生には選択を迫られる時がある。それはチーズを選ぶか、デザートを選ぶか」である。

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*昨年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。
*昨年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
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*引き続き第21回の後半を掲載します。
第21回②(2015年6月1日)
 折角の機会だから、フランスの誇る国有財産ともいうべきコニャックの知られざる魅力を少し述べよう。近年は度数の強いアルコール離れが進んでいて、銘酒コニャックの存在すら忘れかけられているのがとても残念だ。
 通常コニャックといえば、食後にサロンのソファで大ぶりのチューリップ型のグラスでちびちび舐めるように飲む、というのが一般的なイメージだ。むろんそんな飲み方が今でもヨーロッパでは主流だが、アルコール度の強いスピリッツを敬遠しがちなユーザーが増えたからコニャックの魅力が伝わらず、特にフランスの若者は自国の誇る銘酒の深い味わいを知らずに終るという、生産者・消費者ともに不幸な状態に陥りかねない。
 時代遅れで古典的なイメージでは先が見ているからと、21世紀になって新しいコニャックの飲み方を打ち出そうとキャンペーンを展開している。先のカミュ当主が話したように、コニャック離れの若者にアピールするためにメーカーもマーケティングに乗り出した。その結果、大手各社がカクテル用の新しいタイプの新製品やコニャックを販売するようになった。
 フランスではワインやシャンパンに比べコニャックの国内消費量は少ない。もともと海外商品として位置づけられているにしても、フランス人の食生活に欠かせない、ディジェスティスのトップランナーがコニャック。ところが、90年代から飲酒運転の取締りが厳しくなり、食後にコニャックを飲むといった図式に陰りが見えはじめた。それが現在まで尾をひき、世界に誇るコニャックの消費量の低下につながっている。
 新しい飲み方のキャンペーンでは、好きな時に気軽に自由に家庭でオン・ザ・ロックや水割り、トニック、ソーダ、オレンジジュース、フランボワーズ・リキュールなどで割るカクテルを薦める。またレストランやビストロ、カフェでアペリティフや食中酒としてオシャレ感覚で飲んでもらおうというもの。
 カラフルなカクテルは、いっせいに花々が咲いたような華やかな花園を連想させる。パリでもカフェやバーのカウンター、家庭で気軽に飲みながら、パリジャンのお喋りも盛り上がる。新しい飲み方の提案はコニャック新世代の台頭につながっているものの、なかなか定着しない。苦吟しながらもコニャックの大衆化と民主化のスタートが切られたようだ。
 ともあれ、激動の栄枯盛衰の数世紀を生きのびてきたコニャックは、人類がこの世に残した偉大な作品といえるだろう。 でも、大方の日本人にとっては、「銘酒コニャックがフランスで作られているのは知っているけれど、コニャックという町で作られていることなんて知らない」「コニャックとブランデーってどう違うの?」といった程度の認識だろう。日本人だけじゃなくて、コニャック大消費国のアメリカやイギリス人の認識も似たようなものだ。酒に関して通でもなければ、コニャックという町がいったいフランスのどの辺りに位置するか知らないだろう。昔から高級酒のイメージが強い名前だけが流布していて、その歴史や生産地についての情報はまったく行き渡っていないのは実情だ。
 じつは、コニャックの生産地コニャックという町がフランス南西部に存在する。大西洋岸に近いワイン産地ボルドーから内陸に入ったところにある、人口2万ほどの町で、中心を流れるシャラント川を通じて国内外へコニャックが出荷された。コ文字通りニャック市はコニャックの生誕地である。
 いっぽう読者諸賢のなかにはアルマニャック愛好家もいるだろう。フォークロアを感じさせる渋い味わいで、コニャック同様にフランス産ブランデーとして知られている。だが、名声はコニャックの後塵を拝し、それほど世界的な銘酒として認知されていない。その理由は、近世になって両者のコニャック貿易への対応が違ったからだ。17世紀にコニャック市民の中からワイン商人が誕生し、北ヨーロッパ諸国と貿易を始め、やがてワイン商人に代わってコニャック商人が歴史の舞台に現れる。彼らは北ヨーロッパのみならず世界各国を相手に貿易しながら、外国貿易の何たるかを学習していった。ところが、アルマニャック商人はそうした訓練を重ねる機会に恵まれなかったために、コニャックの世界的な知名度に比べて地方特産品の立場に甘んじざるを得なかったという。
 そもそもコニャックとは、白ブドウを発酵させたワインを、さらに蒸留してオー・ド・ヴィ(生命の水)と呼ばれるもの作り、それをオーク材の樽で長期熟成してから何種類ものオー・ド・ヴィをブレンドして作る蒸留酒のこと。だから、ワインと違い原則的にヴィンテージ・イヤー(銘醸年)は存在しない。コニャックにとってシャンパンと同様、ブレンドという各社の秘法こそが重要な作業なのである。
 中世の頃は、オー・ド・ヴィは文字通り生命を救う医薬品として利用されたが、いまは広くブランデーと称される。コニャックやアルマニャック以外にブドウを原料として作られるのがフレンチ・ブランデー、リンゴを原料にするカルヴァドス、サクランボや洋ナシ、プラム、ベリー類などで作られるフルーツ・ブランデーなど。その代表選手が熟成したオー・ド・ヴィをブレンドして作ったコニャックで、フランスは質量ともに世界一のブランデー大国である。同じくドイツやイタリア、スペインやロシア、東欧でもワイン蒸留型のブランデーが生産されている。
 いっぽう、ブドウからワイン果汁を作ったあとの残りかすを再発酵させて蒸留したものを、所謂かすとりブランデーと呼ぶ。代表的なものはフランスのオー・ド・ヴィ・ド・マール(略称マール)とイタリアのグラッパ。年代物の極上のマールの味を覚えるとやみつきになるからほどほどに。
 コニャックの生産はワインやチーズと同様、公共機関によって施行された、世界で一番厳しい商品管理法であるAOC(原産地管理呼称)によって規制されている。規定されるのは生産地区、原料ブドウの品種と栽培、蒸留・熟成法などで、それ以外の方法で生産されたものはコニャックとは呼ばれない。
 ピノーという酒をご存じだろうか。コニャック地方では発酵していないブドウ果汁に、コニャックを添加して樽熟成させた甘口の酒をピノー・デ・シャラントと命名して生産している。残念ながら日本では滅多にお目にかかれないが、とろりとした味わいは奥ゆかしくて懐かしい。ぜひお試しを。この種の甘口白ワインを代表する貴腐ブドウから作った、ボルドーのソーテルヌ産は日本でも入手できる。昔はフォワグラなんかに合わせてこの種のワインを飲んだものだが。
 ピノー伝説を一言。16世紀末のある日、ブドウ栽培農民が発酵前のブドウ果汁を誤ってオー・ド・ヴィ(当時はまだコニャックの呼称は存在しない)の入った樽に注いでしまった。数年後その樽の存在をすっかり忘れていた農民が思い出して一口飲んだところ、素晴らしい味に変化していたことに驚いたという。偶然生まれた伝統のピノーは世代を超えて作られている。
 さて、先のように蒸留されたオー・ド・ヴィを詰めた新樽は、「シェ(酒倉、セラー、貯蔵室)」と呼ばれる薄暗い酒倉に運ばれる。樽には収穫年、等級、樽詰め責任者、社名などが独特の美しい書体で記載される。この地方の伝統的な石造りの建物である酒倉は、地下の酒庫に保管されるワインとは異なり地上に建てられていて、そのなかは自然の温度と湿気が保たれる。両者の絶妙なバランスが熟成プロセスに決定的な影響をおよぼすのだ。
 酒倉で保存された新樽から溶け出す、ポリフェリーノを含むタンニンやバニラ風味のバニリンが浸透して無色透明のオー・ド・ヴィが琥珀色に変化し、「ランシオ」と呼ばれる、15年以上熟成された古いコニャックが持つ独特の風味が形成される。ランシオとは、熟成されながらオー・ド・ヴィの脂質の成分が分解され、森のなかの枯れた下草やキノコの匂いのような、渋くてかび臭いアロマと風味を指す言葉だ。
 熟成期間は各社によって異なるが、一般的には2年間。その期間がすぎると古樽に移される。なかには新樽から溶け出す過剰なタンニンによって原酒の繊細さが減殺されるという理由で、最初から古樽を使用するメーカーもあるそうだ。
 熟成を経るうちに樽を通して空気に触れているためオー・ド・ヴィの容量は少しずつ蒸発して、アルコール度数も減少していく。蒸発した分には同質のオー・ド・ヴィを補充するが、こうして自然に蒸発したものは「天使の分け前」というポエティックな名前で呼ばれる。大気中に発散されるその量は膨大なもので、金額に換算すれば巨額となり、年間ボトルにして2000万本以上、フランス人の年間消費量に相当するという。口の悪い人にかかれば「天使の分け前」ではなく、「天使の分捕り」となる。
 コニャックの町にあるメーカーの酒倉界隈には、得もいわれぬ馥郁たる香りがプーンと漂っている。また同時に酒倉の壁面が黒ずんでいることに気づく。蒸発した「天使の分け前」で気化したアルコールを栄養にして生きている微生物のなせる技である。
 古樽によるコニャックの熟成は最長50年まで行われる。熟成が完了した以降は、「パラディ(パラダイス)」と呼ばれる部屋に移され、ガラス製の籠入り大瓶に移される。それ以後もコニャックは何年も歳月を送るが、もはや空気に触れることがないので熟成は停止する。各メーカーはそれぞれ自慢の「パラディ」にプレスティージュな逸品を保存している。私が取材したメーカーのなかで最古のコニャックは驚くべきことに100年、150年を経たもので、最古のコニャックは1805年物。
 先述したようにコニャックの特徴はブレンドすること。樽熟成されたオー・ド・ヴィをブレンドして世に送り出すのが、マスター・ブレンダー(フランス語でメートル・ド・シェ)の仕事である。練達のマスター・ブレンダーが豊富な経験を駆使し、熟成期間や栽培地の異なる各種のオー・ド・ヴィの色とアロマと味わいと吟味しながらブレンドして自社ブランドを作る。その華麗な技は秘術ともいわれ、各メーカー独自のブレンディングが確立している。まさに伝統の香りと味わいを一定に保つために、マスター・ブレンダーは心血を注いで技に限りを尽くす。名誉と矜持を胸に秘めた彼らによって各社の品質が代々継承されているのである。
 コニャックと聞けばナポレオンだが、通常は次のように等級が定められている。下位から順にスリースター、VSOP(Very Superior Old Pale)、エクストラ・ナポレオン・XO。これ以外にも最高級のコニャックには数十年というオー・ド・ヴィがブレンドされたり、各社がビジネス上独自の表記を用いている場合もある。等級表示に英語が使用されているのは、その昔コニャックのビジネスはイギリスとの関係が特別に深かったから。 
 高級コニャックにはフィーヌ・シャンパーニュという表示が使われる。これはグランド・シャンパーニュとプティット・シャンパーニュをブレンドして、しかもグランド・シャンパーニュの使用比率が50パーセント以上のものを指す。
 コニャック・メーカーは大手企業から家族経営のメーカーまで約200社。大手ブランドはヘネシー、マーテル、レミーマルタン、クルボアジェ、カミユの5社で、出荷量全体の8割を占める。他にオタール、デラマン、フラパンなど。
 ちなみに、世界ソムリエ会長の田崎真也によれば、「コニャック・メーカーと香水メーカーがジョイント・ベンチャーの立ち上げることがある。コニャックと香水には共通項があるからだ。つまり、両者ともにブレンドによってイメージを発想していく方法は似ているし、強いインパクトを与える」
 ブレンド以外にも、フランスでコニャックのボトルと香水ビンを製造するメーカーは同一だし、そう思うと形状が似ている。コニャックの銘柄に女性の名前をつけたり。またブレンダーから聞いた話だが、ブレンディングする場合、こういう女性のこういう雰囲気でこういう物をイメージして行なう。なるほど、女性のイメージをふくらませ、それに相応しい製品を作るという点で香水作りと同じだ。

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*昨年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。
*昨年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
*発売中の季刊誌「vesta」(味の素食の文化センター)の連載で小説家の村上龍さんと対談しています。
ご覧ください。

*引き続き第21回の前半を掲載します。
第21回①(2015年5月15日)
 世に知られたコニャックの銘品カミュを取材した日の夕刻、私はカミュ家が代々住んできたゲストハウスのディナーに招待された。カミュ社の番頭が運転する車に揺られ、コニャックの町から約10キロ離れた場所にむかったのである。
 一般にフランス人の時間感覚は日本人と違う。彼らの自宅に招待されたときは、通常10分程度遅れて行かねばならない。人を待たせるときに彼らが使う慣用句の「2分待って!」というのがあるが、そう言われたら15分程度は待つ覚悟をしておきたい。その番頭に言わせれば、コニャックの町があるシャラント地方の住人は輪をかけてのんびり屋だという。この数世紀、コニャックを世界的な商品として普及してきた行動的なビジネスマンの側面も否定できないが、そういえば取材で会った多くの人たちが、たしかにみなさんおっとりした風情で、時間に終われてがつがつ働いていないような気がした。
 カミュ家のゲストハウスは、優美な館の壁一面は歳月を経た蔦の葉でおおわれた素晴らしい城館。といってもロワール渓谷に点在する雄大で豪奢なシャトーといった趣ではなく、物静かなたたずまいの、贅沢を排した質実で居心地よさそうな素封家の城館といった印象だ。オーナーの心優しきヒューマンな心情が伺えるような建物である。邸宅の周囲に手入れの行きとどいたブドウ畑が広がる。その品種はカミュ家で収穫されるボルドリーと呼ばれるものだ。この品種をブレンドしたものから馥郁たるコニャックが誕生する。
 城館の玄関で待っていたのは、ピンクとホワイトの縞模様の、洗い立ての清潔なユニフォームを着た地元のメイドさん。彼女はかいがいしく私たちのバッグを運びベッドルームへ案内する。今夜はディナーだけでなく宿泊する約束だから。玄関を入ると吹き抜けの優雅なサロンが広がり、家具調度品はルイ13様式と地元のシャラント様式の両方がそろっている。それにふさわしいルイ13世の童子時代の肖像画が、もうひとつ別のサロンの壁に飾られている。なんとも趣味の良いインテリアに溜息が出る。
 夜7時から始まるディナーの前に、恒例の食前酒を飲むアペリティフ・タイムが待っている。そして、私の前に現れた長身の現当主はハンサムでダンディ、しかも貴族的な品性と風格を漂わせていた。度肝を抜かれたのはその出で立ちで、フレンチ・ブルーのブレザーに白のパンタロンまでは許容範囲だが、意表を突いたのが靴の色。まさか白の靴で現れるとは思ってもみなかったので、そのセンスに脱帽するやら驚かされるやら。ヨーロッパの上流クラスの粋を凝縮したようなセンスに、ひたすら感嘆。日本人には逆立ちしても真似できない、洗練された上品さ。
 当主の背後に同じく長身の子息が神妙な面持ちで従っている。息子はアペリティフィからディナー、さらに「食後の快楽の儀式」に至るまで、3歩下がって敬愛する父の影を踏まないような態度に終始した。これまた上流クラスの厳格な躾の賜物なのだろう。
 アペリティフをカミュ家の父子と番頭と涼やかな初夏の微風が通りぬけるテラスで飲んだ。カミュの新製品のカクテルを飲んだが、乾いた喉にスッと甘酸っぱい風味は心地よい。当主が話す。
 「1870年に創業されたカミュとしては、この手の商品を発売するのは初めてです。ご存知のように、古典的なコニャックの飲み方だけでは若い人たちのコニャック離れを引き止められい。そんな飲み方以外にも、若い人に親しんでもらおうと考えてトライした。もっとコニャックへのアプローチを分かりやすくしようと。実際、世界各国でさまざまな飲まれ方が提案されていて、アメイカではコニャックをコークで割って飲んでるが、それも無視できない飲み方ですよ」
 販促活動のために世界中を飛びまわる子息によれば、カナダ在住のフランス人の間で流行っているのが、コニャックとガス入りのミネラルウオーターとの組み合わせ。まずグラスに炭酸水を3分の1入れ、その上から静かにコニャックを注ぐ。色合いも悪くないし、プレゼンテーションも楽しい。最初にコニャックをゆっくり飲んでから、ミネラルウオ-ターを飲む、というのが彼らの飲み方だという。
 世界的に経済状況が悪化している昨今、コニャック離れが加速しているそうで、低迷する市場を活性化させようとメーカーが一丸となって取り組んでいるのが、とりわけ若者へのアプローチ。コニャックを優雅に飲むという、従来のスタイルとは別の、気軽に飲める方法をあの手この手で模索している。当主は軽やかに続ける。
 「若い人に向けた新製品を開発・発売しても、私たちは自社のクオリティを厳格に守っている。明確な意思と真摯な確信を持ちながらと同族経営を続けてきた。ブドウ栽培から蒸留、熟成、出荷まで百数十年の伝統を守りながら、新しいクリエーションとアイディアにチャレンジすると同時に、ビジネス面ではダイナミックに活動する。たえずユーザーのニーズに応えられように魅力的な商品開発に挑む。そうした反応にすばやく対応できるのは、じつはファミリー経営のおかげなんですよ。というのも、意思決定が早いから」
 爽やかなアペリティフに食欲が増進させた私たちはダイニング・ルームへ移動した。カミュ親子の優雅な身のこなしについ目がいく。たえず相手の動きや細かな挙措に素早く対応するその振る舞いに。食卓の話題はあらゆる方面に飛び、同族経営の難しさや果ては日本酒にまでおよぶ。
 「家族経営に大手資本が参入したらどうなるか。歴史的にも製法的にもコニャックは贅沢な酒と見なされてきたから、世の中の好不況に大きく影響される。景気のいいときは生産量が右肩上がりで、ひとたび景気が悪くなると飲まれなくなる。不況のときに、もし他の資本が参入してきたら大変なことになる。やれ品質を落として価格を下げろ、ボトルの栓のキャップを安物に変えろ、などとうるさく言われかねない。でも、同族経営なら、そんな理不尽で余計な要求をつけられなくて済むんです。創業時代から続く哲学やポリシーを継承しているわけですからね」
 当主はこう創業家精神を強調する。いずれにしても、大手資本の一極集中だけは消費者と市場にとって避けなければならない。市場と消費者にとって健全な状態というのは、大手資本のメーカーから小規模なファミリー企業が共存していることだろう。そうすれば市場は活性化するし、だいいち消費者の選択の幅が広がる。
 「ところで、カミュという名前はとても印象的。社名としてずいぶん得をしていると思いますよ。ノーベル賞作家のアルベール・カミュを思い出すから。フランスではよくある名前なんですか」
 と私は訊ねた。
 「カミュという言葉の意味をご存知ですか。形容詞で鼻ペチャという意味なんですよ。可笑しいでしょう。名前としてはデュポンとかマルタンとかに比べればポピュラーではないけれど、コニャック地方だけの特別な名前じゃありません。ところで、地元出身の有名人は何人もいます。ミッテラン大統領、EUを構想した政治家ジャン・マネ、ラファラン元首相もそう」
 オードブルから始まったディナーはチーズとカフェでしめくくられた。この間、冷凍室でガンガンに冷やしたシャラント地方特産のピノー、白と赤のワインが振舞われた。だが、食中酒としてコニャックのサービスはなかったので、私は内心不思議に思っていた。なぜなら、他社でランチやディナーに招待された場合、食中酒として必ずコニャックを出されたから。
 やがて美味しいディナーが終了。すると、カミュ父子が目で何か合図しているような仕草を私は見逃さなかった。食卓を離れて一端はテラスに出た一団がむかったのは、地下にある曰くありげな秘密の小部屋。敬虔なカトリック信者の善良なる番頭は、さすがに経営者の前なのだろう、ひたすら恭順の意を表して無口を押し通している。昼間の饒舌とのコントラストがおかしい。
 そして、当夜のメインイベントに立ち会わされることがわかった。それが、ゲストハウスに招待された客が食後に歓待される「食後の快楽の儀式」である。それこそが招待客にとって最高のもてなしなのだ。薄明かりの灯された小部屋で秘密結社の儀式のように、当主が誕生した1945年の極上のオー・ド・ヴィを振舞われた。
 「昔から、コニャックの生産者に伝わる習慣があります。子どもが生まれたら、その年のオー・ド・ヴィを数樽残すという習慣が。当然、父は私にも残してくれたのですが、それが今、私たちが飲んでいるこの酒です。若い時分は樽の数が多いと困ったけれど、白髪になった今では足りないほどですよ」 
 と笑いながら話す当主は、大きなチューリップ・グラスを高々と上げ、私のグラスに乾杯と言いながら触れた。するとチンチンという涼やかな音が小部屋に響き渡り、まるでガラスが奏でる雅な音楽のように耳に残った。私は琥珀色の古酒を何杯もおかわりして、快楽の酩酊境と現世の間を往復した。戦後直後に仕込まれたコニャックの酔い心地は、名状しがたい馥郁たる芳醇の味であった。

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*昨年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。
*昨年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
*発売中の季刊誌「vesta」(味の素食の文化センター)の連載で小説家の村上龍さんと対談しています。
ご覧ください。

*引き続き第20回の後半を掲載します。
第20回②(2015年5月1日)
 次は世界的ブランドのエルメスジャポン社長夫人。夫は日本人で、彼女はフランス国境に近いドイツ南西部生まれのパリ育ち。学生時代を含め約10年パリで暮らしたが、かつて彼女の出生地はフランス領だったというから、ドイツ人とフランス人の遺伝子が微妙に混ざり合っている。その融合が表情にも気質にも表れている。
 「日本人は私たちドイツ人にとても似てますね。ドイツ人はフランス人やイタリア人のラテン系の気質と違って、あまり人生を楽しもうとは思わないの。どちらかと言えばワーカホリックで、人生を堅苦しく考えるタイプ。ですから、外国人とはなかなか打ち解けない。神楽坂はフランス的に生活を楽しむやり方と、日本の伝統的な生活の仕方がほどよくマッチしています。外国人の応対にも慣れているし、みなさん気さくに声をかけてくれる。日本語を話せない外国人にもガンバって英語で話そうとしたり。他の町ではガイジン、ガイジンといって距離を置きますからね。そんなことが神楽坂にはありません」   
 フランス人のおおらかな陽気さと、ドイツ人の穏やかな謙虚さという2つの美点を兼ねそなえたマダム。また、大学の論文のテーマに「報道の自由」を選ぶあたり硬骨漢ぶりがうかがえ、日独仏の国民性を観察する視線は鋭い。来日後はヨーロッパの女性らしくインディペンデントの気概が強いので、日仏文化の掛け橋になろうとクリエイティブコーディネーターとして活動した。
 学生時代に、論文のテーマをフィールドワークするために中国に6ヶ月滞在したが、そのとき運命を一変する日本男性に出会う。互いに一目ぼれした二人が日本で生活をはじめるまでに時間はかからなかった。まず東京・本郷にある夫の実家に同居するが、まもなく神楽坂へ居を移す。
 「上海で夫に出会うまで、東京のイメージといえば高層ビルが並び、騒がしい大都会というもの。ところが本郷に住むようになって、東京に対するイメージが少し修正されました。東京にもこんな場所があるのかと教えられたんです。でも、なにか物足りない、なにか寂しい。そのうち神楽坂に住むようになってから、すごく驚いたのね。東京にも昔ながらの本当の古い町が残されていると」
 昔の東京を知るよしもないのに、神楽坂に昔の東京の匂いを感じる理由を訪ねると、「外国人のほうが、そういうことにかけては敏感なんですよ」と笑って切り返された。
 「日本で最初のお正月を迎えたときに、不思議な感じがしたんです。お正月というのは、家族が一緒に静かに過ごすものだと思っていたのに、食事しながらテレビを観たりしているので驚いたことがあります。それに照明もネオンや蛍光灯を使っているので、なんとなく冷たい感じがする」 
 日本人には耳の痛い話だが、それは彼女が東京とそこに住む人々を優しく慮っているからである。神楽坂住人になって日本好みに拍車がかかり、家のなかを日本製のアンティークな調度品で飾るようになった。でも、高層マンションが建設され、緑が少なくなったのが寂しいという。散歩好きで界隈をくまなく歩くから、「ディスカバー神楽坂」にますます磨きがかかった。だがインタビューしてから数年後、人目ぼれした夫がフランスのエルメス本社の執行役員に昇進し二人でパリに戻った。時折は神楽坂へのノスタルジーに浸っているに違いない。
 3番手はパリ生まれの男性。18歳までブリュッセルで生まれ育つ。パリでHECというビジネス・エリートを養成するグランド・ゼコールを卒業し、銀行に入行した。国際部、リスク審査、デリバティブなどのセクションで働くうち金融で日本とつながりができて、次第に日本に興味を抱くようになる。初来日は1988年、団体旅行で果たし、最後の数日間は一人で動いたという。
 そのときは神楽坂のことなどまったく知らなかった。97年に東京勤務が決まるまで、短期出張や日本語のトレーニングのためにのべ1年ほど断続的に日本に滞在した。その間、ホテルに住んだり千代田区一番町のマンションに住んだり。近かったので神楽坂をよく散歩したという。
 「一番町は静かでいい町でしたが、私にはちょっと静かすぎましたね。神楽坂で驚いたのは、夜になってもさめやらない熱気。小さな商店街なのににぎやかで生き生きしていて、とても楽しい印象でした。そんな賑わいと、古い時代の面影が残った路地裏とのコントラストが、なんとも言えず素晴らしかった」
 神楽坂の魅力に惹かれ、転居するならこの町にしようと決めた。それに、パリで住んでいたエリアと環境が似ていたことも大きな理由。というのも、下町の雰囲気が色濃く残る18区のモンマルトルに近い、ビュット・ショーモンに雰囲気が似ていたからだ。 
 ところが、東京に勤務してから神楽坂のマンションに定住するまで2ヶ月半を要した。なかなか条件が折り合わなかったからだ。徹底的にディティールまで納得できなければ妥協しないという、いかにも合理的なフランス人らしい。
 「やっと見つけたマンションに住んでから、快適な生活を送ってますよ。会社も神楽坂に近い神田にあるし、こまかな用事はすべて歩ける範囲で済ませられる。たまに散歩で薄暗い裏通りを歩いていて、三味線や鼓の音が聞こえてくると、とても気分がよくなりますね。すれ違う芸者さんと町並みとに違和感がなくて、上手く調和していると思う。まだまだ知らない横丁や裏道があるので、いろいろ歩いてみたい」
 冗談だと断りながら、もし神楽坂にお祭りや縁日がなかったら、他の町に引越ししようかと思うくらいお祭り好きだと言う。笛や太鼓、ちょうちんを見ると血が騒ぎ、お祭りはコミュニケーションを深めるという。「パリのお祭りといえば、残念ながら7月14日のパリ祭しかない」と嘆く。
 最後はアンスティチュ・フランセ東京の女性館長。指定された館長室に入った途端、私はあっけに取られ立ち尽くした。なぜなら、両サイドのガラス窓から柔らかな光が差しこむ部屋の隅に、なんと古い畳がズラッと敷きつめてあったからだ。同校は日本におけるフランス文化を普及するための政府公認機関。だから、フランス的な白壁の瀟洒な建物である。その部屋のなかに畳が敷かれていることなど、いったい誰が想像できようか。
 「タタミゼという言葉をご存知だと思います。いまはフランスの辞書にも採用されている言葉です。日本文化に憧れる人たちを、日本の象徴でもある畳をもじってフランス語にしたもの。この畳は代々続いている貴重な遺産ですよ(笑)」
 任期の期限があと1年に迫ったパリ生まれの館長は、前任の3人同様、正統的なタタミゼの人である。館長として来日するまで世界のアート・シーンをリードする、パリのポンピドーセンターで映像部門の責任者として働き、日本文化によって日本に強い関心を抱いてきた。日本を知ったのは溝口健二や小津安二郎、黒澤明、成瀬巳喜男など映画監督、谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫など文学者によってだという。
 それにしても、なぜフランス人は神楽坂に住みたがるのか。神楽坂を愛してやまない館長に話してもらおう。じつは彼女の言葉は連載第2回でも紹介したが、神楽坂の魅力を知ってもらうために改めて引いてみたい。
 「小さな規模の町に日本の古き良き文化がうまく保存されていること。それだけではなくて、他の街に比べて際立っているのは、多くの文学者が神楽坂を舞台に作品を書き遺し、たえず町が活性化して発展していること。たとえば、お年寄りの知恵と若い人のエネルギーが上手く調和している。レストランにしても、上は料亭という格式のある店から安くて旨い和食、フランスやイタリア、スペインなど多国籍料理店が共存する。坂が多くてパリのような裏道や路地もある。そんな多様性とコントラストにフランス人は、一種の神秘性を感じるのではないでしょうか」

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*昨年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。
*昨年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
*発売中の季刊誌「vesta」(味の素食の文化センター)の連載で小説家の村上龍さんと対談しています。
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*引き続き第20回の前半を掲載します。
第20回①(2015年4月15日)
 在日フランス人のモテぶりは来日したその日から始まる、というのは伝説ではなく本当のことである。みなさんモテすぎてお困りらしい。少々頭がヤワでもアホでもヘチマでも、そしてチビでもデブでもハゲでも、フランスで生まれ、フランス語を話すという単にそれだけの理由でじつにおモテになる。私の妬みや嫉みはひとまず置いとくとしても、彼らのモテぶりは半端じゃない。まるでダボはぜを釣るように入れ食い状態だとも。つまり、東京に滞在している限りモテキが続くわけだ。
 世に1千人斬りなんて言葉があるけれど、知人のフランス男性(日仏を含めてバツ3)は、在日数十年でお相手の数300人余という“記録保持者”である。そんな彼に先日、アドレス帳を見せてもらったら、日本女性の連絡先がずらり満艦飾のように並び、そのなかから選り取りみどりらしい。そして年齢、身長、特徴などが事細かに書きこまれている。とりたててイケメンでも背が高いわけでもなく、ごく普通の冴えない男で、明らかにフランス本国じゃモテないタイプ。そんな野郎でさえ数百人のなかから選んで電話すると、ほとんどの女性が真夜中でもすっ飛んでくるという。まあ、彼らフランス男は超マメで、お喋りでは退屈させないし、女性を褒める技に長けているし、それなりにユーモアもある。要するに日本男性よりずっと女性の扱いが上手い。
 「来てくれるだけじゃなくて、ついでにお金も持ってくるしね(笑)。なんでおれがそんなにモテるかよくわかんないんだけどさ。でもね、おれだけじゃないぜ。知り合いのフランス男は、みんな日本の女に不自由してないよ。まあ、結局、フランス男のブランド力がそうさせるんだろうけどな」
 なんていい気になってほざくから、男の風上にも置けないバカ野郎、とフランス語で小突いてやったけれど、彼にしてみればなぜ面罵されるのかわからないから、どこ吹く風といった面持ち。そりゃそうだろう、男女が騙し騙されながらテクニックを磨き、口説き口説かれながら恋の達人になるというのがフランス式恋愛術なのだから、彼らにとっては至極当然の行為である。私はやっぱり嫉妬しているんだろうな。
 逆の場合は惨憺たる有様だ。私が思うに、明治以降渡仏した日本男性で、フランス女にモテたという話をほとんど耳にしたことはない。自分の周り数メートルの狭い範囲でモテたモテないといった話もあまり聞いたことはないし、有名人にしても『ふらんす物語』を書いた永井荷風だって相手にしたのはもっぱら四辻の女王。例の億万長者の薩摩治郎八がいかにモテたか喧伝されているにしても、物珍しい東洋人が金に物をいわせたからだろう。大盤振る舞いして、東洋趣味に憧れる女たちにモテただけだろうと思うが、彼はあくまでも例外。その点、在日フランス男の八面六臂のモテぶりは嫌になるくらい異様だ。
 そのいっぽう、日本女性は親切でやさしいからモテる、といったまことしやかな噂が国際的に広まっているらしい。結果、今も昔も外国人に騙されて泣く日本女性が後を絶たないという。急速にグローバル化した昨今、この世界には極悪非道な連中がごまんといることくらい、それなりに情報を得られるであろうに教訓がまったく生かされていない。
 その昔、じつにくだらないアンケートがあった。噴飯物だが、そのアンケートというのは、なんでも世界中の男性が回答したもので、付き合いたい女性の世界ナンバーワンに日本女性が輝いたという(そんなアンケートは実在するのか?)。ちなみに日本男性はわがままで無愛想で、やたら威張りセクシーでもないからという理由から最下位に近いそうだ。さもありなん。
 閑話休題。
 神楽坂の人気は依然衰えず、厳しい猛暑でも厳冬でも人出は多い。以前、「神楽坂はフランスだ!」といった記事を書くために、神楽坂在住のフランス人にインタビューした。なぜフランス人は神楽坂に住みたがるのか、それを明かすために面会したのはクレープ店のオーナー、エルメスジャポン社長夫人、フランスの銀行の部長、アンスティチュ・フランセ東京(旧日仏学院)館長の4人。みなさんいかにもフランス人らしく個性的で、話題は神楽坂だけにとどまらず、最後は日仏文化論へと向かった。彼らの話を要約すると、神楽坂の魅力とは、町の規模がヒューマンスケールで日本的情緒にあふれ、路地や横丁が縦横に通り、そこに多国籍の人々が共存し、手の届く範囲に各国料理店があることなど。
 オシャレな神楽坂は別名「フランス人村」と呼ばれる。その由来は、青山や広尾など他のオシャレな街と違い、とりわけフランス人が多く住んでいるからだ。他の外国人も居住しているけれど、フランス人が突出している。住人の半数以上がフランス人というマンションもあるそうだ。
 彼らの言葉を紹介しよう。トップバッターは神楽坂名物となったクレープ「ル・ブルターニュ」のオーナー、ラーシェ・ベルトラン。彼が神楽坂の住人になったのは10数年前。フランスはブルターニュ地方の中世都市に生まれ、「家族のなかで外国に出ているのは自分だけ。家族から追放されたようなもの」とおどける。
 英仏海峡に突き出たブルターニュ地方は古来「異界」と蔑視され、旅人さえ忌避するような土地柄だった。いまでもケルト語から派生した少数言語のブルトン語を使う人がいる。周囲が海に囲まれているという地理的環境と、他地域に比べて経済的発展が遅れていたというハンディキャップのせいで、昔から地元を離れる人が多かった。その例にもれず、ベルトランも20歳でスイスのジュネーブへ旅立つ。そのころから、将来は外食に進出したいという野心を抱いていた。武器はブルターニュ名物の「クレープ」。主だった産業がなく貧しかったブルターニュの名物は伝統的なクレープくらい。
 ソバ粉でつくられ、一般にガレットと呼ばれるクレープは具に卵やハム、マッシュルームやベーコンなどを使い、仕上げに有塩バターをぬった香ばしいもの。元来ソバは痩せた土地でも育つ作物のため、ブルターニュ地方では主食としてガレットを食べる習慣が数世紀も続いた。こうして一般にガレット=ソバ生地=塩味で、デザートとしてのクレープ=小麦生地=甘味という食べ方が成立したのである。
 ジュネーブに出奔したベルトランは現地のレストランで働いた。日本という国に初めて触れたのは、系列店の日本食レストランのマネージャーを任されたからだ。やがて客だった日本女性と出会い、結婚して来日した。
 「ジュネーブ時代に日本について多くのことを学びました。食べ物もスシ、テンプラ、スキヤキ、ヤキトリなどどれも大好きになって。最終的に日本行きを決めたのは私だけど、日本のレストランで働きながら、いつか日本でビジネスをできないかと考えるようになっていたから」
 まず東京原宿にあるオープンカフェのマネージャーとして働きながら、ビジネスチャンスを狙っていた。そのカフェはマスコミにしばしば取り上げられる人気店だったから、都内のフランス人シェフが偵察にやって来た。当のベルトランは将来、フランス式ビジネスをどのように展開するか、その構想をじっくり練った。そこから導き出された結論は、本物のブルターニュのクレープを食べさせる店を開くこと。そして、まがいもののクレープを出したら商売として長続きしないと自戒した。
 来日当初、国技館のある両国に住んだ。「下町の雰囲気が好きで、なおかつフランスのシラク元大統領と同じように相撲が好きだったから」。やがてベルトラン一家は住まいを両国から神楽坂へ移す。「昼も夜も両国界隈より賑やかだし、何代も続く老舗が伝統を感じさせて素晴らしい」。神楽坂の魅力にますます惹かれ、この街でクレープ店を開こうと決意する。
 「設計は私がしました。場所は神楽坂通りから脇道に入った、とても静かな石畳の路地。いかにも日本的な風情を感じさせる横丁だから、雰囲気を壊さないように気をつけましたね。ファサードは小道にふさわしいようにデザインして、インテリアは故郷のブルターニュの実家がそうだったように、素朴な木組みの味わいを再現した」
 オープンテラスのあるフレンチスタイルで、BGMにブルターニュ音楽が流れ、ずっと前から営業しているかのように、周囲の環境にすっかり融けこんでいる。開店当初は本場のクレープになじむ人が少なく、閑古鳥が鳴いていたが、数ヶ月もすると連日満席が続く。次々にマスコミに紹介されただけでなく、神楽坂に住むフランス人や、地元民が友人知人をつれて食べに来たからだ。神楽坂に住みはじめたころは毎年、夏祭りにも引っ張り出されたという。
 「本当は神輿をかつぎたくなかったんですよ(笑)。でも、有無を言わさずはんてんを着せられ、神輿をかつがされて。まあ、私が一番背が高いし、うまくかつげないから、ほんの数十メートルのお付き合いでしたけどね」と破顔一笑。このときばかりはブルターニュ人特有のいささか険しい表情が一変した。あまり融通がきかず、真面目に働くのが取り柄と言われるブルターニュ出身のベルトランは、いまや神楽坂にすっかり馴染んでいる。
 彼を取材してから8年ほど経つが、ビジネスは順調に発展し、東京をはじめ札幌、大阪、パリ、さらに故郷にも出店。快進撃はそれに止まらず、ブルターニュの避暑地にフランス料理店と和食店をオープンし、昨年は神楽坂にシードルレストランをオープンした。
 先年、私はフランス取材に出たついでにブルターニュ地方を回る機会があり、現地の人々は私が日本人だと知ると、みなさん一様にベルトランの話題を振ってきた。なかには地元紙に掲載された、彼の写真入りの記事を見せながら、ブルターニュ人もやるもんだろうとドヤ顔された。いまやベルトランはブルターニュが誇る、日本で成功した有能な経営者となったのである。

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*昨年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。ぜひご覧ください。
*昨年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第19回の後半を掲載します。
第19回②(2015年4月1日)
 パリから東京に戻ってから数年後、ある床屋に入って座席に腰を下ろしたら、初老のおじさんにこう言われた。
 「お客さん、アイビー・カットみたいにするのかね? 
 ところで、私はひねくれた性分だから馴染みの店を持つことにすこぶる抵抗感がある。下町育ちだから、もともとは仲間と集まってワイワイやるのが好きな性質で、幼いころはたしかにそうだった。縁日を冷やかしたり盆踊りに参加したり、夏祭りの子ども神輿をちゃんと担いだ。ときには悪ガキどもの先頭に立っていきがっていたものだが、山の手にある中学に入るころから、自分で言うのもなんだが、善し悪しは別にして妙に気取るようになり、下町的なねばっこい付き合い止めるようになってしまった。
 いまでもその傾向が強く、だから友人との付き合いが薄い。考えてみれば、学生時代の友人も少ないし、社会人になってから親しくなった人間もそう多くない。そんな性格が災いしているのだろうが、レストランや飲み屋や床屋でも馴染みになることがどうも苦手で、常連になっている店は少ない。そうした気分を助長したのは、後年パリに行って暮らしたことが大きいだろう。
 パリから日本に帰国したのは50代も半ば。その間、年に数回は帰国していたものの、仕事以外で飲み食いするといっても、短期滞在だから付き合いが深まらない。そんな状態のままあわただしくパリに戻るといった年月を送ったのだ。仮に、そのまま東京に留まり暮らしていれば、同世代の連中と新しい交流が始まり頻繁になり、いかにも日本的な飲み友達になることができただろう。だが所詮、私はパリに戻る身、交流は深まりようがないといった次第。
 そうやって海外で長く暮らしたぶん、同世代に人々のように会社を含めて日本的秩序のなかで生きてこなかったから、彼らが受けてきた社会的訓練や培ってきただろう社会的常識をいちじるしく欠く、いわば欠陥人間になったのだろうと思う。そして屈折した心情が醸成されていった。善し悪しは別にして、歳を重ねて骨身にしみてそのことがわかる。
 いずれ、そんな来し方なども書くつもりだが、ここでは一言。すなわち、私は私立中学に進学して以来、山の手文化を通して「理性」とか「知性」とかに初めて触れたことが、その後の私の人生に大きな刻印を残したのだと思う。それらは下町の生活のなかに決定的に欠けているもので、理性と知性を持って人間のほうが下町的な「情緒」や「感情」を持った人間より、人間としての価値が高いといった錯覚と幻想を抱いてしまったのだ。この年になってもはや取り返しのつかない誤解だが、しかし馬齢を重ね、人生の4コーナーを回った時点になったいまとなっては、それが良かったことなのかどうか判然としない。このまま深い森にさまよいながら、人生の終末を迎えるのだろうか。 
 さて、先述のおじさんは、椅子に座ってうとうとしていた私にそう切り出したのである。この店のトイレ臭は気になるものの、意外にカットが上手いので何度か通ったことがある小さな床屋。しかし数年前、その前を通ったら不況の折からだろうか閉店していた。
 なぜ、おじさんからその言葉が出てきたかと言えば、私がもみあげを短くしてほしいと頼んだからだ。そうして垢ぬけないおじさんから、いきなりアイビーなんて言葉を聞いたものだから、一気に眠気が吹き飛んでしまった。
 「あのころは、若い人はみんな、もみあげをアイビー・カットっていって短くしてたよ。猫も杓子もだった。やくざ以外ね。やくざがアイビー・カットじゃ似合わないもん。あの人たちはダボシャツに腹巻、もみあげは裕次郎カットみたいに長くしてさ。パンチパーマはまだなかったころよ」
 おじさんははさみを器用に動かしながら軽快に喋る。アイビーの話になると、ベビーブーマー世代はみなさん一様に饒舌になり、一家言の持ち主に成り代わる。大都会でも地方都市でも、若い男はアイビーにぞっこんだったからである。いまやアイビーという言葉を箪笥の奥に置き忘れてしまった無骨なおじさんでも、アイビーの思い出を、その奥からひょいと引っ張りだしてくることができる。アイビーと聞いて、ジーンと胸に来るおじさんは大勢いるはずだ。日本の若者にとって強烈なオシャレ初体験となり、記憶の底にこびりついている。だから、いつでもどこでも必要なときは、ひょいとアイビーという言葉を持ちだせる。オバQの「どこでもドア」みないなものだ。
 アイビーと聞けば、もちろん教祖の石津謙介。四谷三栄町が石津の終焉の地だ。私にとって彼の思い出は事欠かない。ずいぶん前に東京で開いた私の出版記念パーティーで彼は挨拶に立ち、大量にあまった料理にクレームを告げながら、「残すのはもったいない!」と連発した。また、パリで中華料理屋のキッチンにずかずか入って行ってコックと中国語で話したり、一緒に旅行したローマの散髪屋でカットし、ヴェニスでゴンドラに揺れ、ダブリンやニューヨークやミラノの街角で人の流れをじっと見つめていた石津謙介。そんな姿が一瞬にして頭の中を駆けめぐる。後年、私は石津謙介の足跡を追った作品を発表した。
 1960、70年代、一世を風靡したVAN。史上初めて男性ファッションのモードを日本に導入したのが石津謙介だ。私は彼を食の北大路魯山人、政治の白洲次郎と並び、御しがたい意志をつらぬいた昭和のダンディ3傑のひとりだと思うのだが、いまいち石津は後世の評価につながらない。やはり倒産企業の社長という負のイメージがあるからだろうか。
 石津は自宅があったせいで四谷荒木町界隈でよく飲み食いした。贔屓の店が3軒あり、いまは無き寿司屋「纏」、あんこう鍋「たまる」、前回書いたパリ風の小粋なバー「ピガール」。
 日暮れともなるとネオン街に明かりが灯る荒木町は、隣町の神楽坂にお株を奪われるまで盛んな歓楽街だった。私が学生のころは飲食街の人気では神楽坂を上回っていたような気がする。いまでも200店を超える飲食店が軒を連ね、往時を忍ばせる雰囲気が残っている。でも、そもそもこの町は神楽坂に比べて文人墨客との縁が薄く、歴史的なスポットも少なく、芸者が消滅してからはとんと寂れた印象が強い。「でも、飲食店が閉店するとすぐ新しい店がオープンする」と、さる店主が言うように往時の神話と幻影は健在らしい。喩えはどうかと思うが、神楽坂が初々しい年増なら、荒木町は盛りの過ぎた年増といったところか。
 私が石津謙介と初めて会ったのは1983年。そのころパリに住んでいた私は、日本の雑誌に依頼されてカメラマンという立場で彼の前に立った。カメラマンといっても、ヘタの横好きでカメラをいじっていたに過ぎない。ただしフランスという素晴らしい被写体を前にすれば、誰でもそれなりに撮れる。
 アイビー世代の末席に属していた私は石津と一緒に仕事をすることに胸騒ぎを覚えた。60年代にデビュー以来、石津はマスコミで盛んに「ファッションの神様」と喧伝されていたから、強面というイメージが私のなかですっかり根を下ろしていた。いっぽう、ヴァンヂャケット倒産という悲劇に見舞われた経営者という側面も聞き知っていた。
 初対面の石津はたしかにダンディだったが、なんだか好々爺然とした雰囲気をかもしていた。私はいささか拍子抜けしたが、当時はヴァン倒産から約5年、すっかりアクが抜けていて、持論である「人生4毛作」のうち3毛作から、なにものにも捉われず思うままに生きることを身上とする4毛作へ自身が移行していた。また、骨の髄までファッション業界に身を投じた石津と、オシャレは好きだけれど、そうした業界とは別の世界で働いてきた私との間では、そもそも生きてきた環境が異なるから文化を共有することも利害が対立することもほとんどない。だからこそ石津にしてみれば、気安く話せる人間がひとり現れたとでも思ったのかもしれない。
 その後、一時帰国した私が南青山にある彼のオフィスにワインを持参したり、私がホストの対談に出てもらったり、私の出版記念パーティーに出てもらったり、料理屋やバーで遭遇するという、いわば付かず離れずの仲を続けていた。晩年の石津は軽い認知症を患っていたらしいが、私には「人生4毛作」を完結した後の事態だという思いが強かったので面会しなかった。
 いまは若い人に石津謙介を知っているかと訊ねても、
 「その人、誰?」
 という答えが返ってくるばかり。若者文化の教祖だった石津謙介が活躍していたころから約40年、それも当然だろう。
 1911年生まれの石津謙介は一昨年、生誕100周年を迎えた。ところが、戦後メンズ・ファッションの向上に大いに貢献したにもかかわらず、世間的には盛り上がりに欠けていた。同年生まれの岡本太郎、前年生まれの黒澤明のモテぶりと比べるといささか寂しい。それにはさまざまな意見があるだろうが、先程も触れたがヴァンヂャケットを倒産させたという事実が重くのしかかっていて、盛大なイベントを開けなかったせいじゃないだろうか。
 そんな石津の人生を私なりにまとめてみたいと思う。いましばらくお付き合いいただきたい。
 晩年の石津謙介が足しげく通ったのが、四谷荒木町にある小粋なバー「ピガール」。瀟洒なインテリアも寛げる雰囲気もパリの下町にあるバーを彷彿させる。帰宅への道すがらドアを開けると一瞬、団塊世代の客が声にならない感嘆のため息をもらしたという。VANとアイビーで一世を風靡し、中高年層にとって懐かしく輝く「ファッションの神様」として、その威光は消えていないからである。バーの壁に石津が戯れに書いた「愛の片隅」を意味するフランス語「coin d’amour」の文字が残されている。フランス語の表記が間違えているのはご愛嬌だが。石津はこの店でかならずジントニックを2杯注文し、しばらく陽気に歓談してから帰途に就いた。そして元アイビー青年たちに相好を崩して丁寧に挨拶したという。
 「先生が見えると周りがパッと輝くんですよ。オシャレで素敵だし、あれだけの仕事をされた方ですからね」
 と女性オーナーが話すように、死ぬまで命がけでオシャレするという主義を貫いた男の立ち居振る舞いは、華やかな千両役者のような美学と矜持に纏われている。日本人にしては珍しくプランシプルに殉じたという意味で言えば、人気の白洲次郎や北大路魯山人に似通った資質の持ち主だ。
 1960年代、女性ならいざ知らず男性がファッションにうつつを抜かし、ましてや高校生や大学生がオシャレに関心を持つなんて不良だと思われ、声高にメンズ・ファッションが語られることがなかった時代、石津謙介が提唱したモダンなアイビー・ファッションは若者たちに熱狂的に支持された。ベトナム戦争前のよき時代のエリート・ファッションだったアイビーをアメリカから輸入し、まさに彼の造語となるTPOに基づくメンズ・ファッションのドレスコードがまだ確立されていなかったから、日本の若者の熱狂ぶりはすさまじかった。
 現在と違い都会と地方とでは情報のタイムラグがあったにしても、たとえ高価とはいえ、アイビーならどんな製品であれ一着でも購入しようと切望した。アイビー・ファッションの定番だったコットンパンツや縞シャツのボタンダウン、ローファーやバスケット・シューズなどすべて揃えられなくても、せめてそのなかのワンアイテムだけでも手に入れようと、若者たちは少ない小遣いのなかから費用を捻出した。60年代後半、学生アルバイトの時給が100円程度だった頃、アイビーのボタンダウンのワイシャツは約2000円だったから、まさに高嶺の花だった。
 戦後初めて、粋でシャレたVANとアイビーを通じて、アメリカのメンズ・ファッションから受けた激しい衝撃は、オシャレへの好奇心を密かにたぎらせていた若者を捉えたはずだ。というのも、自由で豊かな文化を持つアメリカ産のアイビー・ファッションが与えた溌剌とした開放感は、すべての若者たちに特権的な気分をもたらしたからだ。
 学生も若者もVANやアイビーとネーミングされた商品であれば、どんなアイテムにも狂喜して飛びついた。高価なアイビー・スーツなどのウエアには手を出せないけれど、せめて頭頂部を刈り込んだアイビー・カットで気分を高揚させ、VANのポスターやノベルティだけでも入手して時代の空気感を味わおうとした。
 昭和30年代、高度成長期の申し子となり、多少なり金回りのよくなった若者にとって、憧れのVANの洋服を着ることは選ばれた者の恍惚と不安を表したのである。VANにあらざる服は服にあらず、とでもいうような差別的な雰囲気が充満し、VANやアイビーの文字がマスコミに躍らない日はなく、石津謙介の名前は全国にとどろいた。VANの怪物ぶりは突出していたし、ヴァンヂャケットは若者文化の旗手となり、彼らのオシャレ意識を変革した。先のバー「ピガール」に集まる中高年の男性たちもVANの洗礼を受けた連中だ。
 東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開業し、若者文化の担い手だった「平凡パンチ」が創刊された64年、VANの創始者である石津謙介は本社を東京・青山に移転する。大阪から東京に本社を移転してから、都内では4度目だった。ヴァンヂャケットは新しい時代の男の制服である、と石津謙介が高らかに謳った。
 当時の青山は華やかなファッションタウンとはほど遠い静かな街だった。路面電車が青山通りをのんびり走り、のどかな光景が広がっていた。雨が降るとキラー通りは泥水が溢れ返り、粗末な下駄履きアパートと呼ばれるアパート群がまだ残っていた。その後の青山界隈の発展を考えると、石津の先見性と慧眼が際立つ。青山はVANタウンと呼ばれたのである。忘れずに付け加えておけば、青山通りに伝説のVAN99ホールが完成するのが73年で、石津の鶴の一声で誕生した。この99人収容の小ホールで上演されたのが、つかこうへい「熱海殺人事件」や「ストリッパー物語」「松ヶ浦ゴドー戒」「初級革命講座 飛龍伝」、野田秀樹「走れメロス」などである。

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*昨年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。ぜひご覧ください。
*季刊誌「vesta」(味の素食の文化センター)に人気エッセイストの平松洋子さんとの対談記事が掲載されています。この連載は私がホストの連載です。
*昨年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第19回の前半を掲載します。
第19回①(2015年3月1日)
 ある日、旧知の編集者から私に電話がかかってきた。以前、その大手出版社から拙著を出したことがあり、50がらみのその男性が担当したのだった。私もネットを始めて以降、時折メールのBCCで出版案内などを送付するようになった。だが。彼はまったく反応を示さず、返事も寄越さない不届き者だと思っていたから、オトナげない私はいっそ無視しようかとも考えたが、もしや増刷の話なのかなと揉み手をしながら出たのである。まあ、礼儀知らずは両者譲らず、どっちもどっちか。
 ところが、話を聞いて、やっぱり出なきゃよかったと後悔した。その日は憤懣やるかたなく、終日不愉快でむくれていた。事の次第はこうである。当人は携帯電話の向こうでいけしゃあしゃあとこう抜かしたのだ。
 「いま在庫を整理してて、宇田川さんの本は残り10冊程度なんですよ。2週間後に絶版になるので、ついてはお買い上げ願いたいんですけど」
 その瞬間、私は思わず椅子から転げ落ちそうになった。重版の甘い夢を見た、いつもながらの私の愚かさは棚に挙げるとしてもだ。数年ぶりにいきなり電話してきて、それも2週間後に絶版にするから買えとはなんなんだ。それならそれで、もうちょっと他にやり方があるだろう。もっと早めに伝えるとかさ。もうこの編集者と付き合うこともないだろうと思い、キレやすい私は怒鳴りまくった。
 「著者購入なら8掛けで約1万円だな。買ってやるよ。でもな、絶版間際に突然電話してきて10冊買えとは、いったいどういう料簡なんだ。たった10冊、気持ちよくくれてもバチは当たらないだろう。それが担当編集者として最後の奉仕ってもんだ。違うか? 以前他の版元からも絶版すると言ってきたことがあったけど、気前よく50冊くれたよ。おまえな、売れっ子作家にも、そうやって在庫がないからって2週間前に電話するのか? 電話して10冊買えって言うのか? こっちが売れない作家だと思ってナメるんじゃねえぞ」
 とまあ、次々に卑しい言葉が出てくることに私自身恐れおののいたけれど、下町育ちはいざとなると、じつにガラが悪い、品性下劣。でも、私の怒りはおかしいですか。
 作家のみなさんもそうだと思うが、私を担当してくれた編集者は総じて気遣いができる親切な人が多かった。だが、人間って勝手なもんで、良い思い出より嫌な思い出のほうが長く残る。いや死ぬまで残るのかもしれない。そういえば、年下の編集者にずっと君づけで呼ばれたことがあったな。他にも若い時分、大手出版社のお偉いさんに、彼の個室に呼ばれてデスクに足を乗せながら説教じみたことをネチネチ言われたことも。いまは高名な私の知人の作家などは売れない時代に、デスクに短い脚を投げ出した編集長につまらない原稿だとどやしつけられ、目の前で破られたことがある。まあ、私はそんな酷い仕打ちを受けたことはないけれど。これ以上話すと自分が情けなく惨めになるから、もう止めよう。
 こちらは喜ばしい話題。
 先頃、知人の一人娘の結婚披露宴に招かれた。会場は東京のシャレたエリアにありながら、前庭に長いグリーンのスロープを持つ優雅なシャトー風の館。宴はつつがなく終わり、最後のケーキカットはその庭で行われた。型どおり進み、いよいよ私が待ち望んだ花嫁の父、つまり私の知人が謝辞を述べる番が来た。彼は海外に住んだ経験があり、外国の社会や文化に詳しい。披露宴の主役はもちろん新郎新婦だが、考えてみればその次に注目されるのは花嫁の父じゃないだろうか。ロミオとジュリエットの昔から、花嫁の父は頑固で現実に心を開かない厄介者扱いだ。だから皆さん、この花嫁を育てたのはどんな父親で、いったいどんな挨拶をするか興味津々、好奇の眼差しで見ていたであろう。
 やがて、やや背をかがめた彼がマイクの前に立ち、こう挨拶した。同じ一人娘を持つ身の私としては、彼の言葉は一言一句に至るまで身につまされるに違いないから耳をそばだてた。ユーモアとエスプリとフィクションを織り交ぜた話は15分に及び、列席者から感心と感興を呼んだのである。
 まず、花嫁の父がいかに理不尽な思いをする存在であるかという、苦しい胸の内を吐露した。
 「本日列席している人の中には、私を賭けの対象としているような、不届きな輩もいるでしょう。つまり、私がこの場で胸をつまらせ涙を見せるかどうか賭けている人たちが。でも、本日はお祝いの席だからすべてOK。実は、私自身も自分自身で賭けています。そのためにハンカチを10枚用意したほどですから。話の途中で、たぶん胸をつまらせ、声に詰まり、見苦しい姿をさらすと思うがお許しを。結婚式の日取りが決まった当初、私は挨拶を頼まれても堅く固辞していた。でも、土下座せんばかりに二人が何度も執拗に頼むものだから、仕方なく挨拶することを決めたという次第、なんていうのはまったくの嘘で、私が二人をなかば脅して強要して実現させました。思えば、私は娘が生まれてこの方、ただただひたすら娘の奴隷・下僕・執事となって恭順の意を表してきました。すべてを黙って受け入れてきた。私にとって世界で一番可愛い宝なのだから、それは当然である」
 そこに突然現れたのが憎むべき新郎。それまでその父親と娘との間では、スピリッチュアルな水位で言えば波風も立たず、それなりに安定していた。そんな良好な関係に突然、土足で乱入してきたのだ。「最近は髪の毛が抜け、滑舌が悪くなり、語学能力が衰え、気力や記憶力が減退し、仕事をする集中力もスピードもダウンし、少しもいいことがない寂しい日々を送っていた。そんな出口の見えない惨めな状態に、さらなる試練が待ち構えていた。私の肺腑をえぐり、私のレーゾンデートルを脅かすような人生最大の事件が」
 以来、新郎に面会するたびに、「おどしたり、けなしたり、罵倒したり、足蹴にしたり、娘の過去の罪業をでっちあげて、サディストのように上品に悪態をついたのです。それもこれも、いつか新郎を翻意させ、私の前から撤退することを祈りながら。ところが、私の心労をモノともせず、この新郎は柳に風の如く動じずニコニコして、挙げ句の果てに娘と結託して私を脅しにかかったのである」
 そんな二人に対して私は自身の非力さに失望する日々が続き、やがて私は文学的に複雑な思いに沈みこみ、自棄になったりすねたり、強がったり粗暴になったり、さらに睡眠不足が続き、果ては酒量がぐっと増えた。そして、新郎に向かって決然とこう言い放った。「もしも将来、娘を泣かせるようなことがあったら只じゃ済まない。私は重大な決意をしている。いざとなれば、北海道にある大きな施設の塀の向こう側へ行く覚悟ができている」と。
 先に書いたように昔から花嫁に父という存在は損な役回りである。だが実際には、父親の気持ちは複雑でデリケートだ。その例として彼は花嫁の父親、ひいては父親と娘というテーマを扱った日米仏3カ国の映画を引用した。「私の独断と偏見で2人の関係をレジュメすると、アメリカ映画はユーモアと溺愛、フランス映画は諧謔と自立、日本映画は情緒とおもいやりと含羞がある。ただし、どの国の父親にも共通しているのは、歴史も時代も宗教も政治も文化もモラルも、何もかも状況が異なっていても、父親の娘に対する愛情は永遠に変わらないこと」
 日本映画として取りあげたのは、父と娘のテーマを多く描いた小津安二郎の作品である。特に1948年に上映されたモノクロ作品「晩春」と、1962年に上映された遺作「秋刀魚の味」について。ちなみに、フランス語のタイトルは、秋刀魚に該当する言葉がないので「酒の味(グ・デュ・サケ)」。
 ご存知のように両作品とも父親は笠智衆、嫁ぐ娘は原節子と岩下志麻。その2つの映画に描かれた父親は決して単純な頑固者ではない。先に述べたように情緒と思いやりと含羞を包めた存在として描かれている。そして「結婚式が終わり、自宅に戻った父親の哀切な表情を私は忘れない」とつなげた。
 彼は葛藤と懊悩と迷走をいささか乗り越えて、「いまは、故郷は遠きにありて思うもの、に倣って言えば、父親は遠きにありて思うもの、という明鏡止水の平静な気持ちに至ったのである。2人には実り豊かな生活を築いてほしい」
 その恨み言とも言える謝辞を聞きながら、私もいずれ彼の抱いた深い喪失感を味わうことになるだろうと思って切なくなったのである。
 閑話休題。

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*昨年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。ぜひご覧ください。
*季刊誌「vesta」(味の素食の文化センター)に人気エッセイストの平松洋子さんとの対談記事が掲載されています。この連載は私がホストの連載です。
*季刊誌「ふでばこ」(白鳳堂)に「書具」についてエッセイを書いています。
*年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第18回の後半を掲載します。
第18回②(2015年2月1日)
 みなさんご存知だと思うが、厳選されたコニャックをベースにした有名なカクテルを並べよう。もともとカクテルを発展させたのはアメリカの禁酒法時代。歴史の皮肉とも言うべきだろうが、粗悪な酒を美味しく飲むためにカクテルが創意工夫されたからだ。こうして生まれたカクテルを片手に、ジャズとダンスに熱狂したのが禁酒法時代である。
 私は神楽坂にバーを2店持っている。バーテンダーの邪魔にならないように気を遣いながら時折寄るが、彼らに勧められるままにカクテルを飲むのは陶酔のひと時だ。コニャックを使ったカクテルはスタンダードからオリジナルまでさまざまある。芳醇な香りとデリケートな味わいをご賞味あれ。
*B&B
 名前の由来はBrandyのBとBenedictineのBを合成したもの。ベネディクティンはフランス産の甘口リキュールで、27種のハーブやスパイスで作られている。ベネディクティンの量によってB&Bの味わいがさまざまに変化するから、自分好みのB&Bを愉しめる。コニャックを注いでからベネディクティンを加えると2層のフロート状になり、逆にすると両者が混ざり合うから不思議。
*フレンチ・コネクション(French Connection)
 ジーン・ハックマンが刑事役ポパイで活躍した大ヒット映画「フレンチ・コネクション」から生まれた。琥珀色のコニャックの典雅なアロマと、アマレットのアーモンドの豊かな香りが織りなす風味は、アンニュイでデカダンな大人が生きる都会のイメージ。フランスの港町マルセイユと、大都市ニューヨークを舞台にした「レンチ・コネクション」の囲気を彷彿させるカクテル。
*和敬(Wakei)
 和敬の由来は茶の心の基本である「和敬清貧」。コニャックに日本特産の小豆リキュールと抹茶という和の材料を調和させた、いわば両国文化を超えた現代的なフュージョン・カクテル。一見すると、まるで宇治金時のようだが、その味わいは穏やかな愉悦の世界に満ちている。華やかなコニャックの魔術と和の静謐が見事なハーモニーを奏でる。
*サイドカー(Sidecar)
 カクテルの名作として知られる。由緒ある他のカクテルと同様、ネーミングの由来は諸説紛々。そのひとつは、ハリー・マッケルホーンというバーマンが、サイドカーでやって来る常連の軍人のために考案したというもの。後にハリーはパリのオペラ座の近くに伝説的なハリーズ・バーを開く。バーマンの巡礼地、ハリーズ・バーからは数々の名作カクテルが誕生した。
*アレキサンダー(Alexander)
 古代ギリシャのアレキサンダー大王ではなく、1863年イギリス皇太子だったエドワード7世と結婚したアレクサンドラ妃に捧げられて命名された。デザートのような官能的な味わいは、甘い新婚生活をイメージしたせいだろう。その後、通称アレキサンダーといわれるようになるのは、王妃の名前で注文するのが気恥かしくなったジェントルマンの優しい仕業だろうか。
*ビトウィーン・ザ・シーツ(Between the Sheets)
 心地よい甘い香りと濃厚な味わいは誘惑のサイン、とでもいうようなカクテル。それもそのはず、「ベッドに入って」という意味深なもの。20世紀初頭、ヨーロッパのホテルのバーで盛んに飲まれた。男女のまばゆい陶酔と甘美な夢にさぞや貢献したのではないか。名前からディジェスティフに飲むカクテルと思われるが、アペリティフでもロングドリンクでもOK。
*カフェ・ロワイヤル(Cafe Royal)
 美味しいディナーを満喫した後、別室でコーヒー・タイムが待っている。でも、通常のコーヒーでは物足りないという時に、さりげなく、ちょっとシャレた演出でサービスされるカフェ・ロワイヤルが興を添える。部屋の明かりを消して、ブランデーに火をつける。するとコーヒーの香りがコニャックと溶け合い、甘いゆらめきの香りが立ちこめ、ロマンティックな雰囲気が高まる。王様のコーヒーという命名に妙に納得する。
 さて、おじさんたちが高級酒コニャックに浮かれていたころ、コニャックなんてとても手の届かない、懐のさびしい私たち学生が飲んでいたのはサントリーのレッドなど。その上のランクの角瓶は懐が暖かくなりさえすれば飲めないこともなかったが、さらにランクが上のオールドや舶来のジョニー・ウオーカーなどは、いつになったら飲めることになるやらという雲の上的存在だった。
 そのころは、巷にはバーなんていうシャレた店はなく、酒を飲むのはもっぱらスナックという溜まり場だった。いまなおスナックは、特に下町界隈で寿命を永らえているそうだが、スナックという業態になじまない若い人たちが多くなっているから、いずれ姿を消して行くのだろう。当時のスナックには足繁く通う常連のために「キープ」と呼ばれるシステムがあり、ウイスキーのボトルを一定期間預けておくことができた。常連は来店するたびにそのウイスキーを好きなだけ飲める。そしてボトルが空になれば新しいボトルを補充する。また、他に、スナック以外に学生や若い連中が飲める場所といえば、「コンパ」と呼ばれる大箱があった。
 昨今、好きな酒をキープできるバーは少ないという。というのも、酒の管理が面倒なこと、狭いスペースに保管場所を確保するのが難しいことが理由らしい。かつて、ある雑誌の依頼で「キープ」を残している東京のバーを取材したことがある。まあ、そんな取材を頼んでくるくらいだから、東京でもボトルをキープするバーが少なくなったのだろう。
 1軒目に取材したのは、1964年に開店した中野にある老舗バー「ブリック」。中野駅から徒歩1分、映画「ALWAYS」に出てくるような、書き割りの鄙びた博物館に似た年代物の煉瓦壁の外観に、「SUNTORY PUB」というロゴ入りのひさしが目印。くすんだ茶色の扉を開くと、昭和レトロ感の気配が漂う店内は、落ち着いた雰囲気に包まれている。なんだか居心地の良い和みの雰囲気に体がホッと包み込まれるようだ。オープンした年に、一世を風靡したアイビー・ファッションのVANが東京・青山に進出し、「平凡パンチ」が創刊された。
 「ブリック」のバーテンダーによれば、
 「ボトルキープを始めたのは68年ごろからです。洋酒が高価な時代だったから手頃なサントリー・ホワイトが中心でしたね。ボトルキープという習慣がピークに達したのは72年ごろ。ボトルキープといっても、今のお客さまはご存じないでしょうけど、それこそ一時代を作った。贅沢なバーでは、お客一人ひとりにキープ用の鍵が用意されていて、来店したお客がその鍵で壁に並んだ箱の中に入っているウイスキーを開けて、飲んだりしたわけです」
 一時代を画したボトルキープのシステムを採用していたバーについて、勤続40年のバーテンダー氏はこう話す。
 「当時、コンパとかマンモスバーと呼ばれる大型バーに入ると、真っ直ぐだったり曲がりくねった大きなカウンターが、7本も8本もあって。それぞれのカウンターのなかにバーテンダーが2、3人いる。彼らは店に入って来たお客さまを、一斉に自分たちのカウンターに座らせようと呼び込むわけです。こちらのカウンターにどうぞと言って、店のなかで呼び込みをやる」
 ボトルキープした客は初回の会計では高く払わなければならないが、2度目からは支払いが氷代程度で済むから、何度か通えばしっかり元が取れた。ボトル1本を空けるのに平均7回かかるそうで、来店するたびにショットで注文するよりはるかに割安になるから、客の負担は軽減される。しかし、ボトルキープはスナックや居酒屋をのぞけば、洋酒を飲ませるバーではすっかり廃れてしまった。「ブリック」はこのシステムを続けている稀な店だ。
 ボトルキープのメリットは客にとっては飲み代が安くなることだが、それよりもっと大事なのは店になじめているかという気分。ボトルキープとは、そのバーにおける客の存在証明のようなもの。バーテンダーは名前を覚えてくれるし、常連として認められることになるわけだから嬉しいだろう。そこから客とバーテンダーとの間で、ハートフルな新しいコミュニケーションが生まれることもあるだろう。
 「ブリック」を辞して向かった先は、昭和30年代風の飲食店が軒を連ね、昭和の風情がただよう四谷・荒木町のバー「ピガール」。この店もボトルキープをいまも続けている。横道に入り細い路地を折れると、パリの一大歓楽街「ピガール」にあるような、パリ風の小粋でバーだ。ひと昔前は大勢の芸者を抱える花街として賑わった街だが、いまはいささかすがれた風情が濃い。それでも飲食店が数百軒もあるというから、ちょっと驚きだ。
 美人母娘がオーナーの「ピガール」の開店は68年と古い。ここが知る人ぞ知る隠れ家的バーなのは、VAN創業者・石津謙介が晩年によく通ったからである。ダンディな石津は昭和の傑物で、モダンなライフスタイルを提唱し、今風に言えば「元祖ちょい悪オヤジ」。
 石津はVAN全盛期、サントリー・バーを全国展開するサントリー社長の佐治敬三とタッグを組み、ボトルキープのオシャレなバー「スコッチ・バンク」を立ち上げた。その名の通りスコッチ・ウィスキーを銀行に預けるかのように扱うという、ボトルキープの上級編。「スコッチ・バンク」というネーミングを考えたのは石津で、彼は他にもトレーナーやTPOなど傑作を創ったネーミングの天才と呼ばれる男だ。
 そもそもは大阪を発祥とするコンパが東京に進出してマンモスバーと呼ばれ、それに代わるように登場したパブが流行った。やがてパブからバーに名前を変えながらもボトルキープはピークを迎える。高度経済成長によって人々は豊かな消費生活を享受するようになり、懐の暖かくなったサラリーマンが高価なオールドをボトルキープする。だが、時代の流れがボトルキープの運命を次第に変えてゆく。
 「ピガール」の母娘オーナーは口を揃えてこう言う。
 「気軽にできたボトルキープにも波があって、する方の数は景気に大きく左右されるものです。この店も同じで、景気がいいときはボトルキープが増えるけど、景気が後退すると減っていって、キープするのも高い洋酒から安い洋酒へ変わる。私どもの店でも、72年ごろと、バブル景気が始まる80年後半からボトルキープが増えましたね」
 その間、ブレンド・ウイスキー離れと入れ替わるようにバーボンやモルトに人気が移ったり、焼酎ブームに押された時期もあるが、世の趨勢に動じない「ピガール」では開店以来、ボトルキープを続けている。
 「それだけボトルキープの魅力が定着しているからでしょう。でも、気持ちに余裕がないとできませんね。食後にバーに来て、ゆっくり会話を楽しみながら、キープしているお酒を飲むなんて、とても素敵な習慣だと思う。いまの時代、景気の影響もあるのでしょうけど、みなさん仕事や時間に追われて忙しいようで、ボトルキープしようという心の余裕がないのかしら」
 こう言って母親は嘆くが、たしかに通いつめてなじみになったバーでボトルキープする自負と快楽には捨てがたい。バーの常連になり、時折ひとり静かに飲むのもよし。
 密かに思いを寄せる女性を誘ったり仲間を招待したりして、自分だけのためにキープしたウイスキーをさり気なく飲んでもらうのもよし。しかも接待に使えるし、いざという時に役立つ。いちいちウイスキーの選択に頭を悩ますこともないし、ちょい遊び人として羨ましがられる。
 戦後60数年、トリスからサントリーのホワイトやオールドなどジャパニーズ・ウィスキーへ、さらにバーボンからモルトへとウイスキーの多様化が進み、飲み手の選択の幅がグッと広がった。ボトルキープするウイスキーも客の嗜好によってさまざまに変化している。しかもこのシステムを取り入れているバーでも、キープしたウイスキーを1、2杯飲んだ後に、別のウイスキーやカクテルを注文して楽しむ人たちが増えているという。新しい趣向の現代版ボトルキープの誕生である。
 いまの世の中、気持ちに余裕がなくなり、頭とセンスのいい大人が減り、ボトルキープの習慣が舞台裏に消えつつあるが、仮にそのシステムにプラスの遺産があるとすれば、それは魅力的なものと映るのではないだろうか。

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新年、明けましておめでとうございます。
皆様にはご健勝のことと思います。
今年もよろしくお付き合いください。

*昨年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。ぜひご覧ください。
*12月20日発売の「メトロミニッツ」と今月号の「男の隠れ家」で『カトリーヌとパパ』が紹介されました。
*季刊誌「vesta」(味の素食の文化センター)に社会派作家の第一人者である真山仁さんとの対談記事が掲載されています。この連載は私がホストの連載です。
*「メンズプレシャス}(小学館)にエッ掲載されました。テーマはシャンパンの「ローラン・ペリエ」。
*「メンズプレシャス」(小学館)にエッセイが掲載されました。テーマは「カフェ」。
*昨年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第18回の前半を掲載します。
第18回①(2015年1月1日)
 昨今、出版不況は何も日本ばかりの現象ではない。各国とも読書人口の減少に歯止めがかからず、また電子書籍による値下げ圧力のせいで本の収益が落ち込み、大手出版社が厳しい立場に置かれていることには変わりはない。
 それにしても、東京の大手書店の海外文学コーナーに人の気配がないのは、フランス文学だけではなく、海外文学そのものへの関心が薄れているからだろう。日本の大学からヨーロッパ諸国の文学部が消えていることからも、そのことは実証される。
 とはいうもののフランスへの興味は衰えず、相変わらず多くの若者を惹きつけていることは、特に女性誌をめくるとよくわかる。また、女性誌に掲載される海外情報のライター大半を、パリだけじゃなくロンドンもミラノもローマも女性が占めていることも、若い女性にとってヨーロッパの町が魅力的に映っているからだろう。みなさん現地に長く住んでいて役に立つ楽しい情報を送ってくる。
 パリから戻って数年間、私は創立120年を超える女子大でフランス文化やフランス語を教えていた。かねてよりお嬢様学校として有名だが、いまどきお嬢様なんて絶滅種。それでも地方出身で、それらしき雰囲気をもつ女性が残っているだけでも貴重だろう。
 小教室で教えるフランス語を履修する学生数は限られていた。いっぽう階段教室で講義するフランス研究には数百人の学生が集まった。今も昔も大多数の女子大生にとって南米やアフリカをテーマにした講義に出席するよりは、やはりオシャレで、美味しい料理が多く、憧れが強いフランスの話を聴講するほうが楽しいのは言うまでもないだろう。ところが、彼女らにフランスの歴史や政治や文学などについて話しても退屈らしく、舟をこいでいる連中が目立つ。ところが、そんな話題から一転、フランスで人気のアニメやコスプレ、ハローキティやスシなどのクールジャパン、ファッションブランドや旅行、料理やワインへと振ると、それまで机に突っ伏していた学生が俄然眼をランランと輝かせて耳をそばだてる。まあ、その程度の関心というわけだが、文化発信力としてのフランスパワーはまったく衰えていない。
 以前触れたように日本は驚くべき翻訳大国。ジェームス・ジョイスとフランツ・カフカと並び、20世紀の3大作家と言われるマルセル・プルーストの大作『失われた時を求めて』の翻訳が数種類も出ている国は珍しい。今年(2013年)は第1巻「スワン家のほうへ」が出版されて100年に当たり、日本のプルースト研究のレベルは、かつて世界でも指折りと称されたマルクス研究と同じようなレベルだと知人から聞いたことがある。
 冗談みたいな話を小耳にはさんだ。世界のプルースト研究家が一堂に会する研究会があるそうな。その学会でプルースト研究が花盛りの日本の研究者は一目置かれるどころか、むしろ顰蹙を買っているらしい。なんとなれば、「神は細部に宿る」のお国柄、研究に没頭するあまり重箱の隅をつつくような按配になるからだ。文学研究にはそうした枝葉末節を問題にする側面も大事だろうけれど、欧米のメインストリームを往くプルースト研究者にとってそんな瑣末な研究はどうでもよくて、いっそ煩わしいとお怒りのご様子だという。マルクス研究にしてもプルースト研究にしても、盆栽という世にも稀なミニチュアの世界を創ってしまう、日本人ならではの離れ業だと快哉したくなるが、世界から見ればやれやれと首をひねらざるを得ないことなのかもしれない。 
 閑話休題。
 ここ10数年、日本やフランスはもとより世界的にコニャックを飲む人が激減している。時代の趨勢が重厚長大から軽佻浮薄へと流れてゆくなか、アルコールとしてはアンシャン・レジーム(旧体制)のシンボルのようなコニャックの需要が衰退していくのは当然の帰結だろう。19世紀以降ブランデーの代表たるコニャックは、主に欧米でもてはやされてきた。いまやその需要に翳りが見えはじめ、下落傾向に歯止めがきかない。そんな状況に止めをさすような不作法な飲み方が20世紀末の香港や上海で行なわれた。まさに最後のあだ花とも言うべきものであった。
 そのころ香港や上海のニューリッチはどんな風にコニャックを飲んでいたのか。私が聞き及んだところでは、最高級の逸品ルイ13世を、アイスフラッペを盛ったバカラグラスに並々と注いで飲む、といったような下品な飲み方だったという。そんな情報はマスコミを通じて日本にも流布されたからご記憶にあるだろう。もっとも、彼ら新興成金が満悦する滑稽な姿を私たち日本人は笑えない。この風景、どこかで見たことがあるなと思ったら、彼らに先行して日本人が同じようなスタイルでコニャックを飲んでいたことがあるからだ。いわずもがな、それは世界の贅沢品が日本に集められたバブル景気の最中のこと。
 日本のおじさんたちとコニャックとの出会いは、バブルから遡ること二十数年前の、植木等が歌うスーダラ節が一世を風靡した気楽で呑気な時代。フランス産のブランデーと言われるコニャックは、おじさんたちの憧れの洋酒。彼らビジネスマンや農協のツアーに参加したおじさんは、高度経済成長の上昇気流に乗ってフランスに行き、帰国する際にパリのエアポート内のブティックで必ず購入したのがコニャック。揃いも揃って全員お土産の定番として何本も買い込んだ。それから幾星霜、そんな日本人に取って代わったのが中国人である。
 日本のおじさんたちがパリに行ったころのレートは1ドル=360円。しかも国内で高価なコニャックを買うなんて難しかったし、海外で買うより何倍も高かった。だから、フランスで買って日本に持ち帰ればお得だというので、とりわけナポレオンとネーミングされたコニャックはパリの免税ショップで飛ぶように売れた。それら戦利品を喜々として会社の上司や友人知人にプレゼントしたり、自宅の居間に置かれた飾り戸棚に麗々しく並べ、悦に入っていた。
 そもそもコニャックとはどんな酒か。
 16世紀になると、イギリスやオランダの商船がフランス南西部のボルドー地方やコニャック地方に良質なワインを求めて交易に来た。残念ながら、コニャック地方のワインは優秀なボルドー産に敵わない。ところが禍転じて福となすの喩え通り、この敗退が銘酒コニャックを誕生させたのだから、その偉大な逆転劇に感謝しないわけにはいかない
 当時コニャック地方で作られていたワインは、酸が強くてアルコール分が低いもの。質の劣ったそんなワインを改良するために考案されたのが蒸留法だ。その方法を用いて作られたオー・ド・ヴィ(命の水)を、近隣のリムーザンの森から伐採されたオーク材の樽で長期熟成させたものが、コニャックの原酒である。そして年代の異なるいくつもの原酒を、神の手と呼ばれるブレンダーが絶妙にマリアージュ(結婚)させることによって、得もいわれぬ馥郁たるコニャックに華麗な変身を遂げるのである。
 以来、コニャックは平和な世の中だけでなく、多くの戦争と革命という激動の数世紀を経ながら、美しい琥珀色を輝かせ、複雑な芳香のアロマと精妙な味わいで世界中の多くのファンを魅了していく。一般にコニャックのイメージと言えば、燃え盛る暖炉の前でロッキングチェアーの上で寛ぎながら、大きなグラスにゆらめく極上のコニャックを舐めては葉巻をくゆらすというようなものだろう。
 ディナーの後に嗜む華やぎのコニャックは、まさにディジェスティフの王者の風格を漂わす。作家の開高健は「ウイスキーは人を沈思させ、コニャックは人を華やがせ、ぶどう酒は人をおしゃべりにさせる」(『対談美酒について』)という言葉を残している。
 ここ10数年、時代は大きく変った。世の中がハードからソフトの時代へと方向転換し、その時代にふさわしく、やわらかなイメージのノンアルコールやワインなどが求められ、その攻勢にさらされた。その代表格がバブルを楽しむ軽やかなシャンパンといえるだろう。栄光と名誉を捧げられた歴史的な美酒コニャックは、消費者のニーズに応えるべく新たな旅立ちをしなければならない。
 ヨーロッパではコニャックをストレートやロックで飲むという、伝統的なディジェスティフ・スタイルがいまも主流である。いっぽうコニャック新時代にふさわしく、アペリティフや長い時間をかけて飲むカクテル、つまりロングドリンクとしての飲み方が広がっている。日本発の水割りスタイルを真似て清涼飲料水で割るドリンキングが提案されている。自由な発想の新しい飲み方は、伝統と創造をキーワードに何世代も繋いできたコニャックの世界をルネッサンスする契機になり得るだろうか。

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*今年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。ぜひご覧ください。12月10日にノーベル賞の授賞式が行われました。
*夕刊紙「日刊ゲンダイ」の12月8日発売号に「週間読書日記」を書きました、最近の私の日常にも触れながら。
*11月20日に配布されたフリーペーパー「メトロミニッツ」にインタビュー記事が掲載されました。日本のフランス料理の歴史やシェフたちについて話しています。編集部が私の略歴にノーベル文学賞作品『カトリーヌとパパ』の翻訳はビッグニュースと書いてくれましたが、確かに一生に一度あるかないかの幸運な出来事です。
*12月20日発売の「メトロミニッツ」で『カトリーヌとパパ』が紹介されます。
*季刊誌「vesta」(味の素食の文化センター)に社会派作家の第一人者である真山仁さんとの対談記事が掲載されています。この連載は私がホストの連載です。
*「メンズプレシャス}(小学館)にエッ掲載されました。テーマはシャンパンの「ローラン・ペリエ」。
*「メンズプレシャス」(小学館)にエッセイが掲載されました。テーマは「カフェ」。
*今年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第17回の後半を掲載します。
第17回②(2014年12月15日)
 パリからの日帰りか1泊の贅沢美食旅行を挙げるなら、私は2つのコースを薦めたい。ひとつはパリからマルセイユ方面へ南下するコース、もうひとつは同じくパリからドイツ方面へ東進するコース。
 第1コースの目的地は、フランスの臍の辺りに位置する第2の都市リヨンだ。ワイン産地で有名なブルゴーニュ地方に隣接し、パリ発10時ごろのTGVに乗車して2時間ほど揺られればリヨン駅に到着する。降車せずそのまま行くと地中海沿岸の、フランス第3の都市マルセイユに到着。ともあれリヨン駅に着いたら、タクシーやレンタカーを利用して近在の星つきレストランを食べ歩き、当日か翌日パリに戻る。
 このコース最大の目的は、リヨン駅からタクシーで10数分で到着する3つ星「ポール・ボキューズ」である。全盛期は国際的な知名度ではフランス大統領より高いと評判だったボキューズのレストラン。店はリヨンを横断するソーヌ川沿いに建てられている、黄色が目をひく建物で、よくもまあこんな中国風の建物をこんな場所に建てたものだと感心する。
 昔から食道楽の街と言われるリヨン。その近郊にあるこの3つ星は、いまやフランス料理の巡礼地とも呼ばれる伝説的なレストランである。1965年から3つ星を維持し、御年87歳であるオーナーシェフのボキューズは名実ともにフランス料理界の「ボス」だ。
 店のドアを開けると、待ち構えていたメートル・ドテル(支配人)が恭しく席まで案内してくれる。店内を見回すと、ランチにもかかわらずテーブルはすべて埋まっている。今も昔も世界でもっとも予約の取れない店として評判である。世界中から王侯貴族をはじめ政治家や芸術家、マスコミ人や芸能人など、あらゆるセレブが押しかけた。
 客が作るさざめきが高い天井に響き、贅を尽くしたインテリアに囲まれて待っていると、やがてアペリティフに注文したシャンパンが静々と運ばれてくる。その後はメニューに従ってオードブル、魚料理、肉料理、チーズ、デザート、最後のコーヒーへと進む。もちろんワインも忘れずに。シャンパンからはじめて2、3時間も経つと、心地よい気分のままに終わりが見えてくる。せっかくパリから訪れたのだから、食後の締めに豪勢にディジェスティフを味わいたい。そして注文するのはフランスの誇るコニャック。昔の栄光もいまは失われたようで、バブルが崩壊してからコニャックは忘れられた、一部の限られた人たちが愛でる酒になってしまった感がある。
 私にとってのブルゴーニュ・コースの圧巻は、全盛時代の「ポール・ボキューズ」や、同じく3つ星「トロワグロ」などで食べたことだ。御大ボキューズ自ら運んでくれた、伝説の「地中海の鱸のパイ包み」を賞味したり、トロワグロではガラス張りの広い清潔なキッチンの一隅に設けられた小卓にトロワグロ本人に招かれ、料理人が忙しく働く勇姿を眺めながら、一時代を画した「ソーモンのオゼイユ風味」に舌鼓を打った。
 この2つの美味しい料理は、フランス料理の大御所が創作したものとしてつとに知られている。それを味わいたいがために、世界各地から食通が来店したと言われるくらい独創的な料理だ。ある時期、こうした料理に知的所有権は成立するか否かといった論争がフランスで起こったが、その発端はボキューズとトロワグロの料理を真似る店が増えたからだという。 私にはボキューズに苦々しい思い出がある。さる年、取材でリヨンに到着した夕方、翌日のランチを予約してもどうせ無理だろうと思いながら、ダメ元で電話をした。するとOKだと表皮抜けする返事が。翌日エントランスで、70代半ばのボキューズが出迎えてくれた。私は80年代から何度も彼に会っているけれど、もはや年齢からくる衰えは隠しようもなかった。
 それにもまして異様だと感じたのは、天下の3つ星ともあろうレストランの「金属疲労」からくる崩壊への予兆である。長くトップを走り続けてきたツケが回ってきたのだろうか、店内に漂う「弛緩」が気になって仕方がなかったからだ。もはや店の格を論じている場合じゃないと思った。なぜなら、3つ星では絶対にあり得ない、子どもたちの参加する誕生パーティーがダイニングの真中で行われていたからである。よもや信じられない愕然たる光景。仮にそうしたパーティーを受けるなら、客席から離れたコーナーに設定するとか、あるいは別室(立派なダイニングがある)に用意するとか、遠来の客を不快にさせない解決策を取らなければならない。それが3つ星たる所以である。
 さらに、目を覆うようなサービスが。なんと、サービス係りが男性の肩越しにナイフとフォークをテーブルに置いたり、皿を客の左側から平気で出したりと、基本にあるまじき杜撰なサービスが平然と行われている。そんなシーンを目撃しながら私は心のなかで、「アデュー・ボキューズ! 老兵は去るのみ」と呟いた。あの栄光のボキューズもここまで地に落ちたのかと。 
 まあ、こんな感慨は何度もこの店で食べた私だけのものだから当てにならない。今なお「ポール・ボキューズ」は、ブルゴーニュ・コース美食旅行のメインであり続けている。
 もういっぽうの第2コースは、パリからオートルートをドイツ方面にあるランスまで走り、店の裏手にヘリポートのある広大なグリーンに建つ、2つ星の「シャトー・レ・クレイエール」でランチを取るコース。ヘリポートが設置されているのは、ヨーロッパの王侯貴族や金持ちが自家製ヘリコプターを駆って食べに来るからだ。
 シャトーの名がつくだけあって豪華な城館のような「シャトー・レ・クレイエール」はシャンパンの故郷と呼ばれるランスにあり、シャンパン・コレクションは世界一の呼び声が高い。だから誰しも垂涎のシャンパン・リストに幻惑され、選ぶのに一苦労する。そして食後は近在のシャンパン・メゾンに立ち寄り、好きな銘柄を購入し、夜遅くパリに戻る。むろんシャンパンづくしのディナーを取りたければ、再度「シャトー・レ・クレイエール」で食べてもいいだろう。その場合は、「シャトー・レ・クレーエール」のデラックスな部屋で宿泊して翌日帰京となる。
 第1コースにしても第2コースにしても、私は何度も出かけたが、パリに暮らしていれば気軽に行ける距離の贅沢旅行である。
 ところで、3つ星シェフが創作したオリジナルな料理との出会いは、まさにタイミングが物を言う。最高のタイミングとは、独創的な料理を考案したグランシェフが生きる時代に、しかも当人が調理場で陣頭指揮を取っている場合である。そんなタイミングに出会えることなんて人生で数えるぐらいしかないのだから。
 幸運にも私は先のポール・ボキューズの「地中海の鱸のパイ包み」、トロワグロの「ソーモンのオゼイユ風味」の他に、「ジョルジュ・ブラン」の世界一と旨いと言われるブレス鶏を使った料理、ミシェル・ゲラールが考案した「やせる料理」、さらにパリでは「アルケストラート」のアラン・サンドランスのシュールなイマジネーションから誕生した「フォワグラのキャベツ包み蒸し」、「ランブロワジー」のベルナール・パコーの明晰な「赤ピーマンのムース」、アラン・パッサールの肉料理を廃し野菜だけに特化した料理など数々の創造的な料理を食べた。
 なかでも極め付きは、伝説的な3つ星「ラ・ピラミッド」の代表的な料理「ヒラメのシャンパン蒸し」と、その日のディナー。というのも、料理に心動かされたばかりではなく、テーブルで言葉を交わしたマダム・ポワンの凛として艶やかな笑顔と、老練なソムリエの大きな掌のぬくもりに出会えたからだ。そのマダム・ポワンとは、1950、60年代に一時代を築いた「ラ・ピラミッド」のオーナーシェフで、ボキューズやトロワグロ兄弟の師匠である偉大なるフェルナン・ポワンの夫人のこと。ポワンの傑出を一言で語ることはできないが、ミシュランの20数軒の3つ星のうち3分の1を「ピラミッド」出身者が占めていたという事実が、そのことを実証してくれるだろう。
 パリの3つ星で驚きの料理を食べたこともある。それは、まだロダン美術館の近くにあった先の「アルケストラート」で、オーナーシェフのアラン・サンドランスが創作した「ソーモン・ア・ラ・ツジ」。フランス料理好きなら料理名から推察できると思うけれど、日本のフランス料理の発展に多大に貢献した辻静雄の「ツジ」を付けたものだ。スシブームが到来する遥か以前の80年代初めのことで、まさか3つ星で醤油風味のサーモンを食べるとは思わなかった。
 その当時、醤油を隠し味に使う料理人はほんの一握りだったから、私にとっては単に驚きというより驚嘆という言葉がふさわしかった。まあ、種を明かせば、70年代からボキューズやロブションなど、フランスの有名料理人を招聘して生徒たちに学ばせていた調理師学校校長の辻静雄が、日本から持参した醤油をサンドランスが使用したので、その料理名がついたそうだ。
 そんな思い出に浸りながら考えたことは、私の人生にとって特権的な瞬間があるとすれば、それはボキューズやトロワグロ、アルケストラートやラ・ピラミッドで経験した鮮烈なひとときだったと言えるだろう。それらに類似した料理を食べることなら、今や都会であれば可能だろうが、人と場と時を得て食べられる恵みは、長い人生でもそう何度もあることではない。私は幸いにも、フランス料理史に残る料理を創造したシェフたちが采配を振う現場で食べた。その至福は、何ものにも替えがたいと思っている。ミシュランが3つ星を「わざわざ出向いても食べる価値のある店」とする意味がよくわかる。
 1980年末から、私は縁あってロンドンで高級フランス料理店をプロデュースすることになり、レストラン業の最前線で指揮を取った。シェフやソムリエをはじめ総勢25人のフランス人スタッフを集め、オープン2年目にしてミシュランの1つ星を獲得した。それは人生の一齣に一瞬輝く快挙のような忘れがたい経験である。それ故、ミシュランガイドの表裏に多少なり通じている自負はある。
 そうそう、自殺した3つ星シェフもいた。ベルナール・ロワゾーという名のオーナーシェフで、パリから250キロ南下した「コート・ドール」を経営していた。私が食べたのは彼が自殺する1年前で、ちょうど敷地内にスパを造成中だった。事業拡張に邁進する噂は私も耳にしていた。パリの老舗レストランを買収したり、株式を上場してマスコミに話題を提供して、いわばレストランからエンターテインメント企業へと飛躍を目論んでいた節がある。
 世の中でグローバル化が叫ばれはじめた時期で、図式としては、フランスの社会民主主義的飲食業からアメリカの強欲資本主義的飲食業へと転換を図っていたロワゾーがついに敗れたといったものだろうか。猟銃による衝撃的自殺の報に接した私が思い出したのは、「コート・ドール」で食べた料理ではなかった。いまでも耳朶の奥に残る、私の客席で何かに追い立てられるかのように私に早口で喋っていた、ロワゾーの気ぜわしげな口調である。
 他にも記憶に残るミシュラン店ではニースで食べた劇場レストランもそうだ。一時キッチンのナポレオンと呼ばれ一世を風靡しながらも、当時不遇をかこっていた料理人マキシマムが何を思ったのか、本物の劇場を借りてレストランをオープンしたのである。
 従って、客は一段高くなった舞台のキッチンを眺めて食事するという奇妙なスタイル。しかし私が食べたディナーの客は、広い客席を改装したダイニングにわずか3組という惨めな状態だった。いまならアヴァンギャルドな、文字通り劇場型レストランとしてマスコミの話題をさらっただろうが、不評のせいで短期間のうちに閉店した。じつは、食べ手が特権的な瞬間と思っている悦楽の時間は、逆にシェフにとっては喜劇とも悲劇ともなり得る、複雑な思いがさまざまに交錯している時間なのである。 
 パリから地方に行く大きな楽しみは各地の料理を食べることだ。アルザスの老舗のシュークルートも、ブルターニュの最果てで食べたクレープも美味しかった。世界遺産の城砦で知られるカルカソンヌで食べたカスレも舌の記憶に残った。キッチンで作っているところを見学してから食べたカスレは、パリでなら残したであろう相当な量が、なぜかすんなり腹の中に納まった。地元で食べているという気持ちと料理人たちの汗と熱意が、そうさせるに違いない。
 フランスでは80年代に入ってテロワール(産地、風土などの意)という言葉が盛んに使われるようになり、いまでもその精神は受け継がれている。世界的に広がったスローフードのさきがけともいえる地産地消を意味する言葉で、大地の味わいを失った、画一的で都会的な料理に警鐘を鳴らす意味で使われた。地方に根づく食材と料理にもっと目を向けよう、という声が澎湃と起こったのである。
 最近はフランスでもそんな声に注意深く耳をかたむける料理人が増えて、食材そのものの味に着目しようとする姿を見ていると、日本のフレンチを担う料理人と同じ意識を共有しているような気がする。それは国境を越えるネット時代のポジティブな側面といえるだろう。
 だが半面、そうした共通意識から生まれる料理が、技術と情報を共有できる時代だからこそ、世界中の都会で似たような、平板で顔の見えない無味乾燥な料理一色になるかもしれないという危惧がある。なぜならば、先述したグランシェフのオリジナル料理のように、もう一度あの一皿を食べてみたいと思わせ、遠方からの客を魅了し、彼らの記憶にしっかり留める、代名詞となる料理が誕生するとは思えないからだ。もはや先人たちが残した伝説の料理に匹敵するような独創的な料理は生まれないのだろうか。そんな思いは杞憂に終わればいいのだが。

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*今年のノーベル文学賞を受賞したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。ぜひご覧ください。12月10日にノーベル賞の授賞式が行われます。
*夕刊紙「日刊ゲンダイ」の12月8日発売号に「週間読書日記」に書きました、最近の私の日常にも触れながら。
*11月20日に配布されたフリーペーパー「メトロミニッツ」にインタビュー記事が掲載されました。日本のフランス料理の歴史やシェフたちについて話しています。編集部が私の略歴にノーベル文学賞作品『カトリーヌとパパ』の翻訳はビッグニュースと書いてくれましたが、確かに一生に一度あるかないかの幸運な出来事でしょう。
*季刊誌「vesta」(味の素食の文化センター)に社会派作家の第一人者である真山仁さんとの対談記事が掲載されています。この連載は私がホストの連載です。
*「メンズプレシャス」(小学館)にエッセイが掲載されています。
*今年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第17回の前半を掲載します。
第17回①(2014年12月1日)
 ここ数年、落語ブームだと言われる。だが落語に詳しい知人によれば、実態は落語ブームではなく落語家ブームらしい。一部の人気落語家の高座はホールや文化会館などで開催され、満席になるそうだ。本来落語は寄席で聞くのが一番だろうが、肝心の寄席が東京にわずか5軒しかないというのだからどうしようもない。
 考えてみれば落語家という人種は不思議な存在だ。それなりに衣食住が満たされた現代に生活しながら、車も飛行機もケータイもネットもない江戸の世界に分け入り、それを巧みに微に入り細にわたり描くのだから。そして庶民のリアルな生活感や義理人情、喜怒哀楽を情感こめて表現する。私たち現代人がその語りの内容に共感、感動するのは、あの時代に生きた人々と私たちが似たような感情に動かされていることを知るからだろう。
 およそ300年前に誕生した落語ほど特異な芸はない。高座に上がれば、たとえ客が一人しかいなくても、小道具の扇子と手拭だけで話芸を披露する孤独な芸だ。フランスにも落語家に似たような芸人にボードビリアンがいる。なかには国民的人気を博すものもいる。彼らは風刺と毒舌と話術と演出を武器に現代社会へと鋭く切り込み、アンチテーゼを突きつける。しかしそれは一代限りの芸でしかなく、その点で落語家とは決定的に違う。周知のように落語家は師匠から継承した芸を独自に解釈し、さらに自分の弟子に託すという使命がある。また両者の笑いを追求する貪欲さは同じでも、落語には人生の哲学的な哀歓が内包されているような気がする。
 テレビ放送が始まるのは昭和30年代だが、その頃テレビを持っている日本人はわずかだった。テレビに代わり、家族が茶の間で耳をかたむけていたのはラジオである。当時のエンターテインメントはラジオと映画ぐらいなもので、子どもは風の子と言われて外で遊ぶのが常だった。あの頃は街のあちこちにまだ空き地や野原がたくさんあったのだ。そんなラジオから流れてくる、今は亡き名人落語家の滑稽噺に子どもながらも笑い転げたりもした。昭和20年代に生まれた子どもたちにとって、落語は大人になってからも脳裏に焼きついている風景である。
 パリに暮らしていた頃は、さすがに落語を聴く機会はなかったが、日本から送られてくるカセットやVHSビデオで聴くことはあった。その程度の落語愛好家でも、年に数回戻る東京で、ときたま寄席に寄ったりもした。最近の落語ブームでは考えられないだろうが、客はちらほらといった状態が多く、わずか3人なんて寄席もあったな。パリから帰国してはや十数年、好きな落語を聴きながら眠るなんて贅沢なこともできるのだから、東京暮らしも悪くない。
 落語家のなかでは、ご多分にもれず私も、その昔テレビの娯楽番組で出ていた頃から古今亭志ん朝が好きだ。彼の住まいはいつごろからかわからないが、新宿区矢来町にある新潮社と背中合わせで、奇しくも「志ん朝」と「新潮」とごろ合わせになっていたから可笑しい。神楽坂から歩いて15分程度の距離にある矢来近辺は、私の散歩コースのひとつでもある。
 志ん朝の自宅は和風の素晴らしい造りで、その界隈でもひときわ目を引いた。ところが、その邸宅は志ん朝が亡くなってから他人の手に渡ったらしく、ある日表札が変わっていた。
 国民的人気番組の「笑点」で知られる三遊亭好楽が上梓した『好楽日和。』を読んだ。昭和2、30年代の貧しいながらも楽しい生家の情景や肝っ玉かあさんの奮闘など、面白おかしいエピソードが随所にある。同時にその行間から漂ってくるのは、落語という職業のかもし出す独特な香気と風味、そして好楽という落語家の飄々とした自然体の姿と温和な人柄、落語に対するひたむきな情熱と精進である。
 師匠の自慢は酒乱と付き合えること。その度量は群を抜く。酒好きでは人後に落ちず、だから同好の士への視線はかくも優しいのかと頭が下がる。それもこれも、「寂しそうにしている人を見るのが嫌い」だから、仲間に入れてあげたいという信念から来るそうだ。私のようなへそ曲がりは、「そんな人間、世の中にいやしねえ」なんて思ったりするが、どうやら師匠の寛容は本物らしい。
 噺家としての覚悟も決意のほども並大抵ではない。一時代を画した八代目林家正蔵に入門し、前座から二つ目、そして真打へ。その修業は尋常でないものだったろう。やがて正蔵が死去し五代目三遊亭円楽の弟子となる。可笑しいのは、正蔵から破門された23回は落語界の記録で、その理由は主に酒にまつわる不始末。だが、師弟の肝胆相照らす緊張感でさえ、昨今失われた人情味あふれる人間関係を思い出させてノスタルジーを誘う。
 そんな師匠に私がホストを務める雑誌の対談に出てもらった。食談義で盛り上がり、終わってから同席したメンバーで会食した。落語家と酒席を共にする機会など滅多にあることではない。だからだろうか、粋で洒脱な師匠を中心に大いに賑わい、私は失礼を省みず落語のあれこれを訊ねた。たとえば、不条理で荒唐無稽な滑稽噺(「そば清」はカフカの「変身」を髣髴させる)など。すると、優しく諭すような笑みを湛えた師匠のお喋りのおかげで、落語の深い世界や落語家の精神性の一端に触れることができた。心地よい酩酊の最中で私は、もう一度人生をやり直せるなら、師匠のような落語家と一人でも親交を持てたらなと夢想していた。
 好楽師匠は今年1月、自宅の1階に年来の夢を実現した。それは「落語のラインを1センチでもあげることをして死にたい」という潔い覚悟から生まれた寄席「池之端しのぶ亭」。東京に寄席が少なくなる昨今、若手の勉強の場として誰でも受け入れるという気概は大いに称賛されてしかるべきだろう。
 そうそう、三遊亭好楽師匠は自分によく似ているからと、敬愛する志ん朝師匠に大そうかわいがられたそうだ。私との対談でこう話す。
 「志ん生の子どもで残ってんのは、一番上の美津子姉さんだけ。3番目の馬生も、10年離れた志ん朝も死んじゃいました。みんなに、私が志ん朝によく似てるんでかわいがってもらいました。志ん朝のね、再来だって喜んでくれんですよ。私が、矢来町に住んでた志ん朝の家に、志ん朝が若い時分に食べていたコロッケ屋のコロッケとか、おかみさんがところてんが好きだって言うんで、50個ぐらい持って稽古に行ってね。『気が利くね、あんたは』なんて喜ばれてた。めっちゃくちゃにかわいがられましてね。亡くなっちゃったから、悲しくて、悲しくて、落語界はみんな沈んじゃった。あの人がいるからっていう時代だったから(略)銀座なんかに連れて行かれてね、一番下の志ん朝が、『おう、ママ、うちの弟、連れてきたよ』『あれ、朝さん、弟さん、いたっけ』って言うから、『うちのおやじが道楽したから、方々につくってんだよ』(笑)。私はしょうがないから、『そうなんですよね』なんて。初めて会った時から、馬生師匠も『あれ、うちのやっこに似てるな』とか、美津子姉さんなんかは、『あんたを見てると、うちの弟と喋ってるみたいよ』ってすごい喜んでくれた」
 閑話休題。
 さて、パリに長く暮らしていた私は、フランス各地に行ってはレストランでよく食べた。プライベートな旅の途中で寄ったときもあれば、仕事の帰りのときもある。その数はミシュランの星つきから名もない店まで数知れない。改めてそれらを振り返ると、強烈な思い出とともに瞬時に甦る店もあれば、追憶の底から滋養のようにじわりと迫り上がってくる店もある。多くはうっすらとにじんで漂っているが、さすがにトップクラスのミシュラン店ともなると、それぞれに独自の料理を食べたという思いが強く、いまなお鮮やかに彩どられた記憶は光彩を放っている。
 フランス旅行の楽しみのひとつは車窓から眺める自然の美しい佇まい。対して日本は線路のかたわらを一般道路が並走しているから、視野に入ってくるのは、自然な風景よりも家屋や商店街やコンビニなど日常生活の延長にある建物が多い。
 ともかく、人工的に整備されたような風景が車窓を流れ去る。その心地よい風景に外国人旅行者は賛嘆するだろう。ところが逆に、あまりにも美的に造作されているから、かえって単調に感じられ鼻について飽きてしまう人もいるそうだ。
 そうは言っても、どの地方を旅しても風景に感嘆せざるを得ない。それは、明晰とエレガンスと美意識に彩られたフランス的合理精神を堪能できるビジュアル的な表象である。でも、そんな風景に触れたければ、わざわざ地方へ行かなくも、パリ市内の公園を覗けば充分だ。そもそも自然に対する考え方がわれわれ日本人とは異なり、人間の手によって自然を征服することが良しとされるお国柄。だからパブリックスペースは、女性が美しく化粧をするように整理整頓されなければならないという思想の証である。
 それに引き替え日本の列車越しの風景はどうだろう。あの景色を見ていると、出てくるのはため息ばかり。よくぞここまでパブリックスパースを汚すのかと。知り合いの日本通のフランス人が、地方旅行を楽しんで東京に戻ってきたときの第一声は毎度のことながら、
 「でもさ、いつも思うんだけれどさ、なんで車窓の風景があんなに汚いの? 宣伝用の看板がここぞとばかりに並んでいるよね。あれって自然に対する冒瀆だと思わないわけ? なんとかならないの?」
 長距離列車に乗れば、誰もが目にする日常的な景色だ。彼らフランス人にそう指摘し慨嘆されるまでもなく、大半の日本人は乱立する立看板に気分を害しているだろう。にもかかわらず、いつまで経ってもあの景色は変わらない。フランスの地方を旅するたびに私が風景を愛でながら比べていたのは、車窓から眺める故郷の惨憺たる風景である。山村の奥地に行けば美しい里山が残されていると聞くが、しかしなんでこうまでして自然をいじめなきゃいけないのか、と溜息が出るばかり。やはり「わかっているけどやめられない」のだろうか。
 そうそう、日本の新幹線は対向列車とすれ違うときに「ドンッ」というショックが起こるが、フランスのTGVはそんな音もないし、カーブを通過するときの遠心力もほとんど感じない。だいたい走行中に揺れがないのも新幹線との大きな違いだ。両者の差に歴然たるものを感じるが、なぜなんだろうか。(『日本VSヨーロッパ「新幹線」戦争』(川島令三)講談社)

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*今年のノーベル文学賞を受章したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。1950年代のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。訳者としても嬉しい限り。ぜひご覧ください。
*今月20日に配布されるフリーペーパー「メトロミニッツ」に私のインタビュー記事が掲載されます。日本のフランス料理の歴史やシェフたちについて話しています。
*季刊誌「vesta」(味の素食の文化センター)に社会派作の第一人者である真山仁さんとの対談記事が掲載されています。この連載は私がホストの連載です。
*「メンズプレシャス」(小学館)にエッセイが掲載されています。
*今年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第16回の後半を掲載します。
第16回②(2014年11月15日)
 村上龍の『料理小説集』が発売されたのは、バブルへ向かう昂揚感に溢れていた80年代後半だ。主人公は東京やニューヨーク、パリや南仏やローマなどを仕事で回りながら、各地で美食に舌鼓を打ち女性と情を交わす。昔から「食」と「エロス」は緊密な関係にあるといわれるが、洒脱な文章で描かれた物語から、とりわけ美食の快楽と濃密なエロスとのからみついた、ただならぬ官能的な背徳の気配が迫ってくる。その彼方に甘美な死の匂いが漂う。
 村上は私との対談でこう話す。
 「本当に美味しい料理は官能的ですからね。僕はまだ詳しく調べてないけど、本当に美味しい料理とか官能的な食べ物を食べると、脳内ホルモンであるエンドルフィンみたいなものが出ると思う(笑)。セックスのオルガスムの時に分泌されるのと同じような物質がね。大脳生理学的に共通点はありますよ」
 昔から美食に関する名言は多々あれども、『料理小説集』にちりばめられた言葉には胸をすくような思いがする。「ヤギの脳のカリーは、刺激的な徒労の象徴」「トリュフというのは欠落感そのもの」「トリュフこそは、どんな芸術もまったく及ばない完璧なメディア」「美しい料理は、いつも優しい」など、「料理人より料理のエッセンスを知る」と評される作者の深い洞察が込められている。
 村上はトリュフ体験について話す。
 「パリの3つ星の『ロビュション』でトリュフを食べたことから始まってるんです。キャベツ包みの中にトリュフがボコッと丸ごと入ってる料理。結局、トリュフって味はないし泥みたいな感じがする。肌触りもいいわけじゃない。あれを食ったあと、さっきのあれ何だったんだろう、何にも似ていない、と妙に思ったりしたわけです。それで、非常に崇高な欠落感みたいなものを感じて、そういう風に書いたんですね」
 人間の美食への願望は官能的な欲望を刺激するだけでなく、押し込められた見えない最後の欲望を剥きだしにするのかもしれない。
 そんな対談をしてから20余年後、パリから帰国した私は村上に私の連載に出てもらった。話題はまず小説作法から。
 「小説を書いている間は、頭の中が普通のときとまったく違う。なにもおかしくなっちゃうわけじゃなくて(笑)、脳細胞をたくさん使うからだと思う。話しているときに比べたら、小説を書いているときの脳細胞は、その1.5倍くらい使っているような気がする。小説を書くということは相当疲れるし、億劫なことだけど、これほどスリリングな仕事は他にない。だからこそ厄介な仕事でもあるけれど」
 現代文学を代表する村上龍は小説を執筆するだけでなく、テレビ番組「カンブリア宮殿」では洒脱な司会ぶりを見せ、金融問題をテーマとしたメールマガジン「JMM」を発行するなど幅広く活動している。それらの背後には常に日本社会への強烈な危機意識が張り付いている。
 「小説を書いているときに、他に何かやろうとしても面白くないの。本当のことを言えば、小説の執筆は好きというより嫌いな方に近いけど、だからといって書きたくないわけじゃない。経済的にも精神的にも、僕を支えているのが小説だという思いが強いのはたしか」
 私がインタビューしたのは、ちょうど北朝鮮のコマンドが登場して評判となった『半島を出よ』を出版したころ。その作品を完成するために書斎にこもり、1日4000字と決めて執筆したという。それ以上の枚数を書けるにもかかわらずノルマを課したのは、無理して続けると脳が疲労して翌日の執筆に支障を来すからだ。その間、集中力を持続させるために誰とも面会しなかった。結局3週間で原稿用紙400枚分を執筆したが、その時点で「脳がもう止めてくれ!」と赤信号を出した。
 「小説を書くというのは、自分の持っている知識や情報のすべて、あるいは文章力や技術とかを総動員しなければいけない。日常的なことじゃないし、僕にとっては特別な行為。テレビに出演したり、子どもたちのために本を書いたりすることと少し違う。小説を書くことを取り上げられたら困る。だから、小説を書き終えたときの充実感や解放感はありますね。でも、放心状態だからワッーとなんて喜べない。それが充実感なのかもしれないけど、自分の能力をちょっとでも超えないと得られないものじゃないかな」
 小説を書くという行為がもっともフィットし、それが村上の人生を成立させている。小説のない人生は想定できないし、それは円環の一部が欠けている状態に似ている。彼の作品のあとがきや参考文献を見ると、一見破天荒とも思えるような物語にリアリティをもたせるため膨大な資料を徹底的に読破して情報を精査し、取材を重ねていることが読み取れる。それらが相俟って作家としての豊かな想像力と傑出した才能から力強い作品が誕生する。そして作品のなかに政治、経済、金融、教育、軍事などさまざまなジャンルの圧倒的な情報が惜しげもなく盛り込まれる。未踏で危険な領域に踏み込むことを辞さない作家としての潔さと矜持を感じさせる。
 「現状に対する何らかの強烈な危機意識がなければ、小説なんて書かないでしょう。それらも含めて作品にすべてを反映させているつもり。でも、僕は日本社会がこうなった方がいいとか、こうした方がいいとか考えていない。それを考える人は政治家になればいい。僕の書く小説が社会的に捉えられちゃうのは、たとえば女子高生の援交問題にしろ、北朝鮮の問題にしろ、それらを語るマスメディアのパラダイム全体に、ごまかしや嘘があると感じると書き始めるから、それが社会的だと思われる理由でしょう」
 村上作品に色濃く漂っているテーマは現代社会の「破壊と再生」。平和ボケしたぬるま湯的な日本社会、誰も責任を取らない無責任体制、集団的思考の呪縛から解き放たれた個人として自立しない日本人、あらゆるリスクを回避しサバイバルを忘れた能天気な日本人への嫌悪や警鐘など、それらに対する破壊衝動は鮮烈な印象をもたらす。ところで、フィクションである小説で「再生」を提示していくことは可能なのか。
 「それはできると思う。僕は政治家じゃないから政策の提言はできないけど、社会に出た時に、どうやって生き残っていくかというようなことはメッセージできる。抽象的で印象的な言い方かもしれないけど、読者の気持ちを支えられると思う」
 さらに。
 「僕はこう見えても内向的な性格なので(笑)、つい閉じこもりがちになる。だから、部屋はあまり居心地のいいインテリアじゃない方がいいと思うわけ。ミーティングをしたりした後は、さすがに2時間くらい小説を書けないですね。沸騰した頭を別のモードに切り替えないといけないので、ちょっと本を読んだり、プールに行ったりする。仮に本を4時間くらい読むにしても、徹底的に読んだりするから、その間は絶対に人には会わないようにしてる。『半島を出よ』のときは、ビルを爆破するシーンとかがあるので、エレベーターのメンテナンスの本なんかもね(笑)。読むのは結構しんどかった」
膨大な資料を読むのは、情報を入手しなければ執筆できない作品が多いからで、必要な情報をすべてインプットするまで徹底的に読む。「自分が欲しいと思う情報が何かが分かれば、読んでいる本やネットの情報が適当かどうか判断できる。その時間は無駄じゃないし、全然苦にならない」
 「僕は小説を書いていることを特別に考えていないんです。偉そうなことをやっているわけじゃないですよ。謙虚じゃないといけないというか、農家の人が田植えをしたり、自動車の整備工が修理したりすることと、基本的には同じことだと思っているので、子どもが書斎に入ってきても決して拒まない」
 巧みな比喩と緻密な表現力、クールでスピード感のある疾走する文章から立ち上る凄まじいインパクトに魅入られたら、彼の作品から逃れられないだろう。でも、村上の軽妙で飄々とした話しぶりに聞き惚れながら不思議な気分になったのは、小説に溢れかえる爆発的なエネルギーは、いったいどこに潜んでいるのかわからなくなったからである。なかには「謎だらけのヴァンパイア」(@見城徹)という評も。
 私がパリに定住したのは80年前後だが、先述のように村上龍がフランスでテレビ出演して、自作について語るのを観ながら隔世の感を覚えた。なぜなら、限られた一部インテリをのぞいて日本文学に関心を示さない一般人に向かって、日本人作家が語る番組なんて考えられなかったからだ。
 外国人がフランスのテレビに出演する場合、できるだけフランス語で喋らそうとする。それが無理なら,せめて英語となる。たとえ流暢じゃなくてもそう要求する。普通に考えれば外国人が自国語で話し、それを通訳させればいいようなものを、わりと執拗にそう要求する。村上龍もフランス語がダメなら英語でやってくれ、と頼まれたそうだ。
 どうしてそうなるかと言えば、フランス人の独特な中華思想が反映しているからである。中国人同様、フランス人は自国文化が世界でもっとも優れていると考えているし、フランス語に対するプライドが強いことも大きな理由だろう。ともかく下手でもいいからフランス語で喋れ喋れとうるさい。だから、外国人がフランス語を喋るとひどく喜ぶ。もし東京でフランス人と話す機会があったら、きっと喜ぶから、片言でもいいからフランス語を喋ってあげてください。
 
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*今年のノーベル文学賞を受章したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。1992年、私が翻訳した彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)が11月1日に発売されました。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。戦後のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語です。長らく絶版でしたが、再び日の目を見ることになりました。ぜひご覧ください。
*季刊誌「vesta」(味の素食の文化センター)に社会派作の第一人者である真山仁さんとの対談記事が掲載されています。この連載は私がホストの連載です。
*「メンズプレシャス」(小学館)にエッセイが掲載されています。
*今年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第16回の前半を掲載します。
第16回①(2014年11月1日)
 私の住む神楽坂から神田神保町の古書店街まで最短距離で歩くと約30分。気分によって寄り道すると、1時間前後かかるときもあるが、徒歩で往復することを考えれば散歩時間としてはほどよいコースになるだろう。古書街に行って目的の本を買うこともあれば、大袈裟だが情報収集のためもある。書店に並ぶ新刊書を見れば、世の中で何が問題になっているかわかるからだ。
 本好きの方々が書いているように、書店は森羅万象の知識と教養にあふれたワンダーランドのようなもので、想定外の出会いがあり、行くたびに一つや二つ新しい発見がある得がたい空間だ。そんなときに個人的に気になるのが、パリ生活が長かったせいか書店の奥にある外国文学コーナー。海外翻訳書のなかでも、とりわけフランスの作品に目がいくのは仕方ないだろう。昨今の出版不況で、ただでさえ客が少ないというのに、外国作品に人だかりができていることはまずあり得ない。
 私は自由業だから、神田古書店街でも新宿でも池袋でも書店にはいつでも行けるので、午後のときもあれば夕方以降もある。夕方以降に行くと、仕事を終えたサラリーマンやOLが目立ち、一見書店が賑わっている様子だが、それは主に新刊書や文庫や新書のコーナー。翻訳書の書棚は常に閑散としている。でもそこで、英語圏の作品には及ばないけれど、フランス文学の新作が積まれていると少しは救われる。
 ついでに手に取って奥付をみると大半が1刷だ。ほんの一部をのぞき、今どき増刷されるのは難しいだろうなと思いつつ、今度は日本文学コーナーへ。同じように奥付を見ると、やはり2刷になっている作品は少ない。私も作家のはしくれだから、他の作家の売れ行きは人並みに気になる。よく聞くが、作家も売れる少数派と売れない多数派という二極化が進んでいるそうだ。最近は新人作家が続々と登場していて、もはや名前を知らないが作家のほうが多い。翻訳書と同様、1冊出版して消えてしまう作家もいるんだろうなと黙然とする。このまま出版文化が衰退していくのを見るのは辛いものだ。
 過日、神楽坂に近い駅ビルに入っている老舗書店の二代目と立ち話をした。90年代まで神楽坂の坂道に書店が2軒存在し、他に神楽坂下交差点近くに深夜営業の書店があった。いまや昔の街の面影が消えて、残るは神楽坂上の交差点の先にある書店と、先の駅ビルにある書店の2店だけ。私は二代目に話しかけた。
 「ここずっと出版界も厳しいね。出版点数は増えているようだけど、だいいち書店に客が少ない。どうなの、最近は?」
 「いやー、厳しいっす」
 「でも、書店ほど居心地のいい場所はないよ。清潔だし冷暖房も完備してるし、まあ立ちながらだけど、好きな本や雑誌を読めるんだから、時間つぶしにはもってこいじゃない?」
 「そう思いますよ。ちょうど、さっきもスタッフと話してたんですけど、お客さんから書店入場料をいただくなんてことを(笑)。でも、それじゃお客さんは来ないから、帰るときにそのお金をお返しするとか」
 「そういう手もあるかもしれないね」
 最近はネット書店が隆盛だと聞く。私などアンシャン・レジーム派はリアル書店のほうが安心感があるし、新しい発見に出会えるのではないかと思う。
 閑話休題。
 フランスにおける日本文学の人気はどうか。日本で本が売れないと言われるようになって随分と立つ。それに比べてここ20年、日本文学のフランスへの輸出はなかなか盛んだ。漫画のほうはそれより先んじて80年代後半から普及しはじめ、民放で日本のアニメが次々に放送され人気となったが、激しい暴力描写が批判され下火になっていったいきさつがある。フランスで日本のアニメがいかにバッシングされたか、いずれ述べる。
 一般のフランス人にとってファーイーストの日本は、同じ辺境の認識だとしても歴史的に深いかかわりがあり、地理的にも近い東欧諸国やアラブ諸国への関心と認識に比べたらはるかに及ばないのは、まあ仕方ないだろう。80年代初頭からパリに定住した私にはよくわかるが、85年のプラザ合意によって日本の経済的プレザンスが上昇してから、フランス人の日本を見る目は間違いなく変わった。日本人と中国人とを識別できるフランス人が増えたし、公園や広場などで日本の本を読んでいると、片言の日本語で声をかけられたり、あるいはフランス人への取材がやりやすくなった。 
 さて、フランスで人気のある日本人作家は誰か。翻訳されているのは『源氏物語』『枕草子』『方丈記』などの古典、夏目漱石や芥川龍之介、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、安部公房などが挙げられる。他にも村上春樹、村上龍、よしもとばなな、石田衣良、綿矢りさ、松本清張、島田荘司、西村京太郎など、純文学からミステリーまで多様な作品が広く読まれている。以前書いたように、知名度では谷崎の『陰影礼賛』が頭ひとつ抜けている。まだ本格的な作家論はほとんど出ていないにしても、ここ数年たしかに日本文学への関心は確実に高まっている。第一回に書いたように、パリで開催された「パリ国際ブックフェア」に、東日本大震災から1年が立つという理由から大江健三郎ら多くの日本人作家が招かれた。
 パリに住んでいたころ、村上龍から電話がかかってきた。
 「今度フランスのテレビ番組に出演することになってさ。僕の作品『イン・ザ・ミソスープ』がフランス語に翻訳されたからなんだ。それでテレビで解説してほしいって頼まれてね。翻訳したフランス人も一緒に出演するんだけど、僕に英語で喋ってくれと言うわけ。というわけだから、ちゃんと喋れたかどうか観てくれない?」
 「もちろんOK。龍さんがどんな英語を喋るのか楽しみだよ」
 と電話を切った。その作品は当時フランスで唯一、日本人作家の作品をこつこつ翻訳していたピキエ社から刊行された。それでテレビを観ていたら、村上龍が出てきて英語で立派に喋っている。数日後、村上はサッカーの中田英寿を取材するためイタリアへ向かった。「立派なもんだよ。上手に喋っていたね。で、なんでサッカーの記事を書いてるの?」と私が訊いたら、「サッカーを知ってる作家は僕しかいないからさ」なんてギャグを飛ばしてパリを後にした。
 私が村上龍と初めて会ったのはパリである。彼がパリでCM撮影にすることになり、日本の代理店から依頼されて私がコーディネートをしてからの付き合いだ。以来、なんとなく波長が合うのか親しくしている。仕事でヨーロッパに来て最終地パリで拙宅に寄ったり、ヴァンドーム広場にあるジョルジオ・アルマーニのブティックで、私にアドバイスしてくれるフランス人スタッフを紹介したり、1998年のサッカーワールドカップの取材で来たときは3つ星で食事したり。あのとき飲んだシャトー・マルゴーの味は忘れられない。あるいは私が帰国したとき何度か対談したりという間柄だ。私にとって心に残る人である。
 近著『55歳からのハローライフ』まで村上の多くの小説のなかで、特に私が好きな作品は『料理小説集』。思うに、戦後ヨーロッパのレストランを舞台に書かれた料理小説のなかでは白眉だろう。数々の美味しい食べ物を会話、雰囲気、雑音、喧騒、光、イルミネーションといった感覚的事象を通じて描く。得てしてヨーロッパを舞台にすると、日本人は華やかな雰囲気にのみ込まれ、欧米に対してコンプレックスを抱えているから萎縮して上手く描けない。しかも食べ物の旨さを描くのは難しい。比喩や隠喩を使わないと的確に表現できない。その点、村上は一級のレトリックの使い手だから、料理の微妙な美味しさを人間関係や心理や情景を描写するなかで巧みに表現する。
 その辺の機微を村上は、私との対談でこう語っている。
 「僕は、料理というのはどれだけそれが美味しいかを評する言葉はないと思うんです。美味しくなればなるほどないんじゃないかと。それをどんな形で表現していくか。南仏のレストランのムースショコラの話は、それにうまく成功したんじゃないかと思ってます」
 話の筋はこうだ。失恋して深い傷を負った女性が日本からフランスへ旅をする。でも、何も見ても誰に会っても、美味しいフランス料理を食べても、頭に浮かんでくるのは別れた男のことばかり。1週間後コート・ダジュールに行き、高い丘にある町のレストランでムースショコラを食べる。その瞬間、男のことをすべて忘れる。
 「食べ物にはそういう力があって、あの作品(『料理小説集』)にはそういうことをいくつもちりばめているんです。その料理がどんな材料を使って、どんな風に作られたかという説明じゃなくてね。直接的に神経系に届く効果があったんじゃないかなと思う」
 村上は、南仏でCM撮影に行ったとき、作品の舞台になったそのレストランで同行した取材メンバーにムースショコラを食べさせた。それを食べた男はあまりの美味に驚き、自分の妻に国際電話したという。
 「そいつが女房になんて言ったかというと、すごい、ムチャクチャ美味しかった、お前にも食わせたいと(笑)。聞いてる奥さんの方は、何だか分かったようで分からないような、半信半疑だったらしいの。でも、あのムースショコラは、すごい、出鱈目にうまい、あんなものは他にない、とか言う以外ないんですよ」 

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*今年のノーベル文学賞を受章したのは、フランスの国民的作家のパトリック・モディアノ。私が彼の書いた美しい絵本『カトリーヌとパパ』(講談社)を翻訳出版したのは1992年のこと。素晴らしいカバーと洒落た挿絵は「プチ・ニコラ」シリーズで知られる、フランスを代表する人気作家のサンぺ。戦後のパリを舞台に父と娘が織りなす少し哀しくて温かい珠玉の物語です。長らく絶版でしたが、講談社で重版が決まりました。私にとって望外の喜びです。
*今年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第15回の後半を掲載します。
第15回②(2014年10月15日)
 ところで、王制が廃止されてから2世紀を超えていながらも、フランスでは王党派が現存する。彼らは荒唐無稽にも王政復古を綱領に掲げ、ブルボン王朝の血を引くオルレアン公への権力移行を主張する。驚くのは、少数派だが大統領選挙のたびにある程度の得票数を獲得すること。最近は後で述べる右翼の国民戦線と共同戦線を張るが、王政へのノルタルジーは意外にしぶとく残っている。
 パリに住んでいたころ、フランス革命により王制を打倒したことは「是か非か!」、なんていうアンケートを見たことがある。びっくりしたのは「非」と答える人が意外に多かったこと。むろん過半数には届かないが、それなりに票を得ていた。諸悪の根源は王制を「ギロチン」で打倒したことである、とでも思っている隠れ王党派支持のフランス人がけっこういるらしい。
 そんな人々は自分らのノスタルジーとフラストレーションの代償をどこに求めるのか。日本同様、フランスにも各国の王室やセレブ、芸能人の写真や記事を掲載する雑誌があって、なかでも頻繁にとりあげられるのがモナコ王室とイギリス王室。両国の王室の動静はトップ扱いで、結婚や出産、離婚や不倫、バカンスや海外訪問、ボランティアなど豊富なネタを提供するからだ。特にモナコ王室への関心は異常に高く、それはたぶん失われた良き時代のブルボン王朝の繁栄と栄華への追憶に浸れるからだろう。いわば自分らが廃絶した王制に取って替わる幻想をそこに見ているのだ。
 王党派と言えば、昨年3月に行なわれた大統領選挙の第一回投票で三番手につけ、一躍世界を驚かせた、極右のフロン・ナショナル(国民戦線)の女性候補マリ・ルペンと王党派は共通の基盤である。
 私は、彼女の父親ジャン・マリ・ルペンが泡沫候補扱いだったころからパリに出入りしていたから、左目に黒い眼帯をした、この極右男が徐々にフランス人に認知されてゆくプロセスをつぶさに見てきた。そんなこともあって国民戦線の幹部にインタビューして記事にしたことがある。それから幾星霜、第三党に躍進したのだから恐れ入る。
 彼らポピュリストの主張はつめれば2点、つまりフランス人優先主義と移民排斥である。ともかく治安の悪化も失業者の増大もすべて移民のせいだという、単純でわかりやすいもの。とりわけ移民の大半を占める、諸悪の根源たるアラブ系を国外追放すれば、問題はすべて解決するといった排外主義者。こんな政党が第三党まで上り詰めるのだから、考えてみればフランスという国も重篤な病を抱えているようだ。
 王党派と表裏一体なのが、ナポレオン派と呼ばれるナポレオン・ボナパルトへの追憶と忠誠を誓うグループである。極論すればフランスの歴史は4人――ジャンヌ・ダルク、ルイ14世、ナポレオン、ドゴール大統領――で語れると言われるくらいだから、ナポレオン人気は衰えていない。党派としては存在していないが立派な政治団体である。
 パリのシャンゼリゼ通り側から、壮麗なアレクサンドル三世橋を渡った先にあるのが、ナポレオンの遺灰が安置された「アンパリッド」。この界隈で定期的に見かけるのが老年の多い奇妙な一団だ。彼らはナポレオン風の衣装を着用し、気勢をあげてデモンストレーションしている。ツーリストにとっては異様な集団に見えるが、本人たちからすればナポレオンに対して敬意を表わす至極真面目な行動である。ちなみに「アンバリッド」の裏手にあるのが「軍事博物館」で、文字通り戦争に使用された武器を展示しているが、戦後憲法によって戦争を否定してきた平和国家・日本には存在しない類の博物館だ。武器マニアにとっては一見の価値がある。
 閑話休題。
 事ほど左様に身びいきはあるにしても、日本の歴史的・文化的資産とその多様性は端倪すべからざるものがある。だが悲しいことに日本人は、こうした資産がどれほど素晴らしいものであるかを測る基準を持たないように見える。四方を海に囲まれ、隣国と陸伝いに国境を接していないためもあるのか、他国の文化資産と比較検討することをなおざりにしてきた。時折、他国から注目を浴びるとファナティックに舞い上がったりするけれど。
 現在、日本人の美意識と日本文化の洗練と粋を理解することに長けた民族は、長い時間をかけて熟成させた自国文化を誇るフランス人をおいて他にいないだろう。開明的で合理的なラテン民族から見れば大和民族という、自分たちと正反対な国民性から生み出された繊細な文化に対する共感は、フランス人だからこそ可能である。私の感覚で対比的に両国の文化を要約すれば、セーヌ川のように滔々と流れるフランス文化、それに対して鬱そうとした森の奥にひっそり潜む底なし沼のような日本文化。だが惜しむらくは、グローバル化によって日本独自の文化は奥に引っ込み、博物館入りのような状態だ。
 フランスも政治や経済など日本と同様、グローバル化の流れに抗しきれず、かつて米ソ2大列強に対抗したドゴール大統領の独自路線を取れるはずもなく、欧州連合(EU)内の「普通の国」としてずるずると後退を余儀なくされている。最近はEUも息も絶え絶えだし、サルコジ前大統領が牽引した新自由主義は先の大統領選で拒否された。けれども、文化はアイデンティティを証明する最後の砦だとばかりに、グローバル化の荒波にもまれながらも、文化的資産を死守することに関しては卓越した戦略を駆使する。かつての国の勢いを衰えているが、自国文化は世界に冠たる一流だという誇りは少しも失っていない。
 それのみか世界的な不景気にもかかわらず、文化への投資効果を知悉しているから惜しげもなく文化予算を増大し、文化的資産を積極的にアピールする姿勢は見事である。つまり、政府の公共機関を使ってフランスの魅力を積極的にアピールし、世界中からツーリストを自国へ誘い、彼らの財布を緩めて金を落としてもらおうという算段だ。フランスという国のあざといくらいの凄さは、この辺にある。
 それに比べ不況が長引けば、一般にまず投資に見合わない文化予算が削られるのがわが日本。なんとも情けないが、先に述べたように日本には独自のポテンシャルな文化的資産と観光資源があるのだから、もっと世界に向けてアピールするべきだろう。いつまでも受身の姿勢を続けていると、外国から金を落としに来てはくれないだろう。同じく情けないことに、古くは浮世絵が、近年ではマンガがそうであったように、優良資産も外国人に称賛されてからようやく気づくといった状態が長く続いてきた。バブル時代によく使われた、企業メセナなんていう言葉はどこへ消えてしまったのか。
 日本文学研究者のドナルド・キーンが昨年、日本国籍を取得した。1922年生まれのキーンは第二次大戦中に海軍語学校で日本語を学び、戦後来日した。以来、日本の古典や現代文学をはじめ歴史や文化など幅広く研究し、2008年に文化勲章を受章。大好きな日本に骨を埋めようと、本名のドナルド・キーンをもじった「鬼怒鳴門(キーンドナルド)」に改名したことはよく知られている。
 私がここでドナルド・キーンを持ちだすには、それなりに理由があるからだ。キーンは戦後ずっと日本文学や文化への興味を持続させ、それを英語に翻訳し海外に発信してきた。その驚異的な偉業は日本人として感謝し尽くせない。あえて驚異的と書いたのは、彼が為してきた仕事を日本人は過小評価しているのではないかと思うからだ。海外で長く暮らした人間ならわかるだろうが、今に至るも日本文化や日本人の美意識に関心を持つのは、文化先進国フランスでも一握りの人間にすぎない。つまり、大多数のフランス人にとって日本という国は、極論すれば「スシ」や「アニメ」や「コスプレ」などがマスコミで話題になるときに思い出すくらいのレベル。彼らにとって日本文化なんて日常的にはまったくかかわらない、どうでもいいもの。歴史的に深い関係にあり、フランスに多くの移民が居住するアラブ諸国やアフリカの国々に比べたら、ちっぽけな存在だ。
 フランスにはドナルド・キーンのような極め付きの日本通はいない。だからこそ指摘できるのだが、もし彼のような知日派外国人を国が大学や研究機関などに資金を提供して何百人と育成してきたとしたら、おそらく世界が見る日本のイメージは一変したであろう。たった一人の知日派が、どんなに日本の文化資産をアピールしてくれたか、どれほど国益にかなう行動をしてくれたか。外交下手な日本人に成り替わり、キーンが果たしてきた大きな役割を見ているとよくわかる。ドナルド・キーン以前、近代で日本文化の素晴らしさを海外に紹介したのは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)くらい。そうそう、日本文学研究者として『源氏物語』『雪国』など小説を英訳したエドワード・サイデンテッカーにも感謝しなくちゃね。
 最近、日本通の知り合いのフランス人がこう呟いた。
 「日本はほんとに素晴らしい国だよ。だって国内に居ながらにして、古今東西の大作・名作・傑作を日本語で読めるんだから。フランスの作品に限っても、フランソワ・ラブレーもプルーストも、ランボーもクレジオも、フーコーもデリダもみんな読める。他の国の作品だって同じこと。こんな国、世界を探してもないよ。キミたちは、日本で生まれたことに感謝しなくちゃね。なんともうらやましい」
 周知のように日本は稀に見る翻訳大国で、翻訳レベルも高い。一例を挙げれば、『失われた時を求めて』の翻訳者が数人もいる国なんて日本だけ。なんとも恐るべし。
 いまさらながら思うのは、ラフカディオ・ハーンやドナルド・キーンのような得がたい人材を多数育成していたら、洗練された日本文化の秀逸さと多様性がどんなに早く海外に知られたことだろう。そのために要する予算など高度経済成長を経てバブル時代に蕩尽された、とりわけ箱物行政に見られるような公共事業に使われた巨額に比べれば、わずかな金額である。
 そうやって育成した知日派精鋭部隊が有能な民間外交官として働いてくれたなら、無能な政治家や狡猾な官僚が束になっても成し遂げられない、日本文化の海外への普及に貢献してくれたはずだ。さらに言えば、フランス的文化外交にならい、巧みな宣伝マンとなって文化外交を進めていたならば、日本人の好きなノーベル文学賞の5個や10個易々と手に入れていただろう。海外で暮らし、日本のそれなりの経済的プレゼンスと、世界にアピールされない日本文化とのギャップに切歯扼腕してきた人々なら、私の訴えたいことを容易に理解できるだろう。でも、いまさらじたばたしても、もはや手遅れ。今の日本にそんな余裕はないし、叶わぬ夢だと思って諦めるしかない。

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*今年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第15回の前半を掲載します。
第15回①(2014年10月1日)
 フランス人との思い出は数々あれど、その昔、日本通のフランス人とお喋りに夢中になり、ほんの軽い気持ちから日仏のさまざまな分野で優劣を競うといったバカバカしい、単なるおもいつきとカンによる反射ゲームに興じたことがある。  
 ちょっとした連想遊びでしかなく、とりたててゲームと名づけるほどのものではない。
 どんなゲームかといえば、日本とフランスでどちらが豊かな文化的資産を多く持っているか、そのカードを出し合いながら競うといった他愛ないもの。お互いの気持ちの底に潜むナショナリスティックな感情を誇示する、といったようなファナティックなゲームではなく、いわば能天気なお国自慢のようなもの。
 ただし、このゲームに参加する人間にはそれなりの資格が必要である。というのも、豊かな文化的資産を有する国の住人でなければ成立しないからだ。たとえ経済的にリッチな国といえども、歴史的な文化的資産が少なく、グローバル化という単一的な思考で世界を縛ろうとする国、かつて豊穣な文化を築きながら独裁体制によってその資産が散逸した国などはゲームができない。世界のなかで、そうした条件をクリアできる国はそう多くないはずで、日仏両国はお互い相手として申し分なしといえるだろう。
 1921年、高名な詩人ポール・クローデルが駐日フランス大使として赴任した。彫刻家ロダンの愛人とも言われた、同じく彫刻家のカミーユ・クローデルの実弟で、幼いころからジャポニスムに心酔した姉カミーユの影響で日本の芸術に強く惹かれた。長じてポール・クローデルは憧れの日本に行くための方法を模索し、その近道は外交官になることだと確信したという。来日したクローデルは、日仏会館やアンスティチュ・フランセ東京(旧日仏学院)を設立するために貢献したことでも知られている。
 親日家のクローデルはフランスの「エクセルシオール」誌のインタビューにこう答えている。「日本は極東最大の陸海軍を持つ強国ということにとどまらない。日本は非常に古い文明を持ちながら、それを見事に近代文明に適応させた国、偉大な過去と偉大な未来をあわせ持つ国でもある」
 日本に赴任している間は能や歌舞伎、文楽を愉しみ、暇を見つけては京都や奈良などを訪ね、水墨や花鳥画を研究した。任務を終え帰国後も生涯にわたり日本を愛した。日本の戦況が悪化した1943年、パリで開かれたある夜会に招かれて次のように話したという。
 「私がどうしても滅びて欲しくない一つの民族があります。それは日本人です。あれほど古い文明をそのままに現在に伝えている民族は他にありません。日本の近代における発展、それは大変目覚ましいけれども、私にとっては不思議ではありません。日本は太古から文明を積み重ねてきたからこそ、明治になり急に欧米の文化を輸入しても発展したのです。どの民族もこれだけ急な発展をするだけの資格はありません。しかし、日本にはその資格があるのです。古くから文明を積み上げてきたからこそ資格があるのです」
 さて、冒頭の話に戻ろう。ゲームは、われわれ日仏の二人が交互に自国を代表する歴史的・文化的資産をカードのように提出することで始まった。
 まず相手がパリという街を出してきたので、私は地元の神楽坂で対抗しようと思い、国際的な知名度は桁違いだが、通称プティ・パリと呼ばれる神楽坂を告げた。次いで文学はどうかとなり、彼が勇んで切ったカードはマルセル・プルースト。
 「『失われた時を求めて』は、20世紀最高の長編小説と言われているからね。どんな作品にも負けないと思うよ」
 それに対して私はすかさず女性作家を挙げて挑発した。
 「わが方には紫式部の『源氏物語』があるからな。しかも女性。考えてもみてよ、プルーストはたかだか100年前の作家にすぎないでしょう。でも、紫式部はなんと遡ること千年という大昔の作家。われわれのほうに分があるのは明らかだ。ついでに一言。キミは日本通だから知ってるだろうが、この難解な作品が日本で得をしているのは、絶妙な日本語のタイトルに負うところが大きいから。だって、甘美な追憶や幻想を誘う、曰くありげな香高いタイトルだからさ。仮にだよ、『失われた時間を探して』とか、『失った時を見つけ出して』なんて訳されていたら、幻滅しちゃって、きっとこの作品の寿命は早く途絶えていたに違いない」
 文学・演劇部門はどうか。私は井原西鶴と近松門左衛門の二人を挙げた。対して敵が挙げたのは悲劇と喜劇の両巨頭、ラシーヌとモリエール。両者は互角の勝負かもしれない。さらにゲームは進み、
 「中世最高の傑作と言われる、フランス最古の素晴らしい詩集『ローランの歌』は一押しだ」
 と彼が強弁するから、私は「万葉集」を挙げて勝負に出た。
 そんなこんなとダラダラ続けていくうちに、次第に雰囲気は盛り上がり、双方は火花を散らすように思いつくまま次々にカードを切っていった。ほとんど脈絡もなく、両国独自の資産対抗合戦となったのである。以下その実情を。
 詩人はボードレールに芭蕉、ランボーに西行・山頭火連合軍、映画監督はジャン・ルノワールとジャン・デビュビュエとルネ・クレールに溝口健二・小津安二郎・黒澤明・成瀬巳喜男の四羽烏、同じくヌーベル・ヴァーグ×松竹ヌーベル・ヴァーグ、ゴダール・トリュフォー・シャブロル連合軍×大島渚&吉田喜重&篠田正浩連合軍、ジャンヌ・モロー×原節子、フランソワーズ・アルヌール×高峰秀子、ルイ・ジューヴェ×三國連太郎、ジャン・ギャバン×三船敏郎、アラン・ドロン×高倉健などなど。
 そんな連想ゲームがいつ果てるともなく続き、下手をすると徹夜になりそう。やがて両者に疲労が見えて来たところで、いちおう終了。彼と別れてから、私は一人で互いが列挙した日仏の歴史的・文化的資産を比較・整理した。結局、その関連性は不明だし、裏付けも取れず、単なる思いつきのジュ・ド・モ(言葉遊び)に過ぎなかったが、読者の皆様にはご容赦を。
 以下、順不同ながら日仏両国の対抗馬を列挙して読者諸賢の判断を仰ぐとしよう。
 *文化――印象派×浮世絵、ユトリロ×佐伯祐三、モディリアニ×藤田嗣治、ユゴー&バルザック×江戸の戯作者、アンドレ・ブルトン×滝口修造、マルキ・ド・サド×埴谷雄高、ゴッホ×棟方志功、ドゥミ・モンド×花魁、メゾン・クローズ×花柳界、型紙×アール・ヌーヴォー、セーヴル焼×有田焼、マリア像×弥勒菩薩、バレエ×日本舞踊、モダンバレー×舞踏、ヴァイオリン×三味線、フラワーアレンジメント×華道、シャンソン×小唄、オペラ・オペレッタ×歌舞伎・能・狂言、カルティエ・ブレッソン×アラーキー、ロベール・ドワノー×森山大道、モーリス・ルブラン×江戸川乱歩、クレジオ×大江健三郎、モーリス・ベジャール×蜷川幸雄、バンド・デシネ(マンガ)×宮崎駿、ダダイズム・シュールレアリズム×横光利一の名言(たとえばトリスタン・ツァラに向かって「日本は地震が多いからシュールは育たない」など)、ドリュラ・ロシェル×保田輿十郎、エミール・ゾラ×永井荷風、セルジュ・ゲンズブール×勝新太郎、エディト・ピアフ×美空ひばり、ココ・シャネル×森英恵、ジョルジュ・サンド×岡本かの子、フランソワーズ・サガン×有吉佐和子、ボーヴォワール×瀬戸内寂聴、マルグリット・デュラス×林芙美子、ル・コルビジュ×白井晟一、ジャン・ヌーヴェル×安藤忠雄、ジャン・コクトー×岡本太郎、アンドレ・マルロー×白洲次郎、ドビュッシー×武満徹など
 *政治――ブルボン王朝×徳川幕府、ルイ14世×明治天皇、フランス革命×明治維新、ジャンヌ・ダルク×川島芳子、ポンパドゥール夫人×勝民子(勝海舟の妻)、マリー・アントワネット×豪姫、ナポレオン×西郷隆盛、ナポレオンのエルベ島脱出×後醍醐天皇の隠岐の島脱出、ラファイエット×勝海舟、ダントン×坂本龍馬、ドゴール大統領×織田信長など
 *思想家――ルソー×中江兆民、サルトル×鈴木大拙、レヴィ・ストロース×柳田國男&南方熊楠連合軍、ポール・ヴァレリー×小林秀雄、ミシェル・フコー×吉本隆明など
 *料理・食べ物・酒――高級フランス料理×懐石料理、ビストロ×居酒屋、ワイン×日本酒、トリュフ×松茸、フォワグラ×アンキモ、チーズ×納豆、コーヒー×茶の湯、クロワッサン×スシ、ブリア・サヴァラン×北路子魯山人、エスコフィエ×秋山徳蔵(天皇の料理番)、ポール・ボキューズ×湯木貞一、ジョエル・ロブション×石鍋裕など
 *その他――パリ×京都(姉妹都市)、ラスコー壁画×高松塚古墳、TGV×新幹線、ヴェルサイユ宮殿×皇居、ニースのカーニヴァル×三社祭、コート・ダジュール×沖縄の海、ノートルダム寺院×浅草寺、リュクサンブール公園×浜離宮、アルプス山脈×富士山など
 そうして最後に私から究極のカードが切られたのだ。それは、この地球上に比類のものは存在しないミステリアスな天皇制。周知のように現在のフランスはフランス革命によって王制が打倒され、大統領をトップに据えた共和制が敷かれている。従って、比べることは不可能。

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*今年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第14回の後半を掲載します。
第14回②(2014年9月15日)
 いまから10年ほど前、雑誌の依頼で、来日したフランス人にインタビューした。先のアルノー帝国からプロモーションのために派遣されたシャンパンメーカー社長。意外にも気持ち良い男だったが、私の質問に葉巻をくゆらせながら、
 「僕の趣味は大海原をセーリングしたり、好きなフォービズム絵画をコレクションしたり、その絵を売買すること」
なんてエネルギッシュに語る。36歳で総帥アルノーからじきじきにヘッドハンティングされて、5年間で生産量を8倍に増大したと豪語するアメリカ型ビジネスマンで、言ってみれば、日産自動車の最高責任者カルロス・ゴーンを思い起こさせる人物だ。幅のある体形といい物腰といい、口調も表情も視線もゴーンと似ている。私はインタビューしながら、パリでこの社長のように足を投げだし、ケータイやスマホに夢中になっている人々を思い出していた。
 東京では似たような光景がすっかりなじみになった。老いも若きもケータイやスマホにかじりついている。電車の乗客がいっせいにスマホに見入っている姿は当たり前となり、本や新聞を読んでいる人間はいまや少数派である。プラットホームでも階段でも、ゲームに夢中だから歩行の邪魔。満員電車のなかでもゲームに首っぴきになっているけれど、そうまでしてやりたいのか。歩きスマホは危険極まりない。
 先日、傾斜の急な神楽坂を若いカップルが上がっていた。スマホに夢中の男に女が、
 「ねえ、聞いてんの? 私の話、聞いてんの?」
 と何度も話しかけているが男は知らんぷり。どうやら痴話喧嘩らしい。そこで、たまたま彼らの背後を歩いていた私は、キューピッド役になってやろうと彼女に、
 「大丈夫、ちゃんと聞いてるよ!」
 と声をかけてやった。すると男と女は同時にびっくりして振り返ったが、そのときの表情はしばらく私の脳裏に焼きついていた。私は余計な世話を焼いたらしい。でも、若いカップルはしばらく盛りあがったに違いない。あるいは仲直りして、私は「変なおじさん」から一転「救いのおじさん」へ格上げされたかもしれない。そんなことはないか。しかしながら、スマホに夢中になっている姿は、他人に対する無防備、無自覚、無頓着、無関心の極みだ。
 これほどケータイが普及していなかったころ、来日したフランス人男性が私にこう言った。その人は少し日本文化に通じている。
 「なんで日本人は電車のなかで位牌を拝んでるんだ? やっぱり敬虔な仏教徒だから? でも、じっとケータイを見ている姿はスキだらけだな」
 位牌とは恐れ入った。大昔「傷だらけの人生」なんていう歌があったことをふと思い出し、これでは「スキだらけの人生」だなと苦笑した。
 それに比べれば、「私は他者」と言ってのけた詩人のランボー、「地獄とは他人」と書いた作家のサルトルなどを輩出した国の国民だけに、たとえスマホ片手のアメリカ型ビジネスマンに変身したといえども、他人の目がギラリと光る外部に対して注意警戒怠りなく、前身針をむきだしにした「スキのない人生」を感じさせる。幼いころから、たえず他人の集合体であるパブリックのなかで自分を確認する作業と訓練をやらされ、自分と他人との関係と距離を的確にはかりながら生きているフランス人。
 よく耳にするが、強欲資本主義の代表選手であるアメリカ人は、汽車に乗り合せた同士があいさつ代わりに、いきなりカネの話をするという。前に座った見ず知らずの旅行者に、自分はこうやって金をかせいだとか、あんたの年収はいくらだとか無粋にも訊ねるそうだ。本当かどうか知らないけれど、アメリカ人ならあり得る。良かれ悪しかれ、アメリカ型グローバリゼーションをはかる基準のひとつがカネだから。対するフランスでは長い間、人前でカネの話をするのははしたない行為だと思われてきた。
 長くアメリカ型のマネー・キャピタリズムのモラルに反発してきたフランスで、ここ十数年のことだが、まず政治が、ついでマネーが会話のタブーから外された。アメリカに対抗できる唯一の国と言われたフランスもEUに加入し、もはやアメリカナイゼーションから逃れられないのである。古代ローマ時代のシーザーがブルータスに裏切られたときの「ブルータス、おまえもか!」に倣っていえば、「フランス、おまえもか!」と私などは言いたくなる。
 とまあ、カネにまつわるアレルギーが崩壊しつつあるフランス。いまでも知性、教養、洗練、エスプリなどがフランス人の価値観の上位を占め、それはたしかにフランス的価値観を代表するもので、人前でカネにまつわる話をするのは、躾と育ちの悪さ、マナーの欠如、無教養、品性を疑われる以外のなにものでもないと見なされていて、もっとも嫌われる話題である。そうした考え方は、緩やかにだが確実に徐々に崩れているようだ。  
 私が言いたいことは、フランス人の金銭に対する態度である。先のシャンパンメーカー社長のように、典型的なアメリカ型ビジネスマンが大手を振って闊歩する社会となり、教養、知性、エスプリ、品性といったフランス的価値観とは正反対の人種が出てきたことを嘆いているのだ。
 閑話休題。         
 前々回「外交」について述べた際、「社交」について書こうと思いながら中断した。「外交」という言葉を聞くと、なかにはドイツ統一に貢献した「鉄血宰相」ビスマルクを思い浮かべる人もいるだろう。一般に彼の歴史的な評価は頑固な保守主義者というものだが、実際には手練手管を弄して妥協を探る現実主義者の側面を持っていた。四面楚歌に陥る危機的な状況を脱出するために、「アメとムチ」を使い分け、時に「風見鶏」となり、瀬戸際外交を駆使して局面を打開したことで知られている。世を支配する正論だけでは外交はできないという証左である。
 巷間「民間外交」とよく言われるが、たとえば異国で働く料理人の場合などもその範疇に入れてもいいだろう。彼らは単に料理人として旨い料理を提供するだけではない。彼ら自身は民間外交をしていることにに無意識だけれど、どんな稚拙な形にせよ外交官的素養がなければ、そもそも異文化のなかで長く暮らすことなどできやしない。理想としてはフレンドリーでユーモアを解し、洗練された会話を交わしながら、地元の人間の琴線に触れる知性を備えていなければならないが。とにかく、自分のアイデンティティを守りつつ異文化を理解するという、けっこう難しいエスプリが要求されることだけは間違いない。
 さて、ウィークエンドになると、多くのパリジャンは友人知人を自宅に招待し、あるいは彼らに招かれて夕食を共にしながら、仕事を離れて会話を楽しむ。そうした会話を通して相手の考え方や性格、人間性が見えてくると信じている。
 夕食への誘いは、招待する側の女性が電話をかけてくることから始まる。特にフランスは何事もカップル中心の社会だから、言うまでもなく招待はカップル単位で行われ、余程の事情でもない限り、日本のように男性や女性がひとりでやって来ることはまずあり得ない。独身だけの食事会は別にして。 
 けれども、週末の仕事を離れた楽しいディナーだからといって、だらだら飲み食いし、無駄にお喋りするだけの集まりだと思ったら大間違い。これはお国柄としか言えないが、ディナーに招かれた、さまざまに異なる職業の人たちが仕事以外の会話を一晩でも共にすれば、その人間を判断する材料はほぼ揃うはずだと考えられている。つまり、いかに豊かな話題を持っているか、視野の広さや知性や教養の程度までかなり判明するだろうと。そして怖ろしいのは、それらの要素が総合的に判断され、当人の評価につながってしまうことだ。そう思うと、一見飲み食いしながら愉快に喋っているようでも、意外に緊張を強いられる厳しい面があることを知っておかねばならない。
 もちろん日本でも仲間や友人が集まり、食べたり飲んだりを楽しむことはよくある。そして話題が途切れたら、喋らなくても済むカラオケへ直行なんてケースが多々ある。日本ではディナーのテーブルに集うのは職場の同僚、学校の知り合い、近所の住人、同窓生や趣味仲間など似たような環境にいる友人知人というのが相場だ。それに対してフランスは、ときに同じ環境の人々が飲み食いする場合もあるけれど、招待客が互いに顔見知りでないことが少なくない。いわば前者の目的が友人知人という内向きの結束を固めるための儀式であり、後者は反対に身内意識から脱却して外へ向けて繋がりを広げていくことにある。同じ社交といっても日仏両国でその内容は決定的に異なるのだ。
 なぜフランス人はそんな面倒なことをするのか。それは、異なる仕事に従事する人々がひととき話し合えば、多様な意見や新たな思考や奇抜な発想、日頃気づかないこと、思いもよらぬ考え方に触れることができるし、自分の人生や仕事をまったく違う角度から見直す機会ともなり得るからだ。おまけに、多くの人たちと知り合えば、仕事上でもコネができ便宜を得ることもあるだろう。
 そんなディナーで一番の問題児は、みんなが楽しくお喋りしている傍らでひたすら沈黙している客である。すると社交に問題ありと見なされ、あいつは何を考えているのかわからない、自分の意見もない、つまらない人物だと判別されることになる。そうならないためにも、積極的に会話に加わり発言し、「面白い話題を提供した人」とか、「インテリジェンスを感じさせる人」とか、「発想のユニークな人」といった好印象を一座に与える必要がある。それに成功すれば、次回のディナーにお声がかかるというわけだ。事ほど左様に、フランス式社交というのは、社交下手な日本人にとっては苦痛な数時間になるかもしれない。
 そうそう日本の最高権力者の最近の発言やフェイスブックのバトルを見ていると、この人がフランスのパーティーのメンバーにいたら、次回は招かれないだろうなと思わせられる。なんとなれば、政治家としてまともな対話も論争もできず、あからさまに論点をすり替えたり、自身の責任を曖昧にするなど、権力者に求められるインテリジェンスを少しも感じさせないからだ。
 ついでに。
 最近話題の「復興庁参事官」と「人権人道大使」の知性を欠いた発言は日本の最高権力者の発言と同様、あまりにおそまつすぎて開いた口がふさがらない。この二人もフランスにおいては、一度も会食に招待されないだろう。
 フランスの会食に関してもうひとつ需要な点は食卓の席次。これは食卓の形や大きさによって異なるが、意外に複雑な問題をはらんでいる。かつて日本では水が上から下へ流れるように、あうんの呼吸のように自然に席次が決まったものだが、今やそんな時代ではない。昨今の鈍感な日本人にはなかなか理解しがたいことかもしれないけれど、フランス人は席次に関しては怖ろしく敏感だ。でも、決して難しいことを言っているわけじゃなく、むしろ簡単なこと。たとえば、セオリーのひとつに、同伴したパートナーはテーブルの、必ず同じ側に着席する。また隣同士に着席させないことなど。両者がなるべく視野に入らないよう気遣うことが大事だ。なぜなら、男女の単純な心理を慮ってのことだから。たぶん、共に暮らす2人は互いに飽き飽きしているだろうから、せめてお喋りしないで済むように、視線を合わせないで済むように、別々に離れて座らせてあげたいという人情からである。
 最後に一言。
 ディナーの席でワインのラベルを話題にするのは、はしたないことだからご法度だ。東京でなら薀蓄おじさんは、好かれないにしても嫌われることはあまりないが、パリの場合は注意すること。要は、ワインは高くても安くても所詮は会話のつまみにすぎないし、みんなで楽しく飲めばいいだけと思っているから。
 ところで、社交下手な私はフランス人家庭に招待されたらどうしていたか。そんな場合は窮策を用いながら、それなりに巧妙に逃げる手立てを心得ていたから問題はなかった。しかしながら、いまになって思えば、浅はかな弥縫策でよくぞまあ暮らしていたかと、いまさらながら呆れたり驚いたり、感心したりゾッとしたり・・・。

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【イベント】
拙著『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)の刊行記念特別講演会が開催されます。
出演◇宇田川悟
日時◇9月15日(月・祝日) 14:00~15:30 (13:30開場)
会場◇ホテルオークラ東京 コンチネンタルルーム(本館1階)
会費◇4,000円(コーヒー&ケ―キ&書籍込み)
【ご予約・お問い合わせ】ホテルオークラ東京営業企画部広報課 (03-3224-6731)/月~金(9:00~17:00、祝日を除く)

*今年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第14回の前半を掲載します。
第14回①(2014年9月1日)
 個人主義の権化とも言うべきフランスに、「一般化してはならない」という格言がある。言わんとするところは、物事を画一般化・矮小化することはダメ、多様性こそ尊重すべきであるとする戒めだ。要するに、人間は各人が異なる個性で生きているのだから横並びにはなじまない。数字で置き換えられるような記号的な存在ではないのだから、同列に論じるべきではない。しかも、歴史的にも人間を数値化したナチズムや共産主義のトラウマが残っている。だから、フランス人は世論調査やアンケートや統計を極端に嫌う人たちである、という図式が成り立ってくる。
 というのは、いまや昔の話。近年はどうしたものか、日本並みに、いやそれ以上に人間社会を数字的に見る各種アンケートの花盛り。とはいっても、冒頭の格言は彼らフランス人にとって、生きていく上で重要なテーゼのようなものだから絶対に外せない。いまもしっかり生き続けているし、なまじアンケートに自分の考えや行動が左右されるようなやわな人種ではない。結果を見ても、我関せずとただ横目でシラっと見ているだけだ。
 そもそもフランス人は、コマーシャリズムにまんまと乗せられる善良な日本人とは異なり、はしたないコマーシャリズムをせせら笑うような人たちである。コマーシャリズムに易々とだまされず、したたかに自己主張を貫くことを信条にしているのだ。
 ここでひとつお断りを。
 長くパリに暮らした私はいちおうフランコフィリ(フランス贔屓)を自称しているから、いろいろ日仏事情を比較検討しながら、どちらかと言えば日本&日本人批判に傾きがちである。だからといって、日本&日本人を殊更おとしめようとしているわけではないことはわかってほしい。生まれ育った日本という国も好きだし、30代まで東京で培ってきたものが、私の強いバックボーンになっている。日本人も好きだし、日本文化への敬愛は人後に落ちないと思う。海外で生活すると俄かナショナリストになるという意味も得心している。そして日本人の特色である素直や謙虚、柔順や忍耐といった美質がどんなものにも替えがたい価値であると認めている。残念ながら、それらの美徳を世界の多くの人々が認識しているわけではない。パリに住んでフランス人の裏表を見てきた私には、日本人の美徳がどんなに優れているかよくわかるだけに残念だ。
 80年代後半から、パリは東京に似てきたといった記事が目につくようになった。その時期、バブル華やかなりし東京と同じようにパリも新しい建物がそこかしこに建造された。第2凱旋門と呼ばれるグランダルシュ、第2オペラ座、ルーブル美術館の中庭のピラミッド、大蔵省、アラブ会館など100年ぶりにパリの景観を大きく変貌させるような建設ラッシュが続いた。そんな雰囲気が、好景気にわき、工事で膨大な土埃をあげる東京に似てきたという議論を招いたのだろう。だが、東京との大きな相違点は、新建築が21世紀のミレニアムに向けて、百年の計とも言うべき遠大なる都市計画の一環として、国家主導により建設されたことである。その点は忘れてはならない。
 21世紀のパリもヨーロッパの主要都市と同様、グローバル化の大波から逃れられない。そんなわけだから、自然主義者ルソーの申し子らしく、機械文明を信用しないことにかけては彼らの右に出る人間はいないといわれる国でも、ケータイやスマホを持ち歩き、東京と同じく人目もはばからず長電話するパリジャンが増えた。カフェや公園、広場やエアポートなどパブリックな場所で足をなげだし、大声で話すフランス人の姿が目立つ。行儀の悪い連中が大手をふって闊歩するようになったのである。
 以前書いたようなフランス式マナーの低下は街中でも目につく。他人と袖をふれただけで「パルドン」とあやまり、ドアを手でおさえて次の人を待ち、エレベーターでは女性を先におろすのが礼儀だったのが、最近はそんなマナーも忘れてしまったパリジャンもいる。原因のひとつは、アメリカ型グローバリゼーションの影響だろう。
 その昔、フランス経済を支配するのは、元貴族やブルジョワなど200家族の有産階層だと言われた。第2次大戦後、そうしたシステムは崩壊したけれど、ついこのあいだまで200家族に支配されたフランスというイメージは亡霊となって漂っていた。昨今のフランス発の情報といえば、主にファッションとグルメに限られてしまい、その政治も経済も一般の日本人にとって遠い国で起こっている無縁な出来事らしい。もはやフランスを支配した200家族と聞いても、ピンとくる人はきわめて少ない。
 昨今のフランス企業売上高上位500社なんていう番付を見ると、200家族という存在はほぼ消滅した。それらの家系でかろうじて生き長らえ、番付に顔を出しているのはせいぜい数社にすぎない。有名なのは世界最大の化粧品会社ロレアル(M&Aを進め、傘下にイヴ・サンローランやランコムや日本のシュウ ウエムラなど)や名門シャンパンメーカーぐらい。リストの大半は自動車メーカー、フランス国鉄、電力ガスなどの他に新興勢力のテレビ局、ファッションやワインメーカーや近年のグローバル化で成長してきたIT関連企業だ。
 さて、フランスのブランド界を牛耳る二大勢力は、ルイ・ヴィトンやカルティエなどを系列に置く、総帥ベルナール・アルノーが支配するブランド帝国「LVMH(ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシー」(略語はルイ・ヴィトン、モエ・エ・シャンドン、ヘネシーの頭文字)、もうひとつはグッチやサン・ローランなど20社を傘下に置く、大富豪実業家フランソワ・アンリ・ピノーがトップのPPRグループ。同グループは今年6月に社名をケリングに変更し、ラグジュアリー企業として新たな世界戦略に乗り出した。アンリーとピノーの両グループは高級ワインやシャンパン業界でも激しく買収合戦を繰り広げてきた。
 ほんの20年ほど前までは、先述したようにフランスは機械文明を否定する気分にあふれていた。もちろん、他のEU諸国と同様、ラジオ・テレビ・家電・自動車など20世紀科学が生み出した文明利器の恩恵を大いに享受してきたが、その普及ペースは他国に比べて緩慢だった。それもこれも18世紀に「自然に帰れ!」と説いた啓蒙思想家ルソーの申し子であるフランス人らしく、反機械文明的な考え方が無意識のうちに抱え込まれていたからだろう。
 そんな例証は日常のなかによく見られた。昔からゲタ代わりに使用されてきたポンコツ車が堂々と街中を走っていたし、ほとんど洗車したこともないような車が歩道に乗り上げて臆面もなく駐車していた。またブリコラージュ(素人大工)が女性をまきこみ興隆し、「ドゥ・イット・ユアセルフ」精神に鼓舞され、ちょっとした家庭用品なら自慢の腕を披露して手作りする。21世紀になってさすがにポンコツ車や汚れた車は消えたが、いまなおブリコラージュのほうは盛んだ。デパートや専門店で売っている商品より自前の作品に信を置く傾向が強い。
 また、ブリコラージュは得意なくせにフランス人は不器用だ。それも機械文明への無意識的な反発の表れかもしれない。デパートや専門店で商品を包装する彼らの手元を見ていると、重ねた紙の端がズレたり、折り目が何本も並んでいたり、紐の使い方がぎこちない。手先の器用な日本人としてはつい声をかけて、手伝ってあげたくなる。でも不思議なことに、包装されたパッケージはなかなかシャレた感じに仕上がる。たぶんこの辺りが歴史の重層から抽出された、彼らの融通無碍な独特の美的センスというものだろう。それにしても、ぎこちない手先は、便利で効率性があって無駄がなく、ディテールを含めて一貫したリアリスティックな意志を持つ機械による支配に対する、人間のデリケートなセンチメントを表象しているような気がしてならない。
 私がまだパリに居住していた90年代半ばに行なわれたアンケート結果を見て驚いたことがある。というのも、「将来も絶対にパソコンを購入しない」と拒絶する家庭が過半数を超えていたからだ。18世紀に「自然に帰れ!」と説いたルソーの嫡子という自負がもろに出ていて小気味良いが、機械文明に対する抜き差しならない不信感は、この国の人々に固有な特殊性に帰すべきか。
 フランス人のきまぐれはいまに始まったことではない。ひとたびパソコンの使い勝手のよさを認めたら、雪崩を打ってパソコン賛美派に寝返る。そんな予想外な調子よさは、以前書いたように、パリの美観を損ねるからと猛反対したエッフェル塔にしても、同じく建設に反対した現代文化の殿堂ポンピドーセンターにしても、あっという間に宗旨替えした実績からもうかがえる。そう思って最近の普及率を見ると、案の定、拒否の鎧をかなぐり捨て、パソコンもケータイもほぼ100パーセントの普及率である。
 かつてこんな小話を聞いた。
 仮にフランス人作家が利き腕を切断しても、もう一方の手を使ってなんとかタイプライターを打てるから筆を折る必要はない。反対に手書きの日本人作家の場合は断筆を余儀なくされる。なぜなら、利き腕を切断されたら執筆はほぼ不可能だから。しかしいまはパソコンがあり、片方の手でキーボードを叩けるから作家生命は終わらない。まことに慶賀の至り。

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拙著『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)刊行記念特別講演会が開催されます。
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①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
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*引き続き第13回の後半を掲載します。
第13回②(2014年8月15日)
 最近、パリのカフェが様変わりして、カフェ事情に大きな変化が起きている。映画や雑誌でおなじみの昔ながらのカフェが減り、流行りの簡便なカフェが上陸したからだ。ここ十数年フランス全土で数万を超えるカフェが閉店に追い込まれ、フランス人の半数がカフェに入らないという、驚くべき事態を迎えている。とりわけ地方は都会に出る人間が増えているから深刻で、1軒のカフェすらない村もあるそうだ。
 長い間、フランスの外食産業の底辺を支えてきたカフェは教会と対をなす象徴的な存在である。いわばカフェが俗なるものを、教会が聖なるものを代表してきたからだ。どんな片田舎に行っても、カフェと教会はパブリックな舞台として不可欠のもの。近年、日常生活に密着した特権的な空間であるカフェが音を立てて崩れている。写真家のロベール・ドワノーが撮影した、ノスタルジックな思いを呼び起こす印象的なカフェ風景が失われつつある。
 なぜそんな状況になってしまったのか。原因はいくつも考えられる。まず1970年代初頭にアメリカ型ファストフードという、最大のライバルが出現したことが大きい。町にマクドナルドが1軒出店するだけで、その町のカフェ全体の売上の30パーセントが減少するといわれたくらいだから。また、パンやクロワッサンを中心に同じくチェーン展開する、フランス系ファストフードも躍進した。
 次いで都市化によるライフスタイルの変化が挙げられる。先述したように、地方の住民が都会へ出て暮らすようになったせいで地元のカフェが閉店に追い込まれ、いっぽう都会で暮らす若い世代はカフェで仲間と喋るより、自宅でテレビやネットを楽しみながら寛ぐようになり、カフェ離れに拍車がかかった。若者にとってカフェやビストロは、言うなれば親の世代が残したアンシャン・レジームと見なされているのだ。
 原因はカフェ自体にもある。一言でいえば、かつてカフェに存在したメリットが消失したからだ。つまり、どのカフェも個性を欠く同じスタイルで、オーナーに熱意がないからハートフルなサービスを感じられず、おまけに料理はまずいときている。これじゃカフェ好きといえども敬遠するだろう。こうして時代の流れと客の要求に応えられず、割に合わないカフェは淘汰されていった。おまけにハードな仕事は若者に背を向けられ、両親の苦労を見て育だった子どもたちは継ぎたがらないという。
 そうはいってもカフェ文化は依然健在である。その数は激減しているけれど、フランス人がカフェに求めるものは変わらない。出勤前と出勤後、そして時間があれば気軽にふらっと寄って一杯ひっかける。夜ともなれば、定番の懐かしい家庭料理や地方料理に舌鼓を打ちながら、カフェのオーナーや常連とコミュニケーションをはかる。つまり、カフェは言葉、生命、出会い、生産、消費に支えられた社会的共生の場である。フランスといえども食文化のグローバル化の強い流れに逆らえられないからこそ、フランス的スローライフの原点ともいうべきカフェは輝き続けている。
 パリ旅行の楽しみは表通りに面したカフェに座り、通りすぎるさまざまな人々を眺めてすごすことだろう。あるいは名もない裏通りに残る古びたカフェに入り、オーナーと向き合ってカウンターに陣取り、赤ワインをちびちび飲みながら人間観察したり。そんなとき、もうお目にかかれないだろうが、名優ジャン・ギャバンに似た、渋いわけあり風の老人がカフェ・カルヴァ、つまりコーヒーとカルヴァドスを交互に飲んでいたり、ロベール・ドワノーが撮影したような、いかつい労働者風のパリジャンにめぐり合えるかもしれない。アメリカ型カフェが踏みこんでいない、路地裏の懐かしいカフェが消えていないことがせめてもの救いだ。 
 カフェの起源をたどると17世紀前半のサロン文化に行きつく。サロン(居間)というのは、17世紀になり長い間続いた宗教戦争で殺伐になった人心を立ち直らせるために、貴族の女性を中心に哲学者や詩人、文学者などが集まり、議論が交わされ交流がもたれたことを差す。そんなサロンのなかから、言葉の洗練を通じて人間の真実を見出そうとする、いわゆるモラリストを生んだことは知られている。モラリストとは、人間の風俗・性向を観察し、心理の洞察を書く文筆家のことで、一般に同じ傾向をもつ作家たちを広く含めていう。たとえばモンテーニュ、ラ・ロシュフーコーなど。
 19世紀に広がった上流階級のサロンに対して、20世紀に発展したカフェは庶民のサロンと呼ばれる。パリにカフェが初めて誕生するのは17世紀で、世界最古と言われるパリ6区の「プロコープ」。現在はレストランになっているが、このカフェにはラ・フォンテーヌ、ルソー、バルザック、ダントンなど多くの文化人や政治家が集まり盛んに議論した。カフェの政治的・文学的な役割は非常に大きく、18世紀末に起こったフランス革命を準備した一群の政治家や思想家はカフェを根城に活躍したのである。フランス革命はカフェから始まったと言われる所以だ。
 そうした知的文化遺産はきちんと継承され、絵画のエコール・ド・パリ(パリ派)、フランス発のダダイスムやシュールレアリスムなど芸術運動が、モンマルトルやモンパスナスのカフェを中心に展開されたことはよく知られている。とりわけカフェと芸術運動を結びつけて印象深いのが、第2次大戦後に世界的にブームとなった実存主義。パリ左岸のサン・ジャルマン・デ・プレ(通称デ・プレ)にある「ドゥ・マゴ」と「カフェ・ド・フロール」、オデオン界隈の「タブー」などを舞台に活動したジャン・ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーヴォワール、アルベール・カミュ、ボリス・ヴィアン、ジュリエット・グレコなど歴史に名を残す錚々たる作家やアーティストが、終日カフェにたむろして議論したり作品を書いた。みなさん、名を成す前の貧乏時代だから、コーヒー一杯で何時間も粘れるカフェを利用していたのである。
 一昨年上映された映画「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」に、当時のカフェのそんな雰囲気が再現されている。登場人物は両人を中心に友人のポール・ニザンやカミュ、ヴィアンなどの豪華メンバー。作品は女狂いのわがままな小男サルトルに、パートナーのボーヴォワールが愛想をつかしつつも離れられず、やがてアメリカの作家に惚れて肉慾の歓喜に溺れるといった、他愛のない通俗的なストーリーだ。チャラ男の色事師サルトルの身勝手さに辟易し、5、60年代に一世を風靡した、自由な非結婚契約カップルの成れの果てを見ているようで、なんとも気が抜けた。
 カフェにとって、あのころはベル・エポックと呼んでもいいような良き時代だったのだろう。いまや信じられないだろうが、世界中からツーリストが訪れる以前の50年代のパリは「パリ村」と呼ばれていた。いまやパリ随一のファッショナブルなエリアのデ・プレは、第二次世界大戦前に牛がのんびり草を食んでいたという、人通りの少ない鄙びた雰囲気に包まれていたのである。
 そうそう、東京・表参道にあったカフェ・ド・フロールの支店は2001年に閉店した。なんでもテナント料が高く、客の滞在時間が長いフランス式のカフェは割りが合わなかったそうだ。残すは渋谷「bunkamura」にあるドゥ・マゴ。経済効率一辺倒の東京では、コーヒー一杯で長っちりの客を相手にした商売は淘汰される運命にあるようだ。まだまだタイム・イズ・マネーという考えが浸透しないフランス人。そのライフスタイルをまねるのは、所詮無理なんだろうな。
 パリのカフェはいまもサロンとしての伝統を残していて、以前「カフェの哲学」という集会が話題になったことがある。毎週日曜日、哲学に関心を抱く市民が地元のカフェに集まり、森羅万障について熱心に議論を戦わせるといった光景が見られた。それが本となって出版され、パリ発のユニークな情報として世界的に話題を呼んだ。カフェという、パリ風の独特な空間は21世紀になっても引き継がれている。後退するカフェ文化を支える試みが市民の間でなされているのは喜ばしい。
 先のデ・プレはパリでもっともオシャレでシックなエリアで、カフェやブラッスリー(政財界や文化人ご用達の「ブラッスリー・リップ」はカフェ・ド・フロールの対面)、本屋や画廊や映画館が並ぶ知的な雰囲気にあふれているから、芸術家や俳優、作家や画家などが好んで住んでいる。ところが、90年代にデ・プレ教会前にルイ・ヴィトンがオープンしたころから、すっかり街の表情がファッション・エリアに変貌した。やがて、アルマーニやカルティエなど高級ブランドが老舗の本屋などを買収してブティックを開き、そんな傾向にますます拍車がかかった。
 それに対してデ・プレを愛する地元文化人は、知的環境がブランドに侵犯されていくのを苦々しく思い、反対の声を上げた。しかし反対運動はなかなかひとつにまとまらず、分裂の様相を呈し、ついにいっぽうの代表がデ・プレのミューズと呼ばれた歌手グレコ、もう片方の代表がフランスを代表する女優カトリーヌ・ドヌーヴという構図が生まれ、その2大勢力が角突き合わせたのである。
 なぜ運動が両グループに分裂したのか。あえて理由を探せば、政治的な立場の違いである。つまり、前者はどちらかといえば左派に属するグループで、後者は右派に賛同するグループ。支持政党で言えば前者が社会党で、後者は当時のシラク大統領を支持する保守派。周知のように21世紀初頭までフランスはたびたび「保革共存」という政治体制を取り、保守派と改革派が大統領と首相を分け合うといった、一風変わった体制を続けていたのだ。02年まで大統領は保守派のシラクで、首相が社会党のジョスパンというようなねじれ現象を生んでいた。そんな共存が解消されたのはサルコジ前大統領が選出されてからだ。結局、デ・プレは時代の趨勢に逆らえず、ファッション・エリアの色彩の濃い街に変わっていく・・・。

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*7月28日(月曜)、拙著『料理人の突破力』(晶文社)の刊行を記念してトークイベントがホテルオークラ東京で開催されました。私の司会で、ゲストは「クイーン・アリス」の石鍋裕と「アルポルト」の片岡護と「懐石小室」の小室光博の3氏。お陰さまで定員80人をオーバーする100人が参加しました。

*今年4月に拙著が2冊同時に出版されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
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第13回①(2014年8月1日)
 「いやー、驚いたなあ。フランス映画じゃ観ていたけれど、さすがおフランス!世の中、みんな汗水たらして働いてるというのに、カフェのなかじゃ昼間っから男と女がいちゃついちゃって。店の奥の方に行けば行くほど、淫靡の度合が進んでいるぞ。ほの暗いなか物憂げで、アンニュイな男女が抱き合ってささやいてる。なかにはどう見ても年かっこうがすごく違うカップルがいるし、サラリーマンとも思えない。ラフな恰好からして自由業だろうが、まったく得体の知れない連中もいるものだ。普通のパリジャンはどう思っているんだろう? こんな雰囲気、とてもじゃないけど、たえず人の目を気にしていなきゃならない、窮屈な東京の喫茶店じゃ考えられない」
 70年代後半、初めてパリに訪れた私はカフェに入るなり、こんな感想が喉元からこみあげて来た。その光景を目撃したときの衝撃はいまだに忘れられない。なんとまあ、パリは放埒かつ自由であることか! 約100年前、パリに到着した永井荷風が『ふらんす物語』に、「ああ! パリー! 自分はいかなる感に打たれたであろうか!」と書きつけた高揚感が少しわかるような気がしたものだ。
 昔からフランス人の社交場として知られるカフェ。そのカフェは喫茶室、食堂、社交と議論の場、さらに書斎まで兼ねていて、17世紀の中頃パリに初めて出現した。19世紀後半から20世紀になり「庶民のサロン」として人気を博し、今日に至るも日常生活の社交場として不可欠なもの。大小を問わずどんな通りにも、本屋や八百屋はなくてもカフェはある。誰でも自由に出入りし、疲れを癒したりお喋りに興じるカフェは、都市文化のシンボルとしてパリの魅力を映し出す風物詩である。
 フランスにおけるカフェの社会的地位から語ろう。飲食業も階層社会という社会的構造を反映するようにピラミッド型のヒエラルキーが形成されている。その底辺に位置するのがカフェで、上に向かって順にビストロ、ブラッスリーへ進み、上位の中級レストランや高級レストランに至る。頂点のトップクラスの高級店になると、ミシュランガイドから星のお墨付きを与えられている場合が多い。
 一般にフランスの外食文化はレストラン文化とカフェ文化に分かれる。後者には、いわゆる中産階層が日常的に使うビストロやブラッスリーも含まれ、レストランとの差は歴然としている。両者には価格やインテリアに違いがあるのはもちろんのこと、高級レストランではメニューや充実したワインリスト、優雅なサービスなどハードとソフトのすべての面で充分な配慮がなされ、常連の上流クラスだけでなく、国内外から訪れる客を満足させるためにきめこまかく対応する。いっぽうカフェは、メニューもワインリストも取りたてて趣向を凝らしているわけではなく、オーナー夫婦を助けて息子や娘が切り盛りしたり、大箱なら他に従業員を抱えている。
 パリジャンならなじみのカフェを1、2軒は持っている。流行りのスタバのようなカフェではなく、東京ではあま見られなくなった昔ながらのカフェである。私もパリに暮らしていたころはそうだったし、外出したついでに立ち寄るのが楽しみだった。いわばカフェは生活のなかで一息つける句読点のようなもの。その存在は大袈裟にいえば、彼らの日常生活のディテールに欠かせない生き甲斐である。ある日、カフェがパリからその姿を消し去ってしまったら、一体どんなパニックが起こるか、それこそ見ものだ。
 パン屋と同様、カフェも朝早くオープンする。町一番の早さだ。肉屋も魚屋もまだ店を開けていないうちから動き始める。サラリーマンが出勤するより前に開店し、オーナーやギャルソンがテーブルを磨き、グラスや皿を洗い、飲料水などを整理したり、昨夜の喧騒がかすかに残る客席の隅々を丁寧に掃除する。そのうちコーヒーの強い香りが店の周辺に漂ってくると、カフェの本番がスタートする。
 カフェは3部構成だ。
 第1ステージは開店からランチが終わる昼過ぎまで。近所に住む出勤前のサラリーマンやOL、自営業や自由業などさまざまな人々が立ち寄り、コーヒーにクロワッサンやタルティ-ヌ(バゲットにジャムを塗ったもの)などを注文し、あわただしいひとときを過ごす。そして午前中の流れがそのままランチへと続く。昼どきになると、バゲットにハムやチーズをはさんだサンドイッチ、クロック・ムッシュ(ハムとチーズをはさんで焼いたパンの上に目玉焼きを乗せる)、簡単なプラ・ド・ジュール(定食)を食べる人たちでごった返す。
 やがて第2ステージが始まるが、それはランチが終了するころから帰宅前に常連のサラリーマンが立ち寄る夕方まで。割りと静かなその時間、近在の馴染みの商売人が時間つぶしに「ボンジュール」と入って来て、カウンターに陣取り、
 「アン・バロン、シル・ヴ・プレ」
 などとグラス一杯の赤ワインを所望する。同じく自由業の連中が雑誌や新聞を読んだり、各国のツーリストがふらりと寄って手紙を書いたりするような、のんびりムードが漂うひとときだ。この時間帯の見所は、冒頭に述べたように年齢差がある得体の知れないカップルや初々しい恋人たちが、ランプの光にほのかに照らされた奥のコーナーで愛をささやきあっている光景だ。
 渡仏したころ、東京ではあまりお目にかかれない情景が、まるで映画のワンシーンを見ているような妖しい気持ちにさせ、そちらのほうへちらちら視線を泳がせてしまったものだ。「いい気なもんだ」なんて舌打ちしながらもドギマギしたが、男女のたたずまいが、じつに様になっていることに感心すること頻り。まあ、30代になるいい大人が味わう感情じゃないけれど、やはり一種のカルチャーショックだったんだろうな。
 「カフェがなければ恋は生まれない」と宣もうたのは、かの実存主義の女王シモーヌ・ド・ボーヴォワール。フランスでは恋は黙っていては生まれない。心理戦であり真剣勝負であり言葉の格闘技でもある。相手に自分を強くアピールして口説くためにひたすら喋る。度肝を抜かれるくらい喋って喋りまくる。そうして間合いを取りながら、互いが相手の出自、学歴、話題、話術、性格、教養、知性、ユーモアのレベルをしっかりはかる。フランス人にとってのカフェはそんな場である。言葉を磨き喋りを鍛練するのは、大昔のサロンで会話術を磨いた伝統がいまに生きている証だ。
 いっぽう、東京のカフェは雰囲気がなんだか堅苦しい。おばさんたちのお喋りとサラリーマンの営業トークと若者の勉強という、3つのモノトーンだけが浮き彫りになっているようで、男女の賑やかでヴィヴィドな会話をあまり耳にしない。まして昼日中から、いい大人がいちゃつくなんてふしだらな行為はほとんど目にしない。それにきちんとした背広姿のサラリーマンが多いから、ラフな恰好の私などどこの馬の骨とも知れない人種はなんとなく肩身が狭い。
 そういえば、最近は電車のなかで抱き合っている若いカップルを散見する。まったく様になっていないあの姿って醜いの一言につきる。また、男も女も揃って不細工なのはどうして? やはり明治以降150年経っても、人前でいちゃつく行為は身につかないようだ。
 フランス人に限らず欧米人は、生まれてからずっと男女の性愛を目にして育つから、私たち日本人は恋や愛のテクニックでは逆立ちしても敵わない。年端も行かない子どもに、赤面する類の性愛をここまであからさまに見せてもいいの? なんて社会だから。
 フランス映画でしばしば目にするシーン。たとえば、シングルマザーが午後のひととき一目ぼれした若い男を自宅に連れこみ、小学校低学年の子どもが在宅しているにもかかわらず、ドアを開けっぱなしで性愛に溺れ、「ジュ・テーム」なんてささやいている。しかし、それが異常でも変態でもなんでもなく、まるで野に放たれた獣のような振る舞いに異論をはさむ人間は誰ひとりいない。この点に関してはインテリ男女も肉屋のおばさんも同じだ。まったくほんとにフランス人ってやつは、なんて私も健全な日本人と同様、驚いたり嘆いたり。
 というわけで、日本とは性愛文化が異なるこの国にやって来た私にとって、夕暮れ時に、正体のわからない男女がカフェでささやき合っているシーンは新鮮でもあり、また衝撃でもあったのだ。「人生は演劇」「人生で一番大切なのはアムール」と堂々と宣言するフランス人は、誰がどこでアムールをささやいても自由だし、誰からも文句を言われない。そもそも他人の恋愛沙汰に関心を持たないのだ。
 閑話休題。
 カフェの第3ステージは、仲間や家族連れで食事に来るディナータイムと、その後の時間帯。料理はシンプルなものでいささか物足りないが、彼らは食事そのものが目的ではなく、仲間同士や家族で会話を楽しみ、オーナーやギャルソンと親睦を深めるために来店するのだ。このときばかりはフランス人の好きなコンヴィヴィアリティが発揮される。その意味するところは、食事しながらわいわいがやがやユーモアを交えて世間話に興じ、その場の雰囲気が和やかに盛り上がること。
 やがてディナーが終わり、客が帰途につくと途端にカフェは静寂に包まれる。今度は他所で食事をして帰宅途中に寄った人々、いささか酩酊した連中がふらりと紛れこんでくる。そうしてようやくカフェの1日が閉じられようとする。つまり、カフェというのは、コーヒーやワインを飲み、オーナーや友人と談笑し、読書に耽り、手紙を書き、愛をささやき、食事をする場なのだ。そこではパリジャンの豊かな生活の断面が映し出されている。

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*拙著『料理人の突破力』(晶文社)刊行記念のトークイベントが開催されます。私の司会で、「クイーン・アリス」の石鍋裕と「アルポルト」の片岡護と「懐石小室」の小室光博の3氏が出席。
【イベント】
『料理人の突破力』(晶文社) スペシャルトークイベント vol.3@ホテルオークラ東京
『料理人の突破力』トークイベント第3弾は、ホテルオークラ東京で開催する豪華版! 技術、才覚、アイディア、人間関係……狭い調理場で日々黙々と自分を磨く料理人たち。そこには人生と仕事の秘密がつまっている。
仏伊日3人の名シェフと著者が、逆境の修業時代、オーナーシェフとしてのサクセスを4者4様の軽妙さで語る、アッという間の2時間です。
午後のひととき、合理と非合理に磨かれた仕事人の世界をのぞいてみませんか。
出演◇石鍋裕、片岡護、小室光博、宇田川悟
日時◇7月28日(月)13:30~15:30 (13:00開場)
会場◇ホテルオークラ東京 本館1階 アトランティックルーム
会費◇3,000円(コーヒー&スイーツ付き)
定員◇80名
【ご予約・お問い合わせ】晶文社 (03-3518-4940) 担当:浅間
◇石鍋裕(いしなべ・ゆたか)
株式会社アイ・エヌ・ビーコーポレーション代表。1948年、神奈川県横浜市生まれ。早くに母を亡くし、横浜で料亭を経営していた祖父の元で育つ。63年頃から横浜のレストランでシェフとして働き始める。71年、既知のフランス人シェフ、ジャン・ドラヴェーヌ氏を頼って渡仏。その後、数多くの三ツ星店で修業し、76年に帰国。同年、六本木に「ロティウス」を開店し、シェフを務める。82年にオーナーシェフとして「クイーン・アリス」を開店。その後、多数のレストランプロデュースに携わる。
◇片岡護(かたおか・まもる)
1948年、4人兄弟の末っ子として東京都に生まれる。工業デザイナーを志すが、知人の外交官金倉氏との縁により、一転、総領事館付き料理人として68年にイタリアへ渡る。公邸で5年間働き、74年帰国。「小川軒」で2年間修業し、76年から南麻布「マリエ」のシェフを6年間務める。83年、西麻布に「リストランテ アルポルト」を開店。レストランのプロデュースのほか、料理教室、食育振興活動などにも携わっている。
◇小室光博(こむろ・みつひろ)
「懐石 小室」店主。1966年、3人兄弟の末っ子として東京都昭島市に生まれる。次兄が大衆割烹をやっていた影響で料理人を志す。85年、二葉栄養専門学校を卒業し、九段の懐石料理店「和幸」へ入店。7年間の修業期間を経て、93年頃から出張料理人として活動。00年に神楽坂に「懐石 小室」を開店。茶道の流派である遠州流の家元付き料理人としての顔も持ち、通年で家元主催の茶事に随行するなど多忙な日々を送る。骨董食器のコレクターでもある。
◇〈著者〉宇田川悟(うだがわ・さとる)
作家。1947年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。70年代末に渡仏以来、20年以上フランスに在住し、同国の社会、文化、食文化に詳しい。フランス政府農事功労章シュバリエを受章。主な著書は、「食はフランスにあり」(小学館ライブラリー)、「パリの調理場は戦場だった」(朝日新聞社)、「ニッポン食いしんぼ列伝」(小学館)、「東京フレンチ興亡史」(角川oneテーマ21)、「最後の晩餐」(晶文社)、「ホテルオークラ総料理長 小野正吉」(柴田書店)など多数。

*今年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第12回の後半を掲載します。
第12回②(2014年7月15日)
 70年代後半、パリに渡った私が経験したカルチャーショックにフランスのヤクザと思しき人物のしぐさがある。彼らの実態はフィルム・ノワールで多少は知ってはいたけれど、初めてパリで目撃したときの驚きは忘れられない。なんとまあ、フランスのヤクザは日本のヤクザと比べてこうも違うのだろうかと。
 彼らフランスのヤクザとて一般人と同じように、少年のころからフランス的な厳しいマナーを家庭で徹底的に叩きこまれる。フランスでは子ども=未開人という図式が成立していて、しつけに関しては口うるさく教えられる。特にそのなかで教えこまれるのは、老若問わず女性と大人に対するマナー。つまり、女性に対しては優しくフェミニストたれ、大人に対しては敬愛の気持ちで接すべしというもの。
 そんな子どもが諸々の事情からヤクザになったとしても、幼いころのしつけは強くDNAに染みこんでいる。つらつら思いつくままに挙げても、女性が荷物を持っていたらすかさず手伝う。老女がメトロに乗りこんできたら座席を、女性が前から歩いてきたら道を譲る。他人の身体に触れたらすかさず謝る。やたらに道路で痰や唾をはかない。パブリックスペースで卑猥な言葉を口にしない。レストランでふんぞり返って大声を上げない。ブティックに出入りするときは店員に丁重に挨拶する。肩で風を切って歩かない。行列に割り込まない。一般人を威嚇しない・・・。
 とまあ、ヤクザとて普通の市民たれという教訓を実践しなければならないのだ。初めて渡仏したころ、服装も挙措も明らかに風体の異なる日本のヤクザと違うから、一般人と見分けがつかなかった。ただし日本のヤクザとの共通点があるとすれば、それは目つきの鋭さ。これは全世界共通らしい。先に挙げた一連のマナーは、あくまでも私の判断でヤクザと思しき人物を観察した上での話である。
 それらしき人物がメトロやブティックのドアを開けたまま次の人を待っていたり、その逆にドアを開けて待つ人に一言「メルシ」と返礼するという、たとえ単純な行為でも妙に新鮮に見えたから不思議である。
 それにフランス人の男女は老いも若きも揃いも揃って背筋をのばしたシルエットが様になる。腰から足を出して歩くからスマートに見える。よく指摘されるのは、日本女性は膝をまげてヒョコヒョコ歩くからカッコ悪い。昔は、幼いころから椅子で生活している文化と、そうでない文化の違いから来ると言われたものだが、いまや椅子で暮らす人が多いからなんとも解せない。やはりしつけの問題だろうか。
 ところで、しつけの漢字は「躾」。この漢字を分解するとしつけのなんたるかが明らかになる。すなわち、「躾」は「身」と「美」が合わさったもので、文字通り「身を美しくする」こと。しつけの第一歩は身体を美しくすることが目的である。「躾」はフランス人の身体を形づくる重要な言葉だから、立ち姿も歩き方も「躾」の通り見るに堪えるのだ。さらにいえば、しつけは人間の生き方にも通じるから怖い。
 人間にとって幼いころに学ぶしつけがいかに重要か。その逆に即席で覚えたしつけは、いかに身につかず安っぽくて滑稽であるか。私たちはそんな光景をこの東京でよく目にする。まあ、私の場合、この年になっていまさら自身の立ち居振る舞いを嘆いても仕方ないし、人さまのマナーをとやかく言える資格があるわけじゃないが、20数年パリで暮らしさまざまな文化を見てきたおかげで見る目だけは伊達じゃないと思う。「住むだけだったらサルでもできる!」なんて大向こうから罵声を浴びそうだ。でも、フランスでの私は一介のエトランゼにすぎなかったものの、そのぶん外から日仏両国を見る時間だけはたっぷり持っていたのだから。
 海外で学んだにわかマナーがいかに滑稽であるか。たとえば、大手企業の駐在員だった欧米帰りのサラリーマンがホテルのエレベーターの前で待っている。彼の前後に金髪女性と日本のOLが数人。エレベーターが到着してドアが開くと、ファーストレディよろしく金髪女性を先に乗せたのはいいが、次に本人がOLを差し置いて乗りこむ。エレベーターが1階に到着したら、同じく金髪女性を先に降ろし、OLに先んじて本人が降りるなんていう光景に出っくわす。日本人の欧米コンプレックスはいまに始まったことでもないから、目くじらを立てても仕方ないだろう。海外で取得したマナーなんてたかだかこの程度にすぎない。
 ところで、エレベーターが出たついでに日本の若い女性に一言。
 最近よく見かけるのは、エレベーターのなかで若い女性が入口近くに立ち、よそ様から言われた行き先のボタンを押してあげているバカ丁寧な光景。しかも彼女たちは揃ってやさしく素朴そうな風情。いまどき珍しいエレベーターガールになっちゃっているけれど、でも、あれっておかしくないですか。さらに全員が出て行くのを見届けてから、乗り込んでくる人たちのためにボタンを押してから降りる。そんな光景にしばしば出っくわすものだから、私は薄気味悪く思われるのを覚悟しながら、こう言ってあげたことがある。もちろん優しい声音で。
 「お嬢さん、このビルの管理人? そんなことしなくてもいいんだよ。男がやることだから。可笑しいから、お止めなさい!」
 あえて言うなら、あの姿はなんだか見っともない。たぶん彼女たちは幼いころから、「人には親切に!」と育てられ、それを実践しているのだろうが、ハッキリ言って実践する場を間違えている。もっと違う場面でおやりなさい。(校正者からおしかりを受けたが、あえて書いています)
 閑話休題。
 フランス人の「社交」について。国家の「外交」に対して市民の「社交」とも言われるフランスで、いったい市民の社交はどうなっているのか。
 日本の外交下手はいまに始まったことではなく、遠く幕末のころから指摘されてきたことだ。明治以降、歴史を見れば戦略を欠いた日本外交の稚拙さを証明することばかり。戦後もおよそ外交の名に値しない、アメリカの主張にひたすら耳を傾け従順に従う自主性なき交渉を歎き、見苦しく、じれったく、歯痒く思っている人たちは大勢いるだろう。
 日本には社交という言葉も社会という言葉も、訳語として定着しはじめたのは明治10年代だという。先述したように社交とは社会的な交わりを意味するから、はるか昔は開かれた社交という形はあり得なかったのである。だから社交下手はいまに至るも続いている。従って、社交文化が貧弱であれば、社交の応用編である外交文化が発展し蓄積されず、貧弱のままであるのもうなずける。
 それに対してフランスはどうか。本来、国政を具現化する政治家や外交官の使命とは、国内外で事件が発生するのを事前に防ぎ国益を守ることである。そのために外交の戦略と極意をよく心得て、巧みな外交術を見せなければならず、その上で最終的には交渉に当たる政治家や外交官の知性と教養と人間性が問われることになる。その際に発揮される重要な能力とは職業的誠実さ、忍耐強さ、相手の気持ちを理解する明敏さだ。古典的名著のH・ニコルソン『外交』によれば、「以下のものが、私の理想とする外交官の資質である。すなわち、誠実、正確、平静、忍耐、よい機嫌、謙虚および忠誠」。こうした外交力はむろん一朝一夕に涵養されるものではない。フランスではなによりも物事を冷静に客観的に捉える、洗練された社交的センスが美徳として重視されるから、いっぱしの教養人や知識人より、そんなセンスを持った人間が尊敬される。
 日々「人間は社会的動物である」を実践するフランス人は、社交性を大切な資質として尊重するだけでなく、社交そのものが大好きなのだ。彼らの社交好きは、教養のある洗練された紳士が人間の理想とされた、17、8世紀の宮廷やサロン以来の伝統であり、またバルザックやプルーストが小説の舞台として描いた社交界のドラマを読めば、19世紀や20世紀になっても連綿と続いていたことがわかる。いまも上流階層から一般市民まで、なにかといえば大勢が集まって飲み食い、陽気にお喋りを楽しむ光景はフランス映画によく見られる。フランス映画から会食、パーティー、団欒などのシーンを省略したら、それこそ映画は成立しないだろう。
 昔から彼らの社交場として知られるのがカフェ。そのカフェは喫茶室、食堂、社交と議論の場、さらに書斎まで兼ねていて、17世紀の中頃パリに初めて出現した。19世紀後半から20世紀になり「庶民のサロン」として人気を博し、今日に至るも日常生活の社交場として不可欠なもの。どんな通りにも、本屋や八百屋はなくてもカフェはある。誰でも自由に出入りし、1日の疲れを癒したりお喋りに興じる。カフェは、都市文化のシンボルとしてパリの魅力を映し出す風物詩である。社交について述べる前に、次回はサロンの伝統がいまも生きるカフェについて書こう。

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*拙著『料理人の突破力』(晶文社)の刊行記念第2回トークイベントが開催されました。私の司会で、「クイーン・アリス」の石鍋裕と「アルポルト」の片岡護と「懐石小室」の小室光博の3氏が勢揃い。盛況に終わりました。
*6月14日発売の朝日新聞土曜版「be」の“元気のひみつ”に登場しました。
*今年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑読ください。

*引き続き第12回の前半を掲載します。
第12回①(2014年7月1日)
 昨年上映されたフランス映画「最強のふたり」をご覧になった方も多いだろう。本国では3人に1人が観るという大ヒットとなり、日本ではフランス映画としてヒット作「アメリ」や「8人の女たち」を大幅に上回る歴代1位の興行収入をあげた。通常フランス映画の上映館は限られるが、「最強のふたり」は上映館が全国に広がるという異例の展開になった。評判も上々で、階層社会の断面を鋭くとらえると同時に、フランス人ならではの独特な諧謔と愛憎と和解がどのあたりにあるのかを教えてくれた。そして最後はほろりと・・・。
 昔からこの手の階層社会を背景に描いたフランス映画はよく製作される。なぜなら映画だけじゃなく、フランスにおける文化の多様性を考える場合は、階層社会という現実を視野に入れなければ理解できないからだ。そこで思い出すのが99年に上映された「奇人たちの晩餐会」。フランス人と黒人移民との反発と絆を描いた「最強のふたり」とは反対の面から、フランス人の間にある差別意識を描いた映画で、彼らのあざとさ、剣呑、老獪、諧謔、皮肉なんてのが丸ごと塗り込められており、おそらく日本では製作できない類の映画だろう。ストーリーはいたってシンプルで、裕福な連中が知り合いのバカを連れてきて、バカ自慢を競うといったもの。最後はコメディのセオリーをなぞり、痛快などんでん返しが待っている。でも、私たち日本人にしてみたら、酷薄とも醜悪ともいえそうな、そんな情け容赦もない映画を観ながら哄笑しているフランス人って、いったいどんな人種なんだろうかと、つい考え込んでしまう。
 「奇人たちの晩餐会」も「最強のふたり」と同様フランスで大ヒットして、アメリカでもリメイクされたが、日本ではほとんど話題にならなかった。両作品の上映は十数年を隔てており、「『最強のふたり』がヒットした要因のひとつに、その間に日本も格差社会と言われるようになったことが大きいかもしれない」との意見もある。また「奇人たちの晩餐会」の数年前に日本で上映されたのが、カンヌ国際映画祭監督賞を受賞した「憎しみ」。テーマは「バンリュー(郊外)」というフランス最大の問題を下敷きに人種差別を扱った重いもので、やはり日本では話題にならなかった。2005年に大都市周辺の郊外に居住する、失業率の高い貧困層のアラブ系やアフリカ系が起こした暴動の発端となったのが、この「郊外問題」だ。いまやゲットー化する郊外はフランスが抱える大きな病である。
 私はパリに住んでいたころ日本の雑誌の求めに応じてさまざまなジャンルの記事を送ったが、どうやってこの階層社会という実相を読者に伝えたものかけっこう苦労した。私の非力を棚に上げていえば、その現実をさまざまな角度から書いても隔靴掻痒の感は拭えなかったからだ。いつも歯痒い思いをするばかり。
 十数年前に帰国してから数年後、知人の依頼で都下に住む団地マダムを相手に講演したことがある。当初は団地マダムにねぇなんて渋っていたが、主催側の知人がその昔、私の生家の近くに住んでいて、家族同士の付き合いがあったから無下に断れない事情があった。テーマは「フランス人のライフスタイル」。要するに、フランスに関係する話題ならなんでもいいよと言われ、気軽に引き受けたのである。
 ともあれ、講演は可もなく不可もなく終ったが、フランス人のライフスタイルにざっと触れるにしても、説明するのが厄介な階層社会を前提にしないと進められない。まあ、手っ取り早く言えば、フランスでは学歴によってその後の人生が決まるといった類の話なのだ。それでは身も蓋もないし、誤解される恐れが強い。さらに日本の縦社会と異なる横社会をどう説明するか。
 そんなことをああだこうだと考えた末に、大ざっぱに言えば、階層や学歴が物を言う社会であるにもかかわらず、生きづらい社会じゃない。みんなが身の丈に合った生き方をしている。テレビ番組にくだらないワイドショーなんてものはない、就業時間が終ると同時に退社する、上のクラスの連中に対して嫉妬も羨望もあまり持たない、出世も望まない、口論しても根にもたない、人間関係はクールだが親しくなれば日本人より情が深い、社会福祉的なセーフティネットが充実している、法律によって年間5週間の有給休暇(バカンス)が定められている、どんな形のアムールであれ他人から干渉されない・・・。団地マダムはわかってくれただろうか。
 さて、笑い話みたいなものだが、講演の最初と最後にちょっとした「事件」が起こった。その日、団地の集会所に集まった女性の大半は年のころ4、50代で、若い時分アラン・ドロンやジャン=ポール・ベルモンド主演のフランス映画を観た世代だと思っていただきたい。事前に私の写真を載せた紹介などは配られていなかったから、長くパリに住んでいた私というゲストを、甘いマスクのドロンの面影に重ねていたとしてもなんら不思議じゃない。そこに登壇したのが不細工で無愛想な太目の中年。会場の到るところから失望のため息が漏れたことを、私は聞き逃さなかったという次第。
 やがて講演が終わり、参加者に質問をつのると、お互い牽制しあっているのか、内容がお粗末で質問どころではないのか挙手がない。すると、ようやく100人ほど埋まった会場の、最後列にいた女性がおずおずと手を挙げたのだ。マイクを通してもか細い声で、彼女は真顔で訊ねたのである。
 「先生のお話はとても興味深くて、面白かったです。でも、先生はホントにパリに暮らしてたんですか。ご迷惑じゃなければ、なにかフランス語を喋ってくれませんか」
 私は一瞬、質問の意味がのみこめずポカンとしていたに違いない。次の瞬間思わず椅子から転げ落ちそうになった。1時間半程度の講演中、彼女の頭のなかで私への疑念が徐々に膨らんでいったのだろう。気を取りなおして私は笑いながら答えた。
 「そうですよね、フランス帰りといっても、みなさんのイメージを裏切るような容貌風体ですからね。それに経歴詐称なんてこともあるし。では、ご質問に答えてフランス語を少し喋りましょう」
 とかなんとか。「あなたの名前はなんですか」「ずっとあなたが好きよ」なんて続けて・・・それで参加者が納得したかどうか聞きもらしたが、こんな経験を講演会でするのは初めてだ。無名の初版作家はつらい。
 閑話休題。
 映画「最強のふたり」にも「奇人たちの晩餐会」にも描かれているのが、フランス社会における「社交」という場である。前もって断っておくが、私自身はもろ日本人気質の無粋な社交下手。そしてある年を境に、面倒だから社交からただ逃げることだけを考えていた不届き者だ。「社交」について話せる資格なんてないけれど、ご勘弁を。
 社交というのは、そもそもは「社会的な交わり」の意味だという。周知のように「社会」や「社交」という言葉は明治以降、「思想」「哲学」「恋愛」などと同じように翻訳された新しい外来語である。従って、最初からその宿命を負っているからだろうか、現在に至るまで日本人には「社会」や「社交」のイメージをなかなか描けない、どこかなじめない言葉のような気がする。とりわけ蛸壺社会と言われる日本で、この西洋型の開かれた社会や社交と個人の関係に齟齬を感じる人は、生得的に鈍感な私だけではないだろう。そんなわけで日本人は元来、社会的な交わりが苦手なのかもしれない。
 社交は、フランス社会で日常生活を円滑に送るために絶対に欠かせない礼儀作法で、社交のできない人間は決定的なデメリットを背負うことになる。一般に社交下手は人間関係を築く上で最初からつまはじきの対象となる。大袈裟でもなんでもなく、社交の苦手な連中とつきあってくれる人はきわめて少ないし、無慈悲にもアホか愚か者とさえ思われるのが落ちである。日本人の大半がそうであるような、社交下手にとってはじつに生きにくい社会だ。
 フランス人の生き方を形容する言葉に「ジョワ・ド・ヴィーヴル(生きる歓び)」があり、まさに人生を明るく楽しく快適に過ごそうとするライフスタイルのこと。そこでは個人的な快楽が含まれるのはもちろんのことだが、同時に他人との関係を齟齬なく進めるための社交がきわめて重要な意味をもつ。彼らの社交は、いろいろな形での友情、あるいは好意のサイン交換としても表れる。一例として「ボンジュール」という挨拶と握手が考えられる。
 パリに暮らしていると、一日に何回もボンジュールという言葉を使う。友人知人と会ったときだけではなく、隣近所の人々を含めてブティックやマルシェに買い物に行っても、店員とかならずボンジュールと言葉を交わす。それはオーバーにいえば人間が社会的存在としてこの世にあるということを認め合う行為だから。つまり、もしボンジュールと声に出して挨拶しなければ(アイコンタクトでもかまわないが、それはあくまでも例外)、当人はまっとうな社会的存在としては認められず、奇人変人扱いされる可能性が高い。だから、ボンジュールはフランスで生活する上でもっとも重要な言葉である。
 フランス人は挨拶をするとき、ボンジュールと言いながらかならず目を見て握手する。握手というのは親愛の情を示すと同時に、掌中に武器や毒薬なんかを隠し持っていませんよという意思表示だという。挨拶と握手をするためならば、大通りの向こうからでもわざわざ横断してくるし、停車したバスから下車してくることも珍しくない。日本人ならなにもそこまですることはないだろうと、手を上げるだけで済ませそうだが。
 そんなフランス人を見るにつけ、彼らがヨーロッパのなかでも特に握手好きだとわかる。反対に日本人の場合は、昔も今も「暗黙の了解」や「以心伝心」といった言葉が変わらず通用しているから、自分の意思を露骨に表示しないで自分の気持ちを相手に伝えることが、ある意味で美徳とされる。
 他にボンジュールと同じように重要な言葉が2つある。それは感謝の言葉「メルシ」と謝罪の言葉「パルドン」。これら3つの言葉は、人間関係と社会生活をスムーズに送る上で必要不可欠なものだ。

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*拙著『料理人の突破力』(晶文社)の刊行記念第2回トークイベントが開催されます。私の司会で、今回は「クイーン・アリス」の石鍋裕と「アルポルト」の片岡護と「懐石小室」の小室光博の3氏が勢揃いします。興味深い話の満載となるでしょう。
・日時は6月29日(日曜)18:00~20:00(開場は17:30)
・会場は神楽坂のサロン・ド・テ「ジョルジュ・サンド」
・問い合わせは晶文社(03-3518-4940)まで
*6月14日発売の朝日新聞土曜版「be」の“元気のひみつ”に登場しました。
*今年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑読ください。

*引き続き第11回の後半を掲載します。
第11回②(2014年6月15日)
 日本では殻付きカキによる食中毒がしばしば話題になる。日本人はフランス人に比べてはるかに衛生観念に敏感だから、殻付きカキを食べることに抵抗があるのかもしれない。でも、パリに住んでいたころ、日本人ツーリストが嬉しそうに殻付きカキを頬張っているシーンを見るにつけ不思議な気がしたものだ。
 驚くべきことに、パリのレストランで生ガキにあたったと抗議したら、「食べたあんたの方が悪い!」と一蹴されてしまう。ついでに「セ・ラ・ヴィ(人生なんてそんなものさ)!」とかなんとか言われてゴマかされてしまう。たとえそれがミシュランの星つき店でも同じこと。仮に食後帰宅して腹の具合が悪いと、電話口に出たメートル・ドテル(支配人)に穏やかに訴えたとしよう。
 「どうやらアンタの店で食べたものにあたったらしい。胃の調子が悪くてムカムカして、吐き気がするんだ。なんとかしてくれないか」
 「そう言われても困りますよ、お客さん。もし本当にそうお思いなら、医者の診断書を持って来てください。そうでなけりゃ対処のしようがありませんからね」
 そうやって慇懃に蹴散らされた客は後日、店に診断書を持参した。応対したのは電話に出た人物だ。
 「でも、これだけじゃ100パーセント、食中毒の因果関係は証明できませんよ、お客さん。仮にですよ、仮に当店で食べたものが原因だったとしても、その前にお客さんが食べたものと食べ合わせが悪かった、ということも充分考えられますからね。あるいはもっと前に食べたものとかもしれない。水を一杯飲んだことが原因になるかもしれない。それを証明することは不可能だと思いませんか、お客さん」
 さんざん言い訳されて、すごすご諦めたなんていう事例をよく聞く。要は、フランスのレストランで食べる場合は、美味しいものには毒がある、という教訓を肝に据えて事にあたることだ。
 フランスでも食中毒騒ぎはあるが、日本ほどマスコミで騒がれない。私の記憶では死者が出ればそれなりに記事になるけれど、食中毒事件が大々的に紙面を飾ったことはないような気がする。パリ時代、私は「ル・モンド」「ル・フィガロ」をはじめ「パリマッチ」「ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」など新聞や週刊誌を何種類も見ていたから、そう言える。だいたいが凶悪殺人事件以外に、放火だとか窃盗だとか食中毒などの小ネタはほとんど紙面に登場しない。やはり日本人は三面記事が好きなんだろうな。というわけで、フランスでは食中毒は基本的に食べた本人の責任に帰せられる可能性が高い、というのが結論である。
 閑話休題。
 前回述べたように、海外における日本料理の「認証制度」が頓挫したことも示唆しているが、自国の食文化が他国で認知されるには、それ相応の時間がかかる。しかも、一般に他国へ輸出された料理は現地でさらされ、もまれ、叩かれ、けなされ、なぶられ、さげすまれ、そして土着化するという過酷なプロセスを経た上で認知されるのだ。その間、自然淘汰される料理もあるだろう。それは食文化の歴史を見れば一目瞭然で、日本におけるフランス料理やイタリア料理も試行錯誤を繰り返しながら、長い苦闘の歴史を経て定着していったのである。
 食文化の伝播がいかに遅々としたものかという事例は山ほどある。ここではその一例をあげる。時代は17世紀にさかのぼるが、イタリアからフランスにもたらされたフォークが全土に普及するまでに約半世紀。また18世紀にヴェルサイユ宮殿で初めて使われたと言われる日本醤油が、悪貨と言われ先に普及していた中国醤油を駆逐するまでに約2世紀を要した。ことほど左様に、異国の食文化が定着するまでには長い歳月がかかる。同じようにグローバル化の時代でも、食文化の普及はスピーディーになったといっても、人々の心を捉えて納得させ認知させるまでには相応の長い時間が必要である。
 昨今のパリの日本食事情は日系店とアジア系店が互いに鎬を削っている状態だ。玉石混交状態にあることは、むしろ食文化にとって正しい有り様で、日本食が定着していく上で不可欠なこと。その上でレストランの優劣を最終的に判断する決定権を握っているのは、その国の消費者だ。
 従って、海外の食文化の状況に農水省がいちいち首を突っ込み、内政干渉してはならない。国が食文化に口出ししても百害あって一理なし、ろくなことはない、愚の骨頂だと肝に銘じておくべきだ。だいいち、国内には他に取り組むことが山ほどあるだろう。正しい日本食とは何か、という難しい命題にとりくむこともそうだ。私たちでさえよくわからない日本料理の世界をきちんと整理してほしい。料亭、懐石料理、会席料理、地方料理、板前割烹、料理屋、小料理屋、カウンター割烹、割烹、大衆割烹、居酒屋から立ち飲み屋まで、百花繚乱たる和食の世界を。考えてみれば、世界的に日本食がブームになったのは、21世紀になってからにすぎない。ちょっとくらいブームになったからといって、役人よ、図に乗るな、いい気になって愚にもつかない方法を弄するな、物事を百年の計で考えろと言いたい。
 日本人は料理をバージョンアップするために、とりわけ他国の料理とフュージョンすることが好きだ。古来、日本人は自国文化と外国文化とを掛け合わせ、「雑種文化」にしてゆくことを得意としてきたから、情報化時代につれてますますフュージョン化が激しく進行している。だからこそ、ますます無秩序化していく日本料理の世界を整理整頓していくことが大事だ。ことは緊急を要する。
 昨年1月、政府審議会がユネスコへ登録申請した「和食」という概念は、そうした意味で混迷する日本料理に限定せず、いわば後述するように世界遺産に登録されたフランス式方法を踏襲し、社会的習慣となっている「日本人の伝統的な食文化」というテーマでまとめたものである。今年9月に登録されるかどうか興味深い。近年、各国が自国料理を世界遺産へ申請する動きが進んでいる。日本が申請に踏み切ったのには韓国料理が申請したので、それに負けじという意識もあったろう。
 ユネスコの「文化の多様性に関する世界宣言」の第一条によれば、「文化の多様性は創造の源泉であり、かつ人類共通の遺産である」。もちろんそのなかに食文化も含まれ、2011年10月フランスの食文化が無形世界遺産に登録されたことは記憶に新しい。同時に、地中海の四カ国(スペイン、イタリア、ギリシャ、モロッコ)とメキシコの食文化、オリーブを中心とした食文化圏という定義で地中海料理が登録された。
 登録にこぎつけたフランスの場合、その数年前から毎年、申請を行ってきた。その間、機を見るに敏なサルコジ前大統領は、フランス料理を無形文化遺産にすべきであると公的に発言してきた。前大統領は世界遺産に自身の名前を残そうとする野心をいだき、公的に宣言すればユネスコ委員会は無視できないという目論見があった。その後、事務局内部で議論が戦わされたが、最終的には、事務局メンバーが大統領の面子を立てるために登録したというのが、どうやら真相に近いらしい。いわば大統領の一本勝ちだ。
 もともとユネスコの無形文化遺産は、伝統的な芸能や儀式に対象を絞ったもので、そのなかに「食」のジャンルは入っていなかった。だが、サルコジ前大統領の発言が推進力となり、フランスの食の専門家が熟慮した結果、「集団や個人の人生にとってもっとも大切な時を祝うための社会的慣習」として、無形文化財の条件を満たすという条件でお墨付きを与えたのである。
 一口にフランス料理といっても、過去の宮廷料理、さらにそれを継承した高級料理から家庭料理までピンからキリまである。歴史的に高級料理と地方料理や家庭料理は混じり合ったことがないから、さまざまな問題点が指摘される。従って、フランスの食の専門家は大統領が公言したからには落とし所を探らざるを得ず、その結果としてフランス料理そのものではなく、フランス料理を家族が集まって賑やかに食べるという、伝統的・社会的な慣習の側面に光を当てて申請したわけだ。大統領によるエゴ丸出しのごり押しによって世界遺産に登録されたが、最終的にはフランス外交が勝利した恰好なのである。
 いっぽう、日本料理を登録申請する上で議論が紛糾したと思われるのは、先述したように懐石料理にはじまり江戸前の寿司、地方料理、居酒屋などジャンルが広範囲にわたり、ユネスコが定義する無形文化遺産条約の対象にするにはかなり無理があるからだ。各国がフランスと同じように無理を承知でごり押しすれば登録できる、となれば申請する国は増え続けるだろう。最近の例でいえば、イタリアがイタリア料理全体としてではなく、ナポリの伝統料理と限定してピッツァを申請したという。
 ところで、フランス料理のユネスコへの登録が正式に決定されてから、フランス国内でちょっとした賛否両論がもちあがった。歴史的に見ても本来、料理はムーブメントしながら進化していくもの。それが世界遺産に登録された途端、仰々しく博物館入りとなり、進化が停滞するのはまずいだろう。あるいは自国民をさらに増長させるので賛成できないという意見も出た。おそらく日本ならほぼ全員諸手を挙げて賛成するだろうに、正論好きなのかへそ曲がりなのか、フランス人というのは理解しがたい国民だ。ただし、どちらが自然かといえば、後者に軍配は上がる。全員右に倣えなんていうのはムラ社会と呼ぶのであって、決して近代社会といえないからだ。

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*下記の拙著『料理人の突破力』の刊行を記念してトークイベントが開催されます。私の司会で「クイーンアリス」の石鍋裕氏と「懐石小室」の小室光博氏が参加します。
・日時は6月13日(金曜)20:00~22:00(開場は19:30)
・会場は下北沢の書店B&B
詳細はB&BのHPをご覧ください。
*今年4月に拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第11回の前半を掲載します。
第11回①(2014年5月30日)
 地中海沿岸の南仏コート・ダジュールによく行った。昔は「紺碧海岸」と表記されたコート・ダジュールは、文字通り紺碧の海になだらかな沿岸が数キロ続くフランス切っての観光地。映画祭で有名なカンヌやニースをはじめ名だたるリゾート地が目白押しだ。19世紀半ば、パリからコート・ダジュール方面へ鉄道が開通して以来、草木もなびくようにバカンス気分は「南へ、南へ」一色となり、贅沢な避暑地として発展していった。
 一口に南仏といっても広範囲にわたり、南仏を意味するフランス語の「ミディ」は、一般に北フランスに対する南フランスをさす。陽光が少なく、秋冬になると曇り空が続く北フランスの住人は夏のバカンスをむかえると、強く照る太陽が恋しくなって南仏をめざす。そのミディの範囲をもう少し狭めると先のコート・ダジュールになるが、ここでは逆にそのエリアをやや広げ、大都市マルセイユを中心にイタリア側とスペイン側に広がる一帯も南仏と呼ぼう。
 かつてベストセラーである『南仏プロヴァンスの12か月』の舞台となったプロヴァンスも、題名に使われているように南仏と呼ばれる。地理上でいえば、コート・ダジュールから内陸に入った、古代ローマ遺跡が残るニームやアルル、預言者ノストラダムスの生誕地サン・レミ・ド・プロヴァンスや終焉の地サロン・ド・プロヴァンスなどがそうである。
 90年代半ば、マスコミの恐るべき威力を思い知らされたのは、突如巻き起こったプロヴァンス・ブームである。その火付け役がイギリス人作家ピーター・メイルが書いた同作品。プロヴァンス地方に1年ばかり滞在した作家が英語で書いた本に瞬く間に火がつき、気がついたら日本からも巡礼よろしくプロヴァンス・ツアーが組まれ、海外からツーリストが大挙してこの地方を訪れた。やがて多額の印税をせしめた元広告エージェントの作家は、さっさとプロヴァンスから撤退してアメリカへ移住した。もはや20年ほど前にプロヴァンス・ブームがあったことなんて忘却の彼方だろう。
 物語そのものは面白く、イギリス人の宿敵であるフランス人の生態を見事に切り取った場面もあったりして、思わずニヤリとさせられる。ただし、ピーター・メイルのフランス人への抜きがたい心理的コンプレックスをそこに感じるのは、私だけの偏見だろうか。そんな心理は、あるときは絶妙なスパイスとなって小気味よさを発揮するが、ひとたび屈折して悪意に様変わりすると手に負えない。まあ、作家の狙った演出だとも思えるけれど。
 ともかく、いまは両国を結ぶ列車ユーロスターが走り、ときには角突き合わせながらも、問題山積のEU圏でそれなりに歩調を合わせてはいる。だが、歴史的にずっと愛憎半ばの関係にあり、悪口と皮肉を言いあってきた間柄だから、両国人の感情の裏には第三者にはうかがい知れぬ深いものがあるに違いない。
 ピーター・メイルのフランス人に対するコンプレックスは、私には理解できなくもない。というのは、私も長くパリに暮らしたエトランゼとして悪名高きフランス人の思い上がり、矜持、頑固、自分勝手、個人主義などに日常的に接し、正直辟易したことが多々あるからだ。だから、フランス人の負のイメージを攻撃する場合、コンプレックスが深ければその物言いは激しいものになるだろう。事実、メイルの感情の表れ方はかなり激烈で、フランス人を辛らつにこき下ろす芸には年季が入っている。それにしても、短期滞在しただけで1冊にまとめ、大金を懐にしてアメリカ移住を企むなんて、さすが利に敏い元広告エージェントだと喝采を送りたい気分だ。
 可笑しかったのは、各国でベストセラーになった『南仏プロヴァンスの12か月』がなかなかフランス語に翻訳されなかったことだ。世界的にプロヴァンス・ブームと囃したてられているというのに、なんで早く出版しないのと気にしていたら、ブームに陰りが見えはじめたころ出版されるという超スローぶり。でも、いざ刊行されたら売り上げをのばし、ベストセラーに顔を出していたけれど。その後、彼の他の作品もフランスで翻訳されたから、作者は侮りがたい人気を得ていたのである。
 ところで、同書の出版が異常に遅れた理由はなにか。勘ぐるとすれば、「どうせ俺たちのことなんか、なんにもわかっちゃいない外国人が悪口を言ってんだろう。バカバカしいったらありゃしない。あんまり愉快じゃないね」といったところが大方のフランス人の反応だからだろう。ともすれば外国からの批判にマゾ的快感を覚えるタチの日本人とは逆に、フランス人は外へ向けた批判なら卓越したサド的気質を発揮するが、過去に外国人によるすぐれたフランス人論が何冊も出版されているにもかかわらず、自分たちへ向けられる批判にはあまり耳を貸そうとしない。さらに、フランス人によるフランス人論にそれほど見るべきものがないのは、彼らのサド的資質の為せる業かもしれない。だから、ピーター・メイルの作品に対して、「腹に一物あるイギリス人から、いまさらオレたちの気質やライフスタイルを好き勝手に分析されてもなあ」といった慨歎と嫌悪の情を強く持ったに違いない。
 マルセイユからイタリア方面へ向かうニースやカンヌなど一大観光地とは反対の地中海沿岸一帯にも、知られざる景勝地が点在する。だが、いまひとつパッとしないのは、バカンスやレジャーにつきもののグルメ文化の不在である。フランス版ミシュランガイドを開くとわかるが、イタリア方面へ向かう一帯には星つきレストランが少なくないのに、西半分はポツンとある程度。これじゃフランス人や外国人ツーリストを惹きつける魅力に乏しい、と思っていたら有力な都市モンペリエに3つ星「ル・ジャルダン・デ・サンス」が誕生した。
 勢いというのは恐ろしいもので、同店への関心が高まるにつれて、レストランのあるラングドック地方で作られる赤ワインが注目されるようになった。大昔から安ワインの代名詞だったワインが、若い生産者たちの努力が実って質量ともに向上したからだ。地元産をプロモートするように、この3つ星レストランのワインリストにラングドック地方のワインがずらりと並ぶ光景に唸らされる。ガストロノミーの頂点を極める約30店の3つ星のなかでも、この店だけの独自リストである。
 ちょうど南仏に行ったついでに、私はル・ジャルダン・デ・サンスで2度食べた。ディナーを他のミシュラン店で予約していたから2度ともランチだったが、1度目は一番安いコースメニューを注文。3つ星をリーズナブルな価格で食べられたことも驚きだったが、料理にはもっとびっくりした。昔から美食の不毛地帯とこき下ろされてきた地方にありながら、これだけの風味と洗練を出せる、という驚きの言葉が何度も口中ではぜた。まあ、3つ星を与えられのだから当然と言えば当然だが。
 ところが、2度目にトライしたときは裏目に出た。ランチであれほど美味しかったのだからと欲張り、3つあるコースメニューのうち一番高いメニューを選んだのだが、美食という点で目論みは失敗に終った。強烈なインパクトを感じた前回に比べてがっかり度は高かった。それでもひとつ教訓を得たような気がする。つまり、3つ星にコースメニューが数種類あるときは、もっとも安い値段を選ぶべしと。なんとなれば、シンプルな値段のメニューにこそ3つ星のエッセンスが凝縮しているからだ。
 そんなわけで口直しに、「カキの養殖」と書かれた看板を頼りに車を走らせ、やがて地中海に面したひなびた小湾に辿りついた。しばし養殖所などを見学してから湾に面した安普請のレストランへ。夏の終りをむかえつつあるレストランは、フレッシュな魚介類に舌鼓みを打つバカンス客でけっこう賑わっていた。注文したのは殻付きカキとムール貝の盛り合わせ。爽やかな潮風に吹かれながら飲む地元の辛口白ワインとの組み合わせに文句はない。クラッシュアイスを敷きつめた、使い古しの銀皿にもられた地元産の食べ物は、やはり絶品だ。時折、カキに飽きたら、無塩バターをぬった黒パンを口に運び、口中にたまった塩分を和らげる。食いしん坊な私はペロリと平らげると、もう一皿同じものを注文した。そして数日後わざわざ車を飛ばし、もう一度同じ店の同じ席で同じものを2皿食べた。それでも無類のカキ好きだった文豪デュマらの足元には及びもつかない。肥満ぶりはデュマやブルボン王朝の君主にやや互角かもしれないが。
 カキは喉越しがいい。ツルリと喉を滑っていく食感はなんともいえない。そのときの私は、旅の途上にいる昂揚感と爽快感もあったせいか、馥郁とした滋味深いカキの美味にたぶらかされているような気分だった。フランスでは一般に生ガキの食べ方は2通りで、レモンを絞るか刻んだエシャロット入りのワインヴィネガーをかけるか。私はそのまま食べるのも好きだ。それは食べた後に殻に残る、海のエキスが充満した、ちょっと苦くて香りのある海水をチュッとすするのが楽しみだから。
 一昔前のフランスでカキを食べるのは、俗にRのつく月に限られていた。つまり、解禁日は9月から4月まで。しかしカキの養殖が盛んになってからは、季節を問わず食べられるようになった。カキを食べさせるパリの庶民的な店の前では、エカイエと呼ばれるカキむき職人がスピーディーに仕事をこなしている。店頭で頼めば、カキ1個でもむいて気軽に食べさせてくれるから、ぜひお試しを。ただし微笑みとチップを忘れずに。

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*拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第10回の後半を掲載します。
第10回②(2014年5月15日)
 日本食に人気が集まるにつれて、フランス人の日本食へのアプローチに変化が見られるようになった。昔は日本料理店のテーブルにハシの使い方なんかを説明した紙のクロスが置かれていたものだが、いまやそんな説明が不要になるくらいハシを器用にあやつる人たちが増えた。だが、フランス人があまり酢飯を好まないせいか、酢の使い方に問題があるし、回転ズシの場合はネタに限りがある。一般にフランス人は欧州諸国のなかでも、とりわけ珍奇なる食べ物への好奇心が強く、当初はスシもその類だと思われていたが、口コミによってじわじわ客が集まるようになった。なかにはひたすらダイエットのために食べ続けている連中もいる。
 世界の食の本場パリに回転ズシが登場したのだから、その波及効果は絶大だ。ただちにお隣のロンドンで、長さ61メートルのカウンターの回転ズシがオープンした。両都市のカウンターの長さだけならロンドンの勝ち。さらに地下鉄の駅構内に回転ズシが店開きしたことでも、ロンドンはパリに先んじていた。スシに関してもう1点、パリよりロンドンが先行していたのは、高級デパートのハロッズの食品コーナーに、パリのデパートやスーパーより数年早くテイクアウト用のスシが売られたことだ。しかも1個1個、丁寧にラップで包装されて。
 海外の食事情に詳しい専門家によれば一時、回転ズシブームの後に来るのはドンブリという説が流れた。けれども、その説を裏づけるような物的証拠は現在のところない。たしかに日本独自の箱庭文化を表現したような、日本的エスプリを満載したドンブリは、日本発のファストフードとして好奇心旺盛なフランス人の支持を得ると思うから、ポスト・スシブームの一番手に挙げてもいいだろう。いまやパリでは食べられない日本食はなくなり、数年前にたこ焼き屋まで出店した。と思っていたら、海外で経済的でヘルシーな「BENTO」の知名度が上がっているという。日仏両国で「BENTOコンクール」が開催されたり、フランスの辞書に「BENTO」が所収された。それによれば、「BENTO」は男性名詞。そのうちパリの繁華街に「BENTO食堂」なんてのがオープンするかもしれない。
 さて、先に見たようにアジア系オーナーの和食店が増殖するいっぽう、日本人経営のレストランは、素材の吟味をはじめ曲がりなりにも正統派の日本食を提供している。一昔前に比べれば食材の入手も容易になり、パリに根づいて研鑽に励む日本人の料理人が増えているから、日本食の底力は侮りがたい。数年前、パリで日本人の和食店がミシュランの1つ星を獲得し日本のマスコミで話題になった。面白いのは、彼ら日本人オーナーが一様に新興勢力アジア系の台頭を歓迎していることだ。というのも、怪しげだろうが奇天烈だろうが、ともかくもアジア系オーナー店は、美味しいものには目がないフランス人の足を日本食に向けさせ、日本料理初体験の客層を広げてくれているからである。
 要するに、日系店とアジア系店は、日本食レストランの2極化ともいうべき現象の表れだと考えられるが、彼らアジア系の日本食レストランの活況なくして、日本食が急速に認知されることはなかったであろう。両者の客層は異なりつつも、コインの裏表のように共存関係を維持しているのだ。
 そこに嬉々として登場してきたのが農水省。先ほども触れたように、日本食ブームによって誤った日本食が海外で普及することに危機感をいだいた官僚が音頭をとり、日本レストランの「認証制度」の導入にのりだそうとした。目的は、海外における「正しい日本食」を認証する制度を創設し、「ニセ日本食」や「まがいものの日本食」を取り締まること。そのための予算が数億円計上されたという。
 ところがどうだろう。この「認証制度」が発表されるや、思わぬところから反対の火の手が上がったのだ。なんとアメリカ国内で「スシ・ポリスの派遣」「国粋主義の復活」などと猛反撃を受けたのである。私などは日頃、アンチアメリカのフランス贔屓を自認し、アメリカ人は味覚音痴と侮っているが、今回ばかりはよくぞ物申したと拍手を送った。かようにアメリカ人でさえ反対の声を上げたのだから、美食の本家フランスでも反対派が大勢を占めたのは言うまでもない。だいたい国費を使って海外の優良店を選別する、などといった考え方そのものがアナクロニズムもはなはだしい。ミシュランのように民間企業がレストランを選別・評価するならいざしらず、政府機関が率先して実施するとはいかがなものか。
 逆の場合を想定してみたらどうか。つまり、フランス政府が主導し、日本国内にあるフランス料理店の優劣を評価する。まあ、フランス政府がそんなナンセンスな手段を取るとは到底思えないが、仮に魔が差して愚行に及んだとしたら世界中で物笑いになるだろう。日本の公権力はそれと同様なことをやろうとしたわけで、役人ってのはどうしてこうもトンチンカンで恥知らずなことを妄想するのか。
 思い起こせば、昨年7月1日に禁止された生食レバー問題もこれに近い。牛のレバーを提供した店は2年以下の懲役、または200万円以下の罰金というお仕置きだそうな。これまた役人が考えつきそうなことだ。そこでレバー好きは、禁止令が施行される直前に駆け込みで食べちゃおうと店に列をなしたという。結果、全国でレバーによる食中毒が3日間に11件発生。
 同じころ新聞に出ていた厚労省の食中毒統計によれば、生食用の牛レバーが原因と見られる食中毒の発生は、過去14年間は年平均9・1件だという。しかし、この発生件数を見て、うーんと唸った人は、たぶん大勢いるはずだ。だって年間平均でたった9・1件だぜ。役所はいったいどこに目をつけているのか不明だが、この数字で禁止とはね。そもそも、私は食の領域で安全神話という考え方にあまりなじめない。理想としては理解できるけれど。
 聞けばレバーの代替で「レバー刺しこんにゃく」が人気になったらしい。製品化したのはこんにゃく食品会社。別の商品を開発していたら、思いがけず誕生したそうだ。ともかく本物特有の臭みもなく、濃厚な味わいや食感も程良く、生レバーと瓜二つだという噂だ。
 食の安全を守るためにリスキーな食べ物の提供を禁止したのだろうが、本来食べ物の嗜好は個人によって千差万別だし、やみくもに公権力が介入するのは食べる楽しみを剥奪することにもなりかねない。みなさんそれなりにリスクを覚悟の上で食べているのだろうから、何をどう食べるかは個人の責任に任せるしかない。行政側がちょろちょろ出てくる問題じゃないと思う。
 問題は官僚が生食文化をどう考えているのか。もっといえば、文化というものをどう捉えているか。彼らのやり方は物事を思慮深く考えず、頭ごなしに禁止令を出すことに終始しているようだ。
 突然話は飛ぶけれど、町中にある小さな公園の目立つ場所に貼られた、あの禁止事項を見るたびに反吐が出る思いをするのは私だけだろうか。あれって役人が決めているのだろうが、これもダメあれもダメのオンパレード。あまりに禁止が多すぎて、私みたいな雑な男の頭にはスーッと入ってこない。昔はもっと緩かったような気がする。いまや幼稚園から小中学、いや高校も大学もパブリックスペースの、ありとあらゆる場所に禁止行為の貼り紙がベタベタと。これじゃ子どもも若者もストレスで萎縮しちゃうな。なべて行政側が責任回避を狙っているようで、なんともバカバカしい。
 こんな頑なな禁止だらけの光景を見たら、個人の尊厳を守るためなら自己主張を貫く、図々しくもふてぶてしいフランス人は卒倒するだろう。なぜなら、原理原則や禁止事項は破るためにあると公言する人たちだから。いっぽう従順で我慢強い我が国民は、与えられた規則や規律やコンプライアンスは常に守るためにあると洗脳されているらしい。いまさら声を荒らげて衆愚政治を歎いてもはじまらない。それよりも役人どもが、頭ごなしに禁止すれば事足りるとする考え方がどうも気にくわない。うかうかしていたら、ある日突然、冗談じゃなく卵かけごはん禁止令なんてのが施行されるかも。そんな心配はさすがに杞憂で終わるだろうが、もしそうなったら「卵かけごはん」ファンならずとも、この世の終わりだと思って憤慨する人が続出するだろう。
 太古の昔からあるでしょう、最初にウニやナマコを食べた人は偉いという類のエピソード。グロテスクな姿の生き物を臆せず食した先駆者、南米からもたらされた観賞用のトマトにかぶりついた勇者、日本でも明治になって初めて牛鍋を食べて舌鼓を打った庶民、「ふぐの美味さというものは実に断然たるものだ――と、私は言い切る。・・・これに優る何物をも発見し得ないからだ」と北大路魯山人が断言した毒持ちのふぐ食いなど枚挙にいとまがない。つまり、そこにあるものを食べるという行為そのものが文化であり、食のすべてはそこから始まり、やがて焼いたり煮たりという人間の知恵によって食文化が形成されていったのである。その原初の聖なる生食という行為をいたずらに禁止することは、食文化にまつわる歴史や知恵を否定することになるような気がするのだが。

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*先頃、拙著が2冊同時に発売されました。
①『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)
「フランス料理、イタリア料理、日本料理を代表する料理人の、修業時代からの苦労話・渡世話!たくましく人生を切り拓くための工夫や知恵の宝庫。若い料理人のみならず、モラトリアム世代への生きるヒントがつまった一冊」(編集部より)
「ほんとにお尻がむずがゆくてどうしようって思うぐらい不安な状況に自分を追い込む。反吐が出るくらいに」(本文より)
②『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)
「ホテルの西洋料理を本場フランスに負けない域にまで高め、料理界を牽引した小野正吉(1918~1997)。パリ在住時に小野シェフと交流し、日本におけるフランス料理の受容・発展を見つめてきた著者が、その実像に迫る一大評伝」(帯より)
ご笑覧ください。

*引き続き第10回の前半を掲載します。

第10回①(2014年5月1日)
 日本とフランス両国の文化的事象を同じ土俵にのせて比較することは、なかなか面白くて興味深い。というのも、この2つの国は歴史も社会も国民性も顕著に異なるからだ。
 私が思うに、仮にはるか遠い50世紀の未来に優れた文化的資産を有する国を3つ残すとすれば、独断と偏見を顧みずに言えば、ためらいなく日本とフランスの両国民を挙げたい。残る一国はどこか。現状は問題をいろいろ抱えているにしても、日本に豊かな文化をもたらしてくれたことに敬意を表して、四千年の歴史を持つ中国になるだろうか。もっとも、近年の急激な資本主義への変化や日中の緊張を見ていると、もはや私たちの理解のおよばない別物になってしまったような気がするけれど。
 同じく料理でも似たような物言いができる。たとえば、「世界三大料理」を挙げる場合などに。そう訊ねられたら、まず「フランス料理」と「中国料理」を挙げることに異論を唱える向きは少なかろう。この2つの料理は、時代の変遷とともに自国料理の独自な体系を構築したという類似点があるからだ。
 では、第3の料理をどこにするかと聞かれたら、事はにわかに紛糾する。これはなかなか悩ましい問題で、各国が自慢の伝統料理を長きにわたり食べ続けてきたわけだから、それぞれ強く主張してくるだろう。ひとつにしぼるのが難しい。
 ただし、遠い未来に人類の遺産として残す料理というのが趣旨だから、いくつか必須条件が必要だろう。そのひとつが、その料理が一国を超えて国際的な普遍性を獲得し、「体系」を築いているか否か。そうした観点からすれば、「フランス料理」「中国料理」と並び、広大なトルコ帝国を築いた「トルコ料理」がランクインするかも。日本人の私としては、トルコ料理を世界三大料理に数えるにはいささか躊躇する気持ちもないわけじゃないが、正直に言えば、ほぼ日本という国内だけで食べられてきた「日本料理」が選択される可能性はきわめて低いと言わざるを得ない。いわばある時期まで世界との交流を持たず孤立していた日本料理は、それらの国の料理に比べて構造的ではなくむしろ平面的な料理という側面が強い。つまり、他国の料理のエレメントを包含・摂取しながら、自国料理を構造的・体系的に作り上げ国際的料理として発展させてきた国々に対して、他国の料理からそれほど影響を受けずにきた平面的な「日本料理」は、善し悪しは別にして世界へ進出できなかったのである。まあ、構造と平面との違いを時間軸でいうなら、一般にフランス料理は、オードブルからデザートまで単品を順を追って食べるという流れである。いっぽう一般に和食は同時にすべて食卓に並ぶというように。そうなるとやはり「トルコ料理」が選ばれそうだ。
 さて、第三候補になりそうなトルコ料理。もうお気づきだろうが、候補に挙げられる大きな理由は、オードブルからデザートまで料理の全体像が、フランス料理と同じ体系に基づいて整然と構築されているからである。一品一品にそれぞれ特色があり、なおかつ単品が全体の流れのなかで自己主張している力強さがあり、さらに洗練されていることも注目される。
 最盛期のオスマン帝国の広大な領土は、現在のイランとモロッコをのぞく東欧、中東、北アフリカ全域などに達した。従って、ローマ帝国の料理と旧アラブ帝国の料理のエッセンスを持つトルコ料理は、いささかオーバーな言い回しになるが、西欧が西方の後進地域にすぎなかった時代において、すでに人類の生んだ偉大な料理となっていたのである。そんな伝統を継承する現代のトルコ料理には、三大料理のひとつに加える資格は充分にあるだろう。
 閑話休題。
 いまから7、8年ほど前、海外で和食ブームが起こったことに乗じて、日本の農水省は日本料理の国際化に対応しようと愚挙に出た。マスコミ的にはささいなネタだったから、みなさんはもうお忘れだと思うけれど、海外における日本レストランの「認証制度」を創設するという、いかにも官僚の考えそうなバカバカしいことを仕出かそうとしたのだ。
 思えば、日本食がこれだけ海外に普及するとは、長くパリに暮らした私ですら予想だにしなかった。まことに慶賀すべきことで、いまとなっては驚くやら唖然とするやらまことに不思議な気持ちである。三十数年前、フランス人の日本に関する知識といえば、日本と中国は地続きだと真顔で信じていたり、日本語で通じる言葉はフジヤマにゲイシャにソニー、二輪車のホンダにヤマハなど両手で事足りる程度。90年代以降に起こった劇的な変化を思うと隔世の感がする。
 当時のパリで食べられていた日本料理とて似たような状況で、スキヤキにテンプラにヤキトリ、スシにサシミといった看板料理がメニューを飾っていた。ここ10年ほどパリでも、折からのスシブームで和食が注目されているが、日本食レストランの定番料理はそれほど変わらない。今も昔もスシとヤキトリに止めを刺す。それでもフランス人が生魚を食べるようになったのだから、日本食への興味は格段に進んだといえる。要するに、肉食大国フランスにおける魚介類の消費量が増大したわけだ。世界中で日本食がブームになっている昨今、美食の町パリとその郊外を含めて日本食レストランは約600軒に達するという。
 パリに初めて日本料理店が誕生したのは第二次世界大戦前。むろん内容的にはお粗末なものだ。やがて戦後も196、70年代になると、普通の和食店がぽつぽつ出てきて、80年代後半から90年代になって雨後の竹の子のように増えた。昔は日本人経営店が大半だったが、そこで働いていたアジア系がやがて独立・開業し、その勢いはとまらず、いまや日本人経営の日本料理店はわずかに全体の1割前後。残りは中国系、韓国系、ベトナム系が経営する店だから、その進出ぶりがいかにすさまじいかわかるだろう。
 彼らアジア系のメニューはスシとヤキトリが中心で、その他の料理は単なる付属品にすぎない。暴論を覚悟で言えば、スシとヤキトリは特段うるさいことを言わなければ、とりたてて長く修業しなくてもなんとか形は作れるだろう。だから日本食ブームの折柄、シノワズリー(中国趣味)ともジャポニスムとも計りかねる、奇抜な即席インテリアの日本レストランが出現し、へんてこな和食を出すことになる。パリのスシブームは、日本食の普及という下地があって始まったのである。街角にテイクアウトのスシを売る店も登場し、フランス人が経営するスシ店も出現した。
 一口にスシといっても、その中身は名ばかりで、米酢の代わりにワインビネガーを使ってスシ飯を作ったり、韓国産の岩のりを巻物にベトッと貼り付けたり、二段重ねのおにぎりのように大きかったり。ネタも少ないし、客の前に出されるスシにげんなりさせられる場合が多々ある。さらに、異臭をはなつ味噌汁や鶏がらスープが出たり、廉価な中国製醤油を使っている店が多い。
 パリでスシブームの引き金になったのは回転ズシである。それも飛びきりシャレた回転ズシがリッチなパリジャンをつかんだのだ。最初に話題になったのは、1999年にシャンゼリゼ通りの近くにオープンした「ロー・スシ」で、有名デザイナーのアンドレ・プットマンがデザインしたインテリアは、フランス的なエスプリを加味したエレガントで明るいカリフォルニア風。その客室と風変わりな回転ズシとの組み合わせがパリジャンの好奇心をくすぐり、開店当初から人気になった。地の利も加わり、外国人も呼び込んだ。
 「ロー・スシ」がオープンする前から日本風の回転ズシはあった。ただし日本で見かける店舗をそのまま移築したような雰囲気だったから、一部の日本食ファンをのぞけばそれほど話題にならなかった。それが「ロー・スシ」の開店でスシブームに火がついた。食べ物の話題ならすぐに飛びつくマスコミにさかんに取り上げられ、スシ人気に拍車がかかったのである。
 ちょうど「ロー・スシ」のオープンに前後してスシブームを引っ張ったのが、オシャレな「マン・レイ」と「ボン」の両店。「ロー・スシ」と同じくシャンゼリゼ界隈にあり、アジアンテイストを売りにした「マン・レイ」の店内には、巨大な二体の天女像がどかっと据えられていて、安っぽいスシ盆にのせられたスシは自前のキッチンで握られたのではなく、明らかに近所の日本料理店からテイクアウトしたと思しきものが並んでいた。薄暗い店内で食べるスシは奇妙な味がした。
 後者の回転ズシ「ボン」は、パリ16区の高級住宅街に出現してあっと言わせた。天井の高いブルジョワ風の洗練されたインテリアをデザインしたのは、世界的なデザイナーのフィリップ・スタルク。浅草の吾妻橋際にある、アサヒビールの本社ビルの屋上に輝く黄金のオブジェで知られるデザイナーだ。モダン・デザインのスタルクと異文化の回転ズシがタッグを組んだのだから、話題にならないほうがおかしい。この店は回転ズシだけでなく、店の奥はテーブル席になっていて、そこでスシをつまむこともできる。私が食べに行ったのはオープン数日後。スシを握る板前は日本人ではなく、閉店した日本レストランから移籍してきた、片言の日本語を話す中国人だった。これらオシャレな3店とも、フランス資本による緻密なマーケティングによって開店したという。

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*4月21日(月曜)、拙著が2冊同時に発売されます。タイトルは『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)と『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)。ご笑覧くだされば幸甚です。

*引き続き第9回の後半を掲載します。
第9回②(2014年4月15日) 
 長く暮らしたフランスで私は、幸運にも何度か本格的なジビエ狩猟に同行したことがある。フランスの地図を広げると、パリをちょっと離れただけで四方に広大な森が点在していることがわかる。秋から冬にかけて各地を車で走ると、草原や野山で銃を肩にかけたハンターたちをよく見かける。しかし、最初から最後までハンターと行動をともにしても、狩猟の現場を目撃した体験はそれほどあるわけではない。そして、さすがに実際のハンティング経験もなかった。しかしなにが面白くてハンティングに精を出すのか。
 日本ではハンターなんて存在は、およそ私たちの生活からほど遠い奇特な人々という印象が強い。ほんの一部の好事家が森の奥へ分け入って興じる、といったイメージしか思い浮かばない。
 いったい、フランスのハンターの血を湧かせ肉を躍らせるものはなにか、その正体はどんなものか調べようと私は彼らのもとにはせ参じ取材したのである。そして百聞は一見に如かず、驚かずにはいられない事柄ばかり。以下、私が体験したハンター同行録の一端を。
 数少ない体験のなかで、いまでも強く印象に残っているのが「猟犬狩猟」と呼ばれるものだ。千年以上の歴史を持つ「猟犬狩猟」というのは、目にも鮮やかな制服に身を包んだ馬上のハンターが、多数の猟犬をしたがえて行う狩りのこと。一般にヨーロッパの王侯貴族や富裕層が楽しむ狩猟といえば、この狩猟である。いまでは映画以外にあまり見られなくなった狩猟だが、フランスでは時代劇に登場するような、古式ゆかしい儀式的な狩猟を実践するクラブが全国に存在するという。捕獲するのは主にキジ、シカ、イノシシなど。
 独特な美学を継承する伝統的な「猟犬狩猟」には、ハンターに代々受け継がれる猟騎服ボタンをはじめ、17世紀ころから制服や角笛に取って代わったラッパや短剣が必需品である。また長時間にわたって行われる狩猟で大活躍するのが犬と馬。これら役者が揃って人と馬と犬とが一体となり、数時間にわたって獲物を追い求めるシーンは、さながら古代から伝わる荘厳&雄大な絵巻物を見ているようで素晴らしい。
 じつは「猟犬狩猟」の現場に立ち会ったのは、1985年に開催された「つくば科学万博」に出品される映画を製作したときである。私の友人が映画の監督を引き受けていたので、彼に頼まれてフランス側でプロデューサーみたいな仕事をしたのだ。
 もうひとつ、「猟銃狩猟」というものもある。現場を取材したのはある年の厳冬のことで、北フランスのアルデンヌ県の広大な国有地を借りている狩猟クラブを訪ねた。
 狩猟はこんな風に進められた。息も凍りつきそうな早朝5時、狩猟小屋に集結した数十人のメンバーにしたがって森林に分け入った。メンバーのかたわらに、常にトラッカーと呼ばれるグループが控えている。というのも、狩猟はハンターと猟犬だけで行われるのではなく、彼らトラッカーと相互協力しなければ成功しないからだ。トラッカーの役割は、狩猟開始と同時にハンターと猟犬の位置と動きを見定めながら、大声を上げて獲物を追い出し追い詰めること。従って、3者の緊密なチームワークが要求されるのだ。
 午前と午後の2回、狩猟が行なわれた。すっかり赤や黄色に変わった葉が生い茂る森林に差しこむ美しい光につつまれながら、目を皿のようにして傾斜地や緩い丘、茂み、小川などを踏破していく数時間は狩猟の醍醐味である。時折ハンターの銃声がとどろき、猟犬の疾走する音が耳にとどく。不思議にも、先史時代から連綿と続く、偉大なる遺産である狩猟にこめられたプリミティブな感情が少しは理解できたような気になり、狩猟に魅せられたハンターの気分を多少なり味わえた。
 狩猟後に格別な祝宴が待っている。みなさん疲労困憊しつつも、静まりかえった森を背後に漆黒の闇のなかにある小さな狩猟小屋で、肩を寄せ合いながら食べるディナーの光景は祝宴そのもの。両手や服を血で真っ赤に染めながら解体した肉を、激しい炎をあげる炭火で焼いただけのシンプルな料理にむしゃぶりつく。
 「ものすごく歩いて走って汗を流した後で、自分らの手で解体した肉を焼いて食べるのは最高だよ。それに仲間と一緒に食べるからうまいんだ。みんなが持ってくる自慢の赤ワインをガンガン飲みながらね」と酔眼ぎみの農民は意気軒高だ。それもこれも仲間意識の高揚と親睦を深めるために欠かせない儀式である。長い歳月を超えて継承されてきた、狩猟民族の血と記憶を確認しているのではないだろうか。 
 閑話休題。
 ゴルフの話に戻ろう。彼らフランス人は堅苦しいルールが嫌いだから、そもそもゴルフをスポーツではなくレジャーと見なしている。ゴルフが盛んにならない理由は、そんなフランス人気質もさりながら、ゴルフはあくまでも個人の趣味の領域だと考えられ、普及に欠かせないサラリーマンの接待ゴルフがこの国では皆無だから。一般にその代役を果たすのが、美食の国らしくビジネスランチ。
 パリで生活していたころ、イル・ド・フランスと呼ばれるパリ郊外に30余のゴルフ場が点在していた。バブル最盛期の只中、その半数は日系ゴルフ場と言われたものだ。伝え聞いたところによれば当時、日本でもっとも数多くゴルフ場があったのは千葉県で、県内でゴルフ場を造成するための費用は200億円を超える巨額だったという。それでも、そのころ私企業のオーナーのなかにはしこたま金を隠し持っていた連中もいたから、造成費用を捻出するのはお安いご用だったとか。でも、金持ちの性分はケチというのが相場だから、できれば低予算でゴルフ場を手に入れられないかと思案していた彼らの耳元で、怪しげなブローカーが近づいて、こうささやいたんだろうな、きっと大阪弁で。
 「ダンナ、もっと安い買い物がありまっせ。200億なんて大金使うたらもったいないもったいない。1ケタ違いのたった20億。場所? 花のパリーでっせ! よろしゅうおますやろ。お買い得お買い得!」
 とかなんとか実際に密談が交わされたか知る由もないが、とまあ、こんな風に金満オーナーは口説かれたのだろうと思ってください。場所は花の都、日本人ゴルファーのために特別に用意した麗しいパリジェンヌがキャディのゴルフ場オーナー。悪い話じゃないぞ。しかもわずか20億ぽっち、これならポケットマネーというより月の小遣いで買える感覚だから、話はとんとん拍子に進んだはずだ。こうしてパリ郊外のゴルフ場が次々に日系企業の傘下に入っていったのである。
 日本ではいかがわしいバブル紳士と鼻つまみ者のオーナーにしてみれば、フランスにゴルフ場を所有し、パリに遊びにくる連中の接待に使えば鼻が高い。昼はゴルフを楽しみ、夜になれば高級ミシュラン店で食べる。食後に「ムーラン・ルージュ」や「クレージー・ホース」でもてなせばパーフェクト。招待客とのビジネスの交渉もスムーズに運び、あうんの呼吸とやらで契約できるというもの。
 日本でのゴルフ人気は相変わらず高い。一般のサラリーマンが土日、自前で楽しめる気軽なスポーツだ。最近は不況が長引いているせいか、駅のプラットフォームで能天気にスイングする人はさすがに見かけない。だが、病膏肓に入り、ただただ話題がゴルフ一辺倒となると首をかしげたくなる。
 今も昔も仕事でフランスに来る日本人の政治家や経済人によく見られるのが、ビジネス以外に話題が極端に乏しいこと。いろいろ交渉が一段落して、ランチやディナーに招待された場面を想像してほしい。先のミッテラン元大統領も文人政治家と呼ばれたように、フランスの政官財エリートの文化への造詣は深い。なぜなら、政治家や経済人だけでなく、一般人も含めて文化のひとつも語れなければ、無教養なアホ人間だと見なされるからだ。またそうでなければ、政治家や経済人として認められないという、なかなか査定の厳しいお国柄である。
 従って、どんな些細な文化でも、これぞと思ったらとことん研究する。第1回で取り上げた、やたら相撲に詳しいシラク元大統領もそう。日本文化への思いが深く50回以上も来日し、とりわけコレクターである刀の鍔に関しては余人の追随を許さないほど博識だったという。いわば文化に対する素養や教養は彼らにとって必須の条件で、みなさん人さまの前で自説を開陳できる文化人である。
 それにひきかえ、というより、そもそも日本の政治家や経済人にいっぱし文化を語れる人物がいるのだろうか。彼らのヘタれ顔を見るにつけ適格者は限られる。アメリカ追随一辺倒の政治家、北朝鮮並みの世襲政治家、地盤・看板・鞄だけが頼りの愚劣な選挙とそれを支えるムラ社会、外交が得票にむすびつかない蛸つぼ社会、そして拝金主義の企業経営者・・・なんだか情けない。
 さらに付け加えるなら、彼らの趣味が揃いもそろってゴルフだと聞くから薄気味悪い。そんな連中がパリに来て、なにが始末におえないかと言えば、仕事が終わってから食べるランチやディナーで、フランス人相手に得々とゴルフ談義を披露すること。彼らの頭のなかでは、ゴルフは世界共通の健全なスポーツである、とバカのひとつ覚えのようにインプットされている。そんな駄弁につきあわされるフランス人の頭のなかでは、「低能」「無教養」「井の中の蛙」「身の程知らず」なんていう言葉が飛びかっているはずだ。「このドアホ!」、と腹のなかは煮えくりかえっているだろう。それさえ気づかずに自慢話は延々と続く・・・。
 さて、そうこうしているうちに、花盛りのバブルはお開きに。案の定、バブル崩壊後は次から次へと日系ゴルフ場は白旗を上げてそそくさと撤退した。パリ滞在中、私もゴルフ上手な知人に誘われお伴をした口だから、その後日系ゴルフ場はどうなっているか興味にかられて出かけたら、やはり欧米企業の傘下に入っていた。フロントで聞けば、日本人オーナーは一刻も早く譲渡したいがために安く叩き売った由。棚からぼた餅だったらしく、私のからわらで新オーナーがほくそ笑んでいたようないないような。
 パリから東京に生活を移してから私はゴルフをやらないが、フランスでは信じられないくらい手軽にできる。パリから郊外のゴルフ場まで車を飛ばしてわずか30分程度、しかもリーズナブルな料金。基本的にキャディはいないし、ゴルファーもほとんど見かけない。嬉しいことに「自由、平等、友愛」の国らしく、一般のサラリーマンが土日、自前で楽しめる気軽なスポーツだ。
 パリ郊外を美しく彩る季節は春と秋。とりわけバカンスの終わる9月や10月に入ると、ゴルフ場の景観は目を見張らせる。鮮やかに染まった色とりどりの樹林が、やがて到来する枯葉の季節を予感させながら、野趣に富んだゴルフ場の風情をひときわ高める。朝早くパリを抜け出し、車の少ないオートルートに入ると地平線まで麦畑が延々と続く。だが、途中ゴルフ場を示す仰々しい案内板がないから、つい見逃してしまう。やがて冷涼な朝もやのなかにゴルフ場が姿をあらわす。そのときの高揚感は格別だ。
 現在、パリ近郊にゴルフ場が70近くあるというから、ゴルフ人口が増えているのだろう。どうしてもフランスでゴルフをやりたい人はどうしたらいいか。まずパリ郊外のシャルル・ドゴール空港に到着したら、日本で予約したレンタカーをピックアップして、同じく予約したゴルフ場へ直行。思い切り18ホールを回ってから空港に戻り、レンタカーを返却してフライトに搭乗すればOK。
 今も昔も個人主義のチャンピオンと言われるフランス人らしく、ゴルフ場では自国流スタイルがまかり通っている。Tシャツや短パンのようなラフな恰好だろうが、遅延プレイだろうが、ボールをラフからフェアウェイへけり出そうが、誰ひとり文句をつけない。そこかしこに規制やコンプライアンスという名の縛りが跋扈する日本社会で暮らしていると、彼らの気楽でマイペースなゴルフがやけに懐かしく思い出される。

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*4月21日(月曜)、拙著が2冊同時に発売されます。タイトルは『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)と『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)。ご笑覧くだされば幸甚です。
*引き続き第9回の前半を記載します。

第9回①(2014年4月1日) 

 狂乱バブルのころ、「バブル紳士」なんていう怪しい言葉がまかり通っていた。問題は、日本のマスコミを騒がせた彼らの行状である。なにしろ日本の土地をすべて売ったら、アメリカ本土を4つも買えるなどと強欲者たちがほざいていた時代だから、バブル紳士という名の得体の知れない成金がうじゃうじゃいたのだ。そんな連中が目指した国のひとつが憧れのフランス。彼らが彼の地でなにをしたかと言うと、主に由緒ある建築物と絵画とゴルフ場の買収3点セットである。
 とはいっても、芸術の国フランスの歴史的建造物には、成金といえどもさすがに手を出せない。だから、買収のターゲットは、「フランスの庭」と呼ばれる風光明媚なロワール渓谷に聳える由緒あるシャトーへと向かった。有名絵画を含めてその買収劇で悲喜こもごも愚かな話題を提供し、日本人による破廉恥な不作法を天下に知らしめたのである。
 ところが、天井知らずの金額でシャトーを買収したものの、その後の管理があまりに杜撰で、管理体制は見るも無残としか言いようがない。買収側はどのように保全・管理するかといったノウハウをまるで持ち合わせていない。現地フランスの管理会社に一任したものの、それが悪辣なもんだから、日本に居住しながら時折、フランスに物見遊山で来る金満家オーナーは文化などこれっぽっちもわかりゃしない、単なる金蔓の愚か者だと思われていたから、管理会社は好き勝って放題。そのうちシャトーの名声に傷がつき、資産価値は下がるばかり。
 絵画にしても、ご記憶にあるだろうが、日本の大企業の社長が会社の購入したゴッホの作品を自分が死んだら遺体と一緒に焼いてほしい、というような文言を遺書に残したと騒がれた。同じくフランスでも日本人の絵画購入&保管をめぐり、その社長の言動に似たりよったりの騒動がもちあがった。なにしろ文化的資産に対する敬愛も畏怖もまったく持ち合わせていない、なかには塀の向こう側に落ちてもおかしくない脱税スレスレのオーナー連中もいて、最後は金で片がつくと高をくくっていたのだ。
 シャトーと絵画に次いでゴルフ場買収劇はどうだったのか。
 「フランス人ってゴルフするんですか?」
 パリ生活から帰国したいまでも、折に触れてこんな質問を受ける。たしかにフランス人の有名ゴルファーはいないし、そもそも自分勝手なフランス人が、紳士のスポーツと言われるゴルフのルールに従順だとも思えない。とはいえ、どの国にもゴルフ好きはいるようにフランスにもいる。ただしゴルフ人口は数十万と少ない。フランスの人口が約6千万だから、稀少だと言わざるを得ない。唐突な比較になるが、フランスには狩猟を楽しむハンターは150万。つまり、日本がゴルフ大国ならフランスはハンター大国なのだ。
 もう記憶から消えかけているだろうが、1981年に大統領に選出されたフランソワ・ミッテランという政治家がいた。2期14年(大統領の任期が5年に短縮されたのは、サルコジ前大統領が選出された2005年)を務めた大統領としての手腕は毀誉褒貶さまざまだが、良くも悪くも老檜を絵に描いたような人物である。彼を日本で有名にしたのは項を改めて述べるが、むしろ愛人騒動のほうではないか。
 ともあれ、ミッテランの趣味はハンティングであり、歴代大統領のなかで彼ほどハンター姿が似合う人物はいない。ハンティング帽をかぶった姿に、一見朴訥で農夫のようなごつい風貌が加味されて、じつに様になっていた。大統領みずからハンティングに熱中するお国柄だから、上も下もこよなく狩猟を愛している。
 先に述べたように狩猟人口が多いから、なにがあってもジビエ(野鳥獣)の狩猟を制限されてはたまらない、というのが 衆目の一致するところ。巷間、ジビエ料理を食べずしてフランス料理を語るなかれと言われる国だから、国内外の緑の党やエコロジストから提案されるジビエ猟を制限する法案に対して、左右の政党を問わずことごとく反対に回る。同じように大方の国民に異論はなく、みなさん馬耳東風の様子。環境保護の声がかまびすしい昨今、たしかに狩猟人気は低迷しているが、食の大国フランスは毅然として伝統を死守しているのである。
 フランス料理に使う、本格的な食材としてのジビエは歴史的な産物である。ジビエほどフランス人の食欲を強く刺激するものはない。毎年、ジビエが解禁される秋から冬にかけて大量に捕獲し市場に入荷され、無造作に肉屋の店頭に吊るされる光景は、秋冬の風物詩としてすっかり定着している。日本人旅行者は一瞬、日本のスーパーでは見なれない光景にたじろいだりするけれど。
 普段は牛や豚、鳥や羊などの肉類が売られているが、そこに捕獲されたままの羽根つきジビエが並ぶ壮観さは一見に値する。まさにフランス人の貪欲な食欲を見せられているようで、豊穣な食材にまざまざと感嘆の声を上げてしまう。歴史的なフランス料理の王道を往くジビエ料理の面目躍如たるものがある。
 昔から日本では一部の人にしかジビエ食いは広がらないから、本国でこれほど認知された食材だというのに、どういうわけだか日本のフランス料理界ではジビエ料理が振るわない。歴史的な理由からなのか、それとも獣の匂いを毛嫌いしたり、食わず嫌いが多いからだろうか。
 反対にフランスではジビエ食いはまさに勲章物であり、そうじゃないと本物のグルメやグルマンと認められない。冬場たっぷり暖房のきいたレストランで、汗をかきながら夢中になって食らいついているに勇姿は、たしかに勲章のひとつも授けたくもなる。フランスには「無口な男に気をつけろ」という格言がある。私的に解釈すれば、目の前の料理に手をつけるも話はせず、よこしまな魂胆から相手の女性の挙措をうかがっているような男にろくな奴はいないという感じだろうか。けれども、ただ黙ってひたすらジビエを食い続けている男だけは許してほしい。その滋味を味わっている間だけは、食欲のほうが優先されるからだ。それくらいジビエは、彼らフランス人にとって食欲本能を根源的に刺激する食べ物である。
 人類の誕生から長い歴史を持つジビエは、数多くのクラシックな食材のなかで王道中の王道である。周知のように先史時代の経済社会はジビエによって左右され、ジビエを大量に捕獲できないときは、ひもじい生活を送らざるを得なかった。いっぽう豊かなジビエに恵まれた場合は、神に感謝の祈りを捧げ、祭りごとで祝ったであろう。このようにジビエは人類の生存にとって必要不可欠であり、多大な貢献をしたのである。
 両者の関係を明かすのが、フランス南西部に位置する有名なラスコーの洞窟壁画。人類にとって偉大な文化的遺産であるその壁画に描かれているのは、色彩も鮮やかな狩猟民と馬や鹿や山羊などの野生動物である。またフランス南西部からスペインにかけて数多く存在する洞窟壁画の大半は、人間より動物をモチーフとしたもの。彼ら狩猟民によって描かれた躍動感あふれる動物は、まさしく狩猟にかける人類の情熱の証といえる。

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*引き続き第8回の後半を掲載します。

第8回②(2014年3月15日)
 そうそう、異能の人・みうらじゅんを取材したときのこと。彼は独特の口調でこう切り出した。
 「僕と宇田川さんってまったく接点がなさそうだけど、じつはそうでもないのよ。共通点がありましてね。それは僕が仏像好きで、宇田川さんが仏蘭西好きなこと。二人とも仏が入っているでしょう?」
 うーむ、なるほど。着眼点に感心。よく知られるように、みうらは仏像に関して一家言の持ち主である。そして私は「仏」の文字が入る仏蘭西で漂うがごとく馬齢をかさねてきたが、両者はたまさか「仏」という文字でつながっている。
 やがて、お得意のエロい話が出たついでにといった感じで、話題は1974年に公開されたフランス映画「エマニエル夫人」へ移った。主演はオランダ人女優のシルビア・クリステル。タイを舞台にした映画は世界的に大ヒットした。美しい外交官夫人が自由なセックスに目覚めてゆくという単純なものだが、当時のエロい映画として社会現象となり、世界中の若者を虜にした過激作だ。クリステルは愛の伝道師という異名を奉られ、その名を映画史に残したのである。
 去年、彼女の名前を久しぶりに目にしたと思ったら、59歳という年齢だから案の定、病気のネタだった。報じられたニュースによれば咽頭がん手術、脳卒中、最後は心臓発作を起こし、意識不明で病院に搬送されたというもの。その後、60歳で死去したというニュースが流れた。みうらは真顔でこう話す。
 「籐椅子に座っているエマニエル夫人のポーズって、誰かに似ているでしょう? 誰だと思います?」
 私が首をひねっていたら、彼がトボケた口調で驚くべきことを告げる。
 「ねえ、宇田川さん、中宮寺の弥勒菩薩の半跏思惟像と似てると思わない?」
 予想だにしない言葉に私は度肝をぬかれ声も出なかった。その明察に驚いていたら、「エマニエル夫人」の演出家だかスタッフだかに直接、彼女の姿形は半跏思惟像をまねたと聞いたと追い打ちをかける。唖然として、ほんまかいなとその信憑性を疑わざるを得なかったが、にもかかわらず両者の写真をよくよく見るにつけ、エマニエル夫人=弥勒菩薩の半跏思惟像は疑いようがない。どこで仕入れた情報なのか判然としないが、その言説をあえて信じようと思うのは、みうらが不思議な魅力の持ち主だからである。
 それから数十年続けている、好事家にはよく知られた「エロスクラップ」という貴重な切り抜き帳を見せてもらった。「雨の日も風の日も、嵐の日も地震の日も、せっせとスクラップ張にエロ写真を切り貼りしてきた」とおっしゃる。その執念や一徹ぶりに頭がさがり、写真を拝見しながら眼福を味わい、よくもまあ続けているものだと感心することしきり。
 閑話休題。 
 前回、1980年代後半から90年初めのバブル時代の「花のパリ」で、現地駐在の日本人がいかに忙しく奔走したか、その一端を記した。彼らが金にあかせて夜毎、ミシュランの星つきをはしごしたそのころ、日本ではミシュランの知名度はさほどでもなかった。ごく限られた一部の食通をのぞけば、その権威と威光はあまねく知れ渡っていなかったから、ミシュラン店で食事することはきわめて貴重で、通ぶれる経験だったのである。
 さすれば駐在員はパリを訪れる政官財のお偉いさんを、世界に冠たるミシュランの星つきレストランへ招待する。そんなわけで、彼ら駐在員は、世界中から予約の入るミシュラン店のオーナーやメートル・ドテル(支配人)やソムリエに、常日頃からチップをはずみ渡りをつけておく。先方も大金を懐に忍ばせた日本人は得意客だし、両者は持ちつ持たれつの良好な関係である。日本人は一番高い料理を選ぶわ、高級ワインを奮発するわ、法外なチップを払うわ、どの国の客より気前よく大判振る舞いする。その割に他の外国人客のように偉ぶらず文句ひとつ言わず、従順でおとなしい動物のようだから、店にとってはまことに扱いやすい、ありがたい模範的な客である。
 しかし、バブル景気のおかげで日本人がパリを舞台に、いかに傍若無人な振る舞いに及んだか、そんな話はうんざりするほど知っている。前回書けなかった、バブル時代にパリで起こった、ちょっとした「事件」とはなにか。その絶頂期、日本の政治家や役人、ビジネスマンがパリの裏通りや横町でいかに嫌われていたか。特にパリのマダムと子どもたちに蛇蝎のごとく嫌悪されていたか、そのエピソードを紹介しよう。
 パリの特色は、ブールヴァールやアヴニュと呼ばれる華やかな大通りの表の顔と、大通りをつなぐ横町や裏道、小道や路地といった裏の顔との絶妙なバランスの上に成立していることだ。この2つの要素が紡ぎ織りなす美しい光景が、世界中の人々を魅了してきたのである。各国から多くの作家、詩人、芸術家がパリを訪れ、その美しさに酔いしれ作品に残している。
 普通、ミシュランの星つきレストランは表通りの路面より、横町や路地にひっそり構えている場合が多い。表の顔にはトゥーリストご用達のレストランが軒を連ね、そのバックにひっそり控えているのが小体なミシュラン店。太陽がさんさんと降り注ぐ明るい表通りではなく、昼間でもあまり光の差さない裏通りや横町、小道に立地している。そこに彼ら日本人が嫌われる理由が潜んでいる。
 現在もそれほど変わらないが、日本のサラリーマンが好むスーツはダーク系。ただしバブル当時の流行りはきっちりしたスーツではなく、マネーが乱舞する毒々しい時代を反映して、主流は、オシャレだけど遊び人風のイタリア系のラフなスーツだった。
 いまから20数年前、秋から冬にかけて灰色の雲が重く垂れこめ、日中でもほとんど日差しのない裏通りや路地に、全員ダーク系のスーツを着用した、日本のサラリーマンご一行が歩く姿を想像してほしい。彼らは、いましがた近くの豪勢なミシュラン店で経費を使ってランチを食べ、大盤振る舞いしてきたばかり。もちろん昼間から高価なシャンパンやワイン、コニャックをぎょうさん飲んで。パリの午後は日が暮れるのが早く、春夏のひとときをのぞけば午後3時4時ともなると薄暗くなり、さらに秋冬の午後はどんより曇った天気が続く。有名なシャンソン「五月のパリ」に歌われるように、いっせいに春の光が降り注ぐようになるのは五月に入ってからである。そして決まって「事件」は起こるのだ。
 当時は日仏の情報交換においては日本側の大幅な入超時代。日本や日本人について正確な情報を把握しているのは、ごくわずかなジャポノローグ(日本学者)だけである。大半のフランス人は、日本がどんなに高度成長していようが、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とおだてられていようが、無関心の一語に尽きる。ともすれば、日本人はフランス人が全員そろって、日の出の勢いの経済大国日本に関心を寄せていると思っていたのかもしれないが、とんだお笑い草、勘違いもはなはだしい。そうした外の視線にも気づかない、井の中の蛙丸出しの日本人気質、社会性の欠如した国民性は時代を超えていまも変らない。
 そんなわけで、全員ダークスーツを着用した、見も知らぬ小柄な異国人がなにやら小道をこちらにむかって歩いてくる。たらふく飲み食いしたせいで赤ら顔の男もいれば、シャツのはだけた男もいる。なかには爪楊枝をシーシーやっている男も交じっていたかもしれない。自分がエトランゼである、という意識を持つために必要な謙虚も美徳も欠いた、ふしだらなアジア系の黒服男性集団がふらふらだらだら歩いている。おまけに狭い道を傍若無人にも横一列に並んで。
 そうした呆れ果てて物もいえない姿は、知り合いのフランス人の言葉を使えば、「異形な人」そのものだ。「それにしても、日本人って自分たちが異形と見られていたり、この世に自分以外の人間が存在するといった認識に少し欠けているね」
 一般にランチが終わる時間帯に、生活エリアである裏道や小道を歩いているのは、専業主婦や子どもである。すると、なんの因果か否でも応でもアジア系の「異形集団」と遭遇せざるを得ず、彼女たちは眉をひそめてすれ違うことになる。そんなシーンを映像に残したら、さぞや薄気味悪いとも滑稽とも、なんとも言いようのない場面になるだろう。こうしてパリジャン親子の日本人への嫌悪感は醸成されていった、とフランスの新聞にシニカルに書かれていた。
 彼女らの嫌悪感を理解するには逆の場合を想像したらどうか。もし神楽坂のような町の薄暗い裏通りや路地に、ダークスーツを着た、ちょっと酩酊した男性外国人の異形集団がいきなりヌッと現れたら、誰だってギョッとしませんか。不快に思いませんか。
 また、私はパリの薄暗い小道で日本男性が立ち小便する現場を目撃したこともある。それも一度ならず数回も。街中にトイレが少ないパリでの緊急措置だと思えば、日本人として許してもあげたいが、やはりダメだ。郷に入れば郷に従え。酔っ払いに寛大な日本とは正反対の国だから厳に慎むべきである。

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*引き続き第8回の前半を掲載します。

第8回①(2014年3月1日)
 散歩の途中、たまには映画館に入る。昔は上映時間が指定されていなかったから、気のむくままいつでも途中入場できた。いまはそうもいかなくなったので、あらかじめ観たい映画の上映時間をメモしてから散歩に出る。
 お喋りなフランス人のレストランや自宅の食卓を囲んでの話題は、まず手近なエンターテインメントである映画から始まることが多い。演劇やオペラやコンサートになると普段着というわけにもいかないし、入場料もそれなりに高い。その点、映画なら安いし、誰でも気軽に観られるから、庶民の味方というわけだ。パリは映画の町とも言われるくらい映画館が多い。
 映画が誕生したのはフランスのリヨン市。リヨン生まれのリュミエール兄弟が映画の創始者だから、フランスと映画は切っても切れない関係にある。ちなみにリヨン生まれの3有名人とは先のリュミエール兄弟、料理人のポール・ボキューズ、「星の王子さま」の原作者のサン=テクジュベリである。ここでフランス映画の話を始めたら切りがないので、とりあえず1点だけ問題提起しておきたい。それは冒頭でも触れた上映時間のこと。
 いつも疑問に思うのが日本の映画館の最終上映時間。一般に上映途中で入館できないのはフランスも同じだが、両国の大きな違いはこの最終上映時間だ。東京の場合、最終上映はだいたい夜の6時か7時。いっぽうパリの場合は通常10時、もっと遅いと12時なんてのもざらにある。東京の場合、サラリーマンやOLが勤務後、映画鑑賞したいと思っても5時きっかりにはそんなに上がれないし、なかなか最終上映に間に合わない。これってなんだか変だと思いませんか。
 仮にも東京をして文化都市と標榜するなら、彼ら彼女ら一般ピープルが平日でも残業後観られる環境を整えるべきだろう。当たり前のそんな理屈が通らないのは、おそらく夜間上映に際してさまざまな規制が働いているからに違いない。でも、それじゃ文化都市が泣くよ。そもそも、文化というものを、行政がしゃしゃり出て規制でがんじがらめに縛ろうなんて考えること自体が間違っている。文化に関する規制は、それこそ最低ラインで抑えることが行政担当者としての興趣であり矜持であり、かつ思想である。しかしまあ、こんな理屈をこねても、頭の固い彼らには無関係な話だと一笑にふされるのだろうな。
 さて、名匠ポランスキー監督の「おとなのけんか」はよく出来た映画だ。同監督がベルリン映画祭で最優秀監督賞を受賞した前作「ゴーストライター」に劣らぬ傑作である。原題はフランス語「Carnage(殺戮、修羅場)」。なんともへんてこなタイトルに変容させられたが、近年上映された映画のなかでは間違いなくベストテンに入るだろう。
 それに比べて思うのは、最近の日本映画の目を覆いたくなるばかりの出来の悪さだ。いったいどうしたの。ありていに言えば、現代版浪花節、お涙頂戴寸劇、「四畳半襖の下張り」ならぬ六畳フローリング恋愛遊戯、マンガ的なんちゃって社会派ドラマなどうんざり映画のオンパレード。文句があるなら、先の「おとなのけんか」、クリント・イーストウッド監督「グラン・トリノ」「人生の特等席」、ウディ・アレン監督「人生万歳!」「恋のロンドン狂騒曲」、ヤン・イクチュン監督「息もできない」、ミシェル・アザナヴィシス監督「アーティスト」、エリック・トレダノ&オリビエ・ナカシュ監督「最強のふたり」に負けない映画を作ってみろ。
 私は一介の観客にすぎないが、日本には少ないけれども優秀な監督がいるのだから、なにか打開策はないのか。よく聞かれるのは、日本映画の不振の原因はテレビ局が主導権を握ったり、キャスティングが優先されるからだという。つまり、テレビ局や製作委員会などの意向に逆らえず、原作や脚本の質より俳優の知名度を先行させて内容作りをするから、目を覆いたくなる映画が生まれる結果となるそうだ。日本では金を集めてくるプロデュ―サーのほうが、映画監督や演出家より力を持っているといった悪しき構造。
 主役を見ればたしかにそうだなと納得する。これじゃ面白い映画は生まれない。ヨーロッパのように監督や演出家が主導しなければ、駄作になることは目に見えている。たぶん映画関係者はみなさん、これでは先が思いやられるなとわかっているはずだ。にもかかわらず続くのは、「わかっちゃいるけどやめられない」といった日本的呪縛にからめとられているからだろう。
 ついでにもう一言。
 欧米では考えられないのがテレビCMへの外タレ出演だ。私も違和感を覚えるが、アメリカの大物俳優がこれほどCMに出演している国は日本以外にはない。昨今フランス人俳優のCM出演は多くはないが、記憶に残るのはアラン・ドロン、ジェーン・バーキンとシャルロット・ゲンズブールの母娘、よく見かけるジャン・レノくらい。だが、トヨタのCMにドラえもんの格好で出演していたジャン・レノは、なおさらコスチューム姿が惨めに見える。彼の出演をフランスの国民の大半は知らない。国際的スターなのだからもう少しどうにかしてもらいたい。私はパリに住んでいたころ、ジャン・レノに拙宅に来てもらいインタビューしたことがある。親近感があるから、なおさら着ぐるみ姿が惨めに見える。本人がどう思っているかは知らないけれども。
 ジャン・レノが出たのでさらに一言。
 いつも気になるのが洋画の字幕。たまに字幕が出演者の明るい服にかぶって読みにくいことがある。
 さる日、試写会で、いまはすでに公開なったフランス映画「シェフ!~三ツ星レストランの舞台裏へようこそ~」を観た。料理長に扮したジャン・レノが演じる3つ星をめぐる軽いコメディで、高級レストランの内情を見られるのは楽しい。けれども、白服のコックがしばしば出てくるので、彼らの白服と字幕がかぶって読みにくいことはなはだしい。それで配給会社の知人に訪ねたら、洋画にとって字幕は長年の課題だという。「今まで35mmプリントで撮影・上映されてきたが、最近はデジタルテープで撮影・上映する映画が増えている。デジタルテープだと字幕も読みやすいが、映像がはっきりしすぎるきらいがある。つまり、長い映画史のなかで観られてきた、プリントの温かみのある味わいが損なわれると考える映画ファンも少なくない。見やすさをとるか、35mmプリントの味わいを取るかという問題・・・・・・」
 理由はわかった。でも、実際に読みにくいのだからなんとか早急に解決しないとダメだろう。現に観客が筋を追えないんだから。
 それにしても、映画のなかでレノと相棒がライバル店に視察に行くというシーンが挿入されているが、21世紀だというのに日本人のイメージが今も昔も変わらない。レノがちょんまげ姿のサムライ、相棒がはちゃめちゃな芸者という珍妙なナリを見たら、日本人なら誰だって舐めるなよとちゃちゃを入れたくなる。でもまあ、こんなのは監督や役者のせいではなく、一般のフランス人にとって日本人は、この程度の認識以上でも以下でもないとすべらからく肝に銘じておくべきだろう。
 ところで、先の映画「おとなのけんか」は子どものケンカが原因で親が対立する話なのだが、日本の子どもの陰惨ないじめはなんとかならないものか。教育委員会という名のおぞましい規制組織に属するアホな大人たちの対応を見るにつけ、いまさらながら思うのは、彼ら教育者が考えているのは弁解と保身だけ。もはや恥知らず、みっともないとしか言いようがない。
 同じようにフランスでもいじめは起こる。ただし、ほぼ小学校高学年になると終わる。なぜなら、その年齢になってもいじめをやっているガキは、周りの生徒から侮蔑の対象にされるからである。「キミ、まだいじめなんてやってんの? くだらないね」とかなんとか冷やかに正論を浴びせられ、バカにされるのだ。そうなると、いじめっ子は恥ずかしくなって、誰からも相手にされないから止める。こうして中学に進学するころになると、教師が介入するまでもなく、いじめは自然消滅するという。まあ、それほど出来はよくないが、「ちいさな哲学者たち」という実験的なドキュメンタリー映画を製作するような国だから、さもありなんか。
 フランス映画には子どもをテーマにした秀作は何本もあるけれど、私がすぐに思い浮かべるのは、フランソワ・トリュフォー監督の「大人は判ってくれない」。彼の長編処女作でカンヌ映画祭監督賞を受賞した。監督自身の少年期をよみがえらせた、1950年代に起こったヌーヴェル・ヴァーグを一躍有名にした記念碑的作品である。主役は12歳の少年。学校では先生にいつも叱られ、家庭では母親の都合でないがしろにされる。家出して窃盗容疑で海辺の少年院に送られ、やがて少年院を脱走した少年はまだ見たこともない海を見ようと海辺へむかって走り続ける。オーディションで選ばれた主人公が舌を巻く演技で、いま観ても色あせていない。
 他にもトリュフォー作品「トリュフォーの思春期」も一見の価値がある。タイトル通り監督自身の少年期の日常生活を描いたもの。舞台はフランスのある地方で、出演するのは乳児から思春期までの10数人の子供たち。いじめられる少年も登場する。映画のラストは、過酷な現実の世界へ旅立たねばならない子どもたちに向かって教師が、「生きることは苦しい。苦しみに耐えなければならない。自分の苦しみにも、他人の苦しみにも。子供時代に苦しんだ者ほど生命力に恵まれる。幸福にも恵まれる。生きるのはつらいが、人生は美しい。(略)人間は愛がなくては生きられないものなんだ」と語りかける言葉が胸をうつ。それは監督自身のメッセージでもある。

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*引き続き第7回の後半を掲載します。

第7回②(2014年2月15日)
 散歩するにしてもジョギングするにしても、東京の道路事情はかなり特殊で、あちこちに危険が潜んでいるから気をつけなきゃいけない。以前、テレビで「危険な抜け道」といったドキュメンタリーを観ていて、いまさらながらビックリしたことがある。番組では、小学生の一団が交通量の激しい、幹線道路の歩道のない路肩を登下校する光景が映っていた。彼らのかたわらを大型トラックが、我がもの顔にびゅんびゅん飛ばす、といった信じられない光景。そのそばで無防備な子どもたちが、まるでサーカスの少年少女よろしく上手にすり抜けていく。
 なんでも、横断歩道や信号がない危険な通学路は全国で6万ヶ所に達し、もちろん緊急の対策が必要だという。たとえば、車道と歩道を分けるためにカラー舗装したり。近頃、抜け道や脇道などで重大事故が発生しているが、「よくもまあ、日本の行政はこんな危険な状態を放置しておくものだ。もしパリでこんな道があったら・・・」と私は慨歎するばかり。むろん、大都市パリとて渋滞に悩まされているのは同じだが。
 歩道を走る自転車にしてもトラックと同じようなものだ。法律が改正されて少しは改善されたそうだが、歩道を疾走する自転車は間違いなく凶器だろう。にもかかわらず、野放し状態だったのは怠慢な行政の責任。政治家や高級官僚といった連中は公用車のリアシートにふんぞり返ってハンドルを握らないから、都心の道路事情にうとい。
 それにしても首をかしげたくなるのは、この頃やたらと車道と歩道を分けるガードレールが設置されていること。行政側は車から歩行者を守るためにもっともらしく敷設しているのだろうが、通りの向こう側の歩道へ渡るためにわざわざ遠回りをしなければならないから、面倒くさいことこの上ない。横断歩道を渡らなければならないのは分かっているけれど、車が1台も通らない深夜の大通りを横切るのに遠回りするなんてね。これじゃ歩行者優先どころか歩行者疎外に近い。そして相も変わらず、車の走行が途絶えた深夜の歩道で、信号が青に変わるのをひたすら待つ日本人。その人たちの心境って、どんなものなんだろうか。
 その昔、パリにいた時分、初めて行った東京からパリに戻った知人のフランス人が、驚いたといった様子で話したことを思い出す。
 「横断歩道で信号が青に変わるのをおとなしくボーっと待っている人たちって、集団催眠にかかっているように見えたよ。昔からああだったの? 日本は戦争に負けてアメリカに占領されてから、政治から文化まであらゆる分野で洗脳されちゃったわけでしょ。そのときに、アメリカ式のタイム・イズ・マネーの考え方も輸入したと思う。だったら青信号になるまで待つことないのにね。だってタイム・イズ・マネーの精神を見習ったら、赤でもさっさと渡らなきゃならないはずだろう。健気に素直に青に変わるのを待っていたら、マネーを失っちゃうからさ」
 それで思い出した。敗戦後、マッカーサー将軍による占領政策に3S政策があった。日本人の健気な努力と勤勉と愛国心に恐れをなして、これらをすべて奪ってしまおうと企図した政策で、3Sとは「スポーツ」「セックス」「スクリーン」。これを与えておけば、日本人は腑抜けになるだろうと考えたそうだが、その深謀遠慮は戦後の日本人を考えるとかなりの程度で成功したといえる。
 日本を統治するために厚木基地に降り立ったマッカーサーが与えた強烈な印象は、なんといってもコーンパイプに違いない。あのへんてこなパイプって、当時は実際によく知られたものだったのか。その後、彼を真似てコーンパイプが日本人の間で流行ったのかどうか寡聞にして知らないが。
 私にとってマッカーサーは横浜のホテルニューグランドと結びつく。私も知らなかったが、厚木基地に到着したマッカーサーは横浜にある、この由緒あるホテルに直行して進駐第一夜を過ごし、数日滞在したという。皇居前の第一生命ビルにあったGHQ本部や近在の宿泊施設にでも逗留したのだと思いきや、さにあらず。
 なぜ、彼がホテルニューグランドに宿泊したか。しかも横浜滞在12日のうち3日間も過ごした。じつは戦前、彼は4度もニューグランドを訪れていたという。そのうち1度は夫人を伴って宿泊した。そんな理由から日本に到着した日に慣れ親しんだホテルを選択したのだろう。その間、東京湾に停泊していた戦艦ミズーリ号上で降伏調印式を終えるなど、占領政策への地ならしがスタートした。
 ホテル側がマッカーサーに精一杯もてなそうと用意した食事は、スケソウダラの干物のムニエルとサバ、キューリの酢漬けといった簡素な料理。当時の最高権力者へ出す料理といっても、戦後の苦しい食糧事情の最中だったから、この程度の粗末なものしか用意できなかったのである。そしてやはり、彼は一口食べただけでナイフとフォークを持つ手を止めたという。私は用向きがあり、ホテルニューグランドを何度か訪問し、彼の宿泊した部屋を見せてもらった。将軍は56平方メートルのクラシカルな部屋を気に入ったという。
 横浜港に面した同ホテルの開業は1927年(昭和2年)12月1日。23年(大正12年)9月1日の関東大震災によって国際都市・横浜の市街地は一夜にして灰燼に帰したが、横浜復興のシンボルとして建築されたのがホテルニューグランドだ。きわめて斬新な設計で、正面玄関から入ると吹き抜けの幅の広い階段が広いロビーの2階に通じている。一般にホテルのロビーが1階にあるのと比べると珍しい。館内の上品な落ち着いた雰囲気は、90有余年をへた今日まで息づいている。
 日本を代表するホテルに各国の王侯貴族や各界の著名人が宿泊した。たとえば、ジョージ3世の王子グロスター公、喜劇王チャールズ・チャップリン、野球選手ベーブ・ルースなど数え上げれば切りがない。前回記した横浜生まれの大佛次郎は、1931年(昭和6年)から約10年の長きにわたり318号室を定宿とした。映画となり、私たちの世代を夢中にさせた代表作の『鞍馬天狗』など多くの作品を書いた。
 ホテルニューグランドは、日本におけるフランス料理の革新と発展の発祥の地である。レストランの初代シェフに招聘されたのはスイス生まれのユダヤ人、サリー・ワイル。もしワイルがファーイーストの日本にやって来なければ、日本のフランス料理の発展は遅れたからである。「近代日本のフランス料理の父」と呼ばれるワイルは、西洋料理界における黒船と言っても過言ではない。彼の存在は、戦後に飛躍するフランス料理へと深くつながるのだ。
 閑話休題。
 先述の日本帰りのフランス人から、いかにもフランス人らしい辛辣な言葉が次々に出てくる。それこそフランス式ライフスタイルはタイム・イズ・マネーとは真逆を行くものだ。およそフランス語になじまない言葉だが、そのフランスでもグローバリゼーションの大波が到来した1990年以降、「タイム・イズ・マネー」を翻訳したフランス語がマスコミにしばしば登場するようになった。
 私は彼に東京の道路で他に気づいた点はないかと訊ねた。
 「タクシーに乗っていると、どこもかしこも鉄板道路ばっかりだったよ。コンクリート道路じゃなくて、首都の道路が鉄板ってなに?」
 「あれはね、バブル景気で浮いた税金をジャブジャブ道路工事に回しているからなんだ。世にも珍しい鉄板道路というのは仮の姿。いずれコンクリート道路に舗装されるから、この次東京に行ったらわかるよ」
 バブル期の東京の主要道路は軒並み工事中で、いたるところで土埃が舞っていた。やがて鉄板が敷かれた道路はコンクリート道路へ。あれは仮の姿だったのだが、その上を車で走るとキッキッと金属の擦れる音がして気味悪かったな。
 道路といえばパリの裏通りで起こった、ちょっとした日本人がらみの不快な「事件」を思い出す。発生したのは、鉄板道路が敷設されたころの好景気に浮かれていた80年代後半から90年代初頭にかけて。もっとも、事件といっても警察沙汰になるようなものではないけれど。
 あのころパリの裏道や路地でよく目撃した光景だ。日本は右肩上がりの景気で、多くの観光客が日本からパリにやって来て、あぶく銭をふんだんに使った。なかでも派手に遊興していたのが政治家や役人、エリートビジネスマン。そんな彼らを迎えて歓待する役目が在外公館のスタッフや各社のパリ駐在員。
 パリ駐在員と聞けば一見羨ましい仕事に思われるが、そのじつパリを訪れる政治家や政治団体、各省庁からの出張という名目の物見遊山や出張ビジネスマンの接待係にすぎない。多いときは1日に数回、パリと25キロほど北に行ったシャルル・ドゴール空港の間を、出迎えと見送りのために往復することがある。これでは添乗員となんら変わらない。
 当時は国際ビジネスの最前線はウォール街とシティ。従って、企業のエリートが派遣されるのは、主にマネーの渦巻く英語圏のニューヨークとロンドンだ。一般にパリは観光と食事とナイトライフを楽しむ、マネーを生み出さない消費都市という位置づけだったから、日本から派遣されるのは二、三番手の社員が多い。彼らもそれを自認しているから、かなり自嘲する雰囲気があった。
 にもかかわらず、日々の接待で疲れていても、「花のパリ」の尊称と威光は輝き、一般のフランス人には手の届かないミシュランの星つきレストランで食事ができるし、有名キャバレの「ムーラン・ルージュ」「リド」「クレージー・ホース」なんかに行って、大層なナイトライフを満喫できる。連日連夜接待で通っているから、さすがに見飽きたスペクタクルについ欠伸が出る。年間100回以上通った駐在員もざらにいる。駐在員残酷物語。そりゃ欠伸も出るわな。
 しかし、数年我慢していれば、いずれは帰国の途につき、「花のパリ」駐在だから出世も見込める。しかも東京で購入する住宅資金の半分程度は貯金できる。噂によれば、先進国の駐在大使ともなると4年ほど滞在すれば、嘘か真か東京の一等地に家を建てられるくらい貯め込めたという。また駐在員ならお偉いさんと知り合うチャンスもある。そう思えば、不平不満は多々あるものの贅沢は言っていられない。
 ここで紙面が尽きた。「事件」のあらましは次回へ。

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*引き続き第7回の前半を掲載します。

第7回①(2014年2月1日)
 数ヶ月前、小説家のよしもとばななと対談した。私がホストを務める雑誌で、著名人に「食」をめぐる話を聞くという連載に出てもらったのである。
 日程は1ヶ月ほど前に決まっていた。ところが前日、突然彼女から連絡がきた。それを聞いて、さすがに私は翌日の対談を延期しようと申し出た。すでに旧聞になるが、彼女の母親が亡くなったという知らせだったからだ。いまから8年前、父親の吉本隆明と、私が聞き手となって「食」を通じて彼の人生をたどるといったテーマで共著を出した。その縁もあって、機会があれば彼女と対談したいと思っていた。
 その願いが実現するという矢先、母親である吉本和子の逝去という悲しい知らせを受けたのだ。彼女の心痛を察すれば、私が延期したいと伝えたのは当然だろう。しかも原稿締め切りまで数週間は残されていたのだから。
 だが、私の申し出を聞いたよしもとは一言「やりましょう」と。その言葉を聞いて、むしろたじろいだのは軟弱な私のほうだ。もし私が彼女の立場だったら延期したい。いったい、よしもとの心境が奈辺にあるかわからない。次の日、彼女を前にして、どう話を切り出せばよいのやら迷いが生じるばかりだった。
 翌日、1時間程度の対談は無事終了した。彼女の気持ちを忖度するあまり言葉もままならない私はその間、彼女の表情の動きを見ていた。そして感じたのは、人間としての、小説家としての勁さである。とても美しい表情をしている、とある種の感動を覚えたのである。
 さて、人間50歳をすぎたら、無理して体を動かさないよう心掛けたほうがいいよと忠告される。「もうずいぶん前にそんな年を越えちゃったよ」と腹のなかで悪態をつくが、実際この年齢になると、日頃の運動不足を解消するには、もはや散歩かラジオ体操くらいがせいぜいで、他に選択する余地はないらしい。
 私はとりたてて身体にいいことはなにもしていない。仕事柄、毎日外出するわけでもなく、終日資料や本を読んだり、パソコンの前で仕事することが多いから、むしろ選択する幅が少ないほうが助かる。一時はジムに通ってみようかと迷ったけれど、それも時間を拘束されそうで嫌だなと思い、いつでも好きな時にできる散歩を選んだ。日によって時間やコースを変えていて、午後遅いこともあれば、夜半過ぎのこともある。たまに歩きすぎて足の腱鞘炎を患ったり。気分的にはパリに暮らしていたころと同じような散歩生活だ。
 無愛想で太り肉のタイプだから、これでも神楽坂の景観を壊さないようけっこう気を遣っている。昼日中、全身黒づくめの怪しい私めのような人物が閑静な住宅街を歩いていたら、目立ちすぎて周囲から奇異な目を向けられるだろう。その点、住居を神楽坂に選んだのは正解だ。こんな風体のおじさんが昼間、ぶらぶら歩いていても景観から浮きあがらず、それほど目障りだと思われないからだ。さまざまな色の服を着た、町に住む老人と観光客風情のおじさんおばさんが、大通りや裏道にひっきりなしに出入りするから、中高年の私などは街並みのなかに自分を目立たず埋没させられる。これはじつにありがたいこと。こうして散歩は東京とパリの2大都市で、運動不足に陥りがちな私を多少なり救ってくれるささやかな習慣となったのである。
 フランス人は運動不足を解消するために散歩するわけじゃないから、眉間にしわを寄せ、必死に散歩する人たちは少数派だ。普通はウインドーショッピングしたり、本屋に立ち寄り気分転換したり、街の空気や匂いに触れたり、散歩のついでに公園やカフェに寄ってくつろいだり。まかり間違っても、シルエット維持や肥満防止のためにというパリっ子はいない。そういう人はジョギングに励む。
 フランス人に趣味を訊ねたアンケートを見ると、社会階層の違いや老若男女を問わず散歩を1位に挙げる人が圧倒的に多い。パリに旅行すればわかるが、昼日中から多くの人々が街中を散歩したり、公園を散策する姿に出会う。
 いったい、彼らフランス人はなぜそんなに散歩が好きなのか。まずその理由として考えられるのは、美しいパリの町が車を中心につくられたのではなく、人間を中心に街づくりが行われているからである。誰だって車にじゃまされない町に住んでいたら、散歩しなければ損した気分になるのは必然だろう。
 パリ市内にはおよそ5600本の通りがある。驚くのは、たとえどんなに狭い通りでも歩道が設置されていることだ。私が住んでいたセーヌ左岸のパリ6区は古いエリアで、大小さまざまな由緒ある通りや小道や路地が縦横に走っているが、そのうちのひとつが散歩の途中によく通った、サン・ジェルマン・デ・プレ界隈にあるヴィスコンティ通り(イタリアの有名な映画監督と同名だが別人の建築家。通りの名前は各界で活躍した人名をつけたものが多い)。
 ヴィスコンティ通りが開通したのは約300年前。つまり、フランス革命前のことで、日本でいえば江戸時代である。一般にパリのアパートは6、7階の高層建築だから、両脇を高い建物にはさまれた小道に光は差しこまず、昼なお暗い。この路地で悲劇作家のラシーヌは生涯を閉じた。同じく19世紀に生きた文豪バルザックの印刷工房があった小道でもあり、同じ番地に画家ドラクロワがアトリエを構えていた。静かな路地をゆっくり歩いていると、彼らの魂が空中を浮遊しているかのような心持ちになる。そして、狭い道幅にもかかわらず、両側にちゃんと歩道が設置されている。感心すること頻り。
 つまり、なにを言いたいかというと、町の主体はそこに生きる人々にあり、決して車ではない、という徹底したヒューマニズムが歩道という形に具現化されていることである。
 それに対して東京の町はどうか。東京は山手線環状域内の広さと言われるパリに比べて町そのものの規模が大きく、どこも車の往来が激しく、歩道のない危険な狭い道路が多い。それにビルの屋上から景観を見下ろすと凸凹だらけで薄汚れている。逆に道路の下から見上げると、おきまりのタコ足状にからまった電線がのたくり、その隙間から空が覗いているといった按配だ。その醜さを見るたびに私はゾッとして、戦後の東京がいかに奇妙に発展してきたか、電線はその残骸の一端なのだと思い知らされる。長く世界第二の経済大国と言われた国の惨状が、じつはその電線に表れているような気がしてならない。
 そうした東京に一生に1度来て、大都市の表面にざっと触れるだけの外国人ツーリストなら、ほれエキサイティング、やれファンタスティックなんて自国とは異なる風景を楽しんでベタ褒めもするだろうが、彼らは裏通りや横町や路地をほとんど歩かないから、町の裏側でどんなに破壊が進行しているか思いもしない。
 広い表通りでは高層ビルが建築中で、その裏通りや小道でも高層住宅を建設している光景は珍しくない。それより惨めな存在は、町の片隅で高層住宅の陰に隠れて本来の役目を果たしていない、猫の額ほどのパブリックな公園。そこにあるのは形だけ整えるために植えられた樹木や植物、園内で禁ずる行為を列挙した愚かな看板で、無味乾燥な風景が広がり、昼間なのに人影がほとんど見当たらない。本来は憩いの場所であるにもかかわらず、もはや誰のため、なんのために公園が存在するのかわからないといった有様だ。
 どうやらフランス人と日本人とでは、時間に対する感覚がそうとう違うらしい。つまり、フランス人は時間をみずからの手で支配しようとするが、反対に日本人は時間に支配され、時間という規則に縛られながら生きていくほうを選ぶ。言うなれば、自立か依存かという決定的な相違。そして彼らフランス人は、たゆたう時間のなかでゆっくり自分を見つめるが、いっぽう私たち日本人は時間に追いまわされ、こづかれ、せわしなく暮らす。これじゃ散歩する余裕など生まれない。だから、あなたの趣味はなんですかと訊ねられても、即座に散歩を挙げる人が少ないのだろう。 

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*引き続き第6回の後半を掲載します。

第6回②(2014年1月15日)
 詩人のなかには歩くという行為に対して、私たちとはずいぶん異なる視点や思考を持っている人がいる。「朝日新聞」(2012年8月17日)に、現代日本を代表する詩人の吉増剛造のインタビュー記事が出ていた。そのなかで彼は、創作する上でなぜ歩くことを大切にするのかと問われてこう答えている。
 「中原中也は1日12時間戸外を歩いたという。宮澤賢治も歩きながら鉛筆で書いているような人だった。アルチュール・ランボーもそうだけど、書斎型じゃなくて、外界を歩きながら命を拾っていくタイプ」
 さらに詩人らしい感性で歩くことを捉えている。
 「彼ら(引用者注・中原、宮澤、ランボー)のところまで僕はとても行けないけれど、ふっと角を曲がった時や電車を降りた時、ありえないような思考が襲ってくることがある。すぐ忘れちゃうけど。夢の中のようによぎる思考を捕まえるために歩いてます」
 吉増の歩行の原型は、1970年代末に青森の恐山に出かけことで作られたという。ほんの少ししか言葉がわからないイタコのそばにテープレコーダーを持って座る。そんなことを何度も繰り返すうちに、「はるかな異地へ行く」という基本形ができた。そして「もっとも果ての土地、最終処分場に近いところ、ほとんどがれきの山のようなところへ」行くことを自身に課したという。
 彼にとって歩くことは自身の奥底に留まる記憶を喚起させたり、感覚や思考のリズムを高揚させながら自分の内面を解放する手立てなのだろう。歩くという行為を徹底し、そこから創作をはじめる詩人と、ただのんべんだらり漫然と歩く私。両者の間には大きな懸隔があり、ベクトルの違いがあるにしても、人間にとって歩くということは生活になかでは無自覚でありながらも、意識的に行なえば大切な行為であると気づかされるという点で、私は彼の言葉から刺激を受ける。
 以前、私は「書斎型ではない歩く詩人」の吉増剛造を取材するため彼の書斎を訪問したことがある。いまでも鮮明な印象として残っているのは、正座して創作するという畳のある書斎だ。その部屋を見た瞬間、ヨーロッパ文化にも造詣の深い吉増と日本の畳とがすぐに結びつかなかった。ある世代以上の日本人にとって、畳に正座するという姿勢は生活に欠かせないものという意識があるのか。
 そこで私は訊ねた。
 「なぜ畳に正座して書くのですか?」
 「僕は小さい頃から正座で生活してきたし、大人になってからも正座しながら詩作してきたから、それが普通だった。きちんと正座することで心を静められる。正座というのは小さな国の日本人独特の姿勢でして、地面に近くなるという身体に染みついた、一番安定した形です。もちろん僕も西欧式に椅子やテーブルの生活にも慣れているけれども、執筆する時は正座がもっともいい。地面の近くで蹲る姿勢が、本質的に身体のなかに居座っちゃっているんだと思う。それは私たち日本人にとって、生まれ落ちた時からの文化ですからね。おそらく赤ん坊の時に、ハイハイした畳の感触が終生残っているんでしょう」
 むろん、世界を旅する詩人にとって、いつも自宅の書斎に正座して詩作できるわけではない。しかし、地球上のあらゆる場所が書斎になり得る。人の声が耳に入る喫茶店の片隅で書くこともあるし、意図して「瞬間的にエアポケットに入るような場所」を選んで書く。つまり、旅先のホテル、新幹線の車内、駅の待合室、映画館のソファが書斎に変貌するのだ。理想のポジションは地面に身を置く正座だが、なにがなんでも正座でなければ書けないというわけではない。
 「東京の書斎から遠く離れて、あえて本が1冊もないような、日常的な情報からまったく遮断された場所を選んで、その空間を書斎に作り変える。どこでも書斎で仕事できるような感覚になれるから、特に場所を選ぶことはない。学者などと違って、書物や参考文献に囲まれて書くわけじゃないし、私の場合はもっと機動的です」
 もう1点、書斎に入って驚いたのは、執筆に使うデスクが小学校の勉強机や昔の家庭に置かれたちゃぶ台のように小さかったこと。小ささの感覚をこよなく愛する吉増によれば、小さな机であれば資料や文献を周りの畳の上に散らす楽しみを味わえるという。「詩人は小さなライティング・ビューローでいいんですよ、猫の額のような大きさで」と笑う。小机の上に愛用の万年筆が乗っている。
 「僕はコンピューターが嫌いだから、昔からずっと万年筆を愛用している。それぞれタッチが違うし、握り心地も違うから、その感覚を楽しむわけ。昔の万年筆も大事だから捨てられなくて、たくさんたまっちゃってね。インクもコレクションしていて、カラフルで素敵な色がある。最近はインクの色が物を言いはじめているような気がします」
詩人の書斎など、そうしばしば入れるものじゃないから、いい機会だと思って詩や詩人について訊ねてみた。
 「そもそも詩ってなんですか?」
 「泣きじゃくりながら出てくるものが詩であるとパステルナークが書いているけど、詩を書くことは腸から絞り出す苦しいもの。詩は情報言語に踊らされないように、なるべく隠すように書く。新聞記事みたいなものに捉えられないように、そこからいかに遠ざかるかを考えて、その遠ざかり方の穴を掘って出てくるものが詩の言葉なんです」
 「詩の役目は?」
 「人間は始原的な遊び心とか憧憬とか、真似とか嫉妬とかが渾然一体となって、生きる原動力になっているはずです。そんな名づけられない根源的な欲求を、どんどん徹底的に鍛えていかなければいけません。みなさん蛸壺になってひとつのジャンルに固執しているでしょう。だけどジャンルの境目に、実は大事な表現の可能性が眠っている。その部分に触れなければいけないというのが、詩の役目です」
 「では、詩人とは?」
 「哲学者や思想家は自分が築いた論理を整然と組み立てて、新しい考え方を打ち出そうとする。でも、詩人というのは、自分が蓄積してきた知識や論理に邪魔されちゃうこともある。そういうものから外れたり離れたりしたほうがいいの。頭が冴えてきっちり動いていると詩は書けない。経験的に言えば猛烈な二日酔い状態とか、頭がよく働かない時とかじゃないと、大事なメロディーラインに到達できない。頭のなかでペンを酔わせたりぼかしたり、水のなかに沈めてゆらゆらさせるような状態がいいんですよ」
 小ぶりな机が置かれた畳の書斎から壮大な詩が生まれ、広大無辺の螺旋的な宇宙へと向かう。目の前で話す吉増の鋭く澄んだ眼差しと物静かな語り、時にユーモラスな話題に眩惑されながら、彼独自の魅力的な世界へ誘われる時間を、私は心地よいひと時だと思ったのである。

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明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。
*引き続き第6回の前半を掲載します。

第6回①(2014年1月1日)
 12年ほど前にパリから東京に居住を移してから、最近は年齢のせいもあるのだろうが、残された時間でできるだけ日本文化に触れたいという思いが強くなっている。遅ればせながら、自分なりに「失われた時を求めて」いるのかもしれない。だから、パリでそうしていた以上にいろいろな場に出向いてエンターテインメントを楽しみ、ついでに人間を観察する。
 でもまあ、東京はどこへ行っても、映画や展覧会、レストランやカフェは元気なおばさんたちに占拠されている。それに比べて男性の高齢者はきわめて少ない。同じように神楽坂も、「拝啓、父上様」のヒット以来、おばさんが増え若い人にまじって元気溌剌そのもの。それに引きかえおじさんたちの生気のないこと。なんとも気の抜けた様子で歩いているのを見ると、ご同輩ながら同情したくなる。
 おばさん一行は、神楽坂の表通りをはじめ横町や路地にまでどんどん入りこみ、ゲラゲラ笑いながら闊歩する。対しておじさんはと言えば、なぜかひとりで歩いている人が多い。きっと家庭内事情から家にいるのがままならず、それじゃ人気の神楽坂にでも行ってみようかなんて気持ちなのだろう。手持無沙汰らしく、目的もなくとぼとぼ歩いている様子が可笑しい。散歩しながらメモを取るでもなく、立ち止まって俳句をひねったり絵を描いているわけでもなく、ましてやもの想いに耽っている風にも見えない。街中での立ち姿が、じつに哀れでサマにならない。時にはその姿が私の自画像に見えなくもないけれど。
 それにカメラをぶら下げているから、より目立つんだな、滑稽な姿が。他人に見られているといった意識が少しあるせいか、撮影しなきゃまずいと思っているらしく、カッコつけて被写体にカメラを向けている。でも、定年退職してから趣味としてカメラでもはじめようかと思った程度で、初めてカメラを手にした様子がありあり。どこか所在なげで、余裕がない。ひとり町から浮き上がっているといった、かなりみっともない構図である。
 それなら中高年男性にお勧めしたい。たまにはノートパソコンを持参してカフェやファミレスに入り、そこを即席の書斎にする。日記でも自伝でも回顧録でもエッセイでも小説でも、なんでもいいから鬱憤晴らしに書いて、ひとり静かに時をすごす。JRやメトロに乗って行く先を変えれば、東京中のカフェがいつでも自分の書斎に変貌するから気分転換できる。それに静まり返った空間より、周りの賑わいが少しでも耳に入ったほうが刺激的だろう。そして完成した作品を出版社や自治体などが主催するコンクールに応募する。
 あるいはカフェを渡り歩いて読書したり、美術館やギャラリーで開かれている展覧会を鑑賞する。または川辺を歩いたり神社仏閣や公園をめぐり、東京にやたらと多い坂道を散策したり、ちょっと遠出して見知らぬ町をぶらつく。別の日は旧友を誘ってビストロやバルで食べたり、それともいっそ無為な時間に徹する。人ごとながら、そんな風に過ごすとよいのではないか。
 リタイア組がもてあます時間を社会のために役立てる方法はいろいろある。そのひとつが、長い目で見れば豊かな高齢社会を築くために貢献することだ。ボランティアの歴史が浅い日本では、とかくボランティアに参加する人が少ないらしいが、ひとたび参加すればさまざまな人々とつきあえるし、元気をもらったり、多様なネットワークを得ることもできる。会社という組織から解放されて、やっと自由の身になれたのだから、軽く楽しみながらでもいいから、自分の経験と知恵を生かせるボランティアに参加するのも悪くない。
 近頃、退職後の人生について「サード・エイジ」という言葉をよく耳にする。だが、豊かな「サード・エイジ」を花開かせるのも、不安にかられてさまよえる「サード・エイジ」に堕すのも本人次第。いずれにしても、少しでも自分を変革しようという気持ちになることが大切だろう。
 また、シニアという呼び方がしょぼさを感じさせるとの理由から、その代わりにグランド・ジェネレーション(G・G)という言葉も市場に登場した。昼間テレビをぼんやり観ていたら、知人の小山薫堂が出てきて、「G・G」の生みの親と紹介されていた。時代と消費者のニーズをつかむことに巧みな彼らしい表現で、シニアの新しいイメージを「G・G」に託して応援していたが、ネーミングはともあれ、可処分所得の多い「サード・エイジ」や「G・G」がたんす預金を少しでも消費に回したら、現在の沈滞した日本経済を復活させる起爆剤のひとつにはなりそうだ。
 90年代初め人気テレビ番組「料理の鉄人」の仕掛け人としてデビューした、放送作家の小山薫堂の活躍の場は脚本家、絵本作家、大学教授、ラジオパーソナリティ、プランナーなど多彩だ。そういえば先頃、「料理の鉄人」は「アイアンシェフ」という番組名に衣替えして復活した。彼の業績のなかでひときわ輝くのは、アカデミー外国語映画賞を受賞した映画「おくりびと」の脚本を書いたことだろう。たとえば、日本国内で賞と名のつくものは、文学賞だけでも500ほどあると言われ、その他の専門ジャンルを加えたら数限りない。その文学賞のトップに位置づけられる芥川賞や直木賞にしても、残念ながら関係者をのぞけば5、6年前に受賞した小説家の名前を憶えている人は少ない。
 国内では芥川賞は名誉ある文学賞だが、国際的に見れば無名に近い。それに対してアカデミー賞は言わずもがなの知名度。仮に数年後にはどうせ忘れられてしまうなら、略歴に芥川賞受賞と書かれるよりアカデミー賞受賞のほうが圧倒的にインパクトが強い。およそ文化などに関心のない門外漢に略歴を訊ねられて、「芥川賞」と答えるより、世界中の誰もが知っている「アカデミー賞」のほうが通りがよいからいいなんて、日本の賞などに無縁な俗物根性丸出しの私は思ったりするのである。
 さて、私もおじさん族の一員だから、えらそうな口をたたけないし、悲しき同類にはつとめて優しい視線を向けている。いちいち彼ら個々人の趣味に目くじらを立てるつもりはないけれど、定年後の長い時間をどうやって過ごすか、現役時代に少しは考えなかったのかね。書店に行けば、定年からの生き方といった類の本がごっそり並ぶ。まあ、私ごときの、人さまからは好き勝手に生きているように見える、いい加減な男が吐けるセリフじゃないが、定年後における人生の課題は社内にいるころから、なるべく早目に考えたほうがよろしい、というのが衆目の一致するところ。
 たまにサラリーマンの定年退職後の生き方なんていう本を読んだりするとわかるのだが、彼らは見栄とプライドが異常に強く、すこぶる外聞を気にするから、定年後に友人や仲間をつくれないそうだ。
 でも、無理して友人や仲間をつくろうとは思わないことだ。いまさらじたばたしても仕方ないじゃないか。おばさんたちのようにしなくてよい。むしろひとりのほうがなにかと煩わしことが少なく気楽だ。要は、ひとりでも哀れな感じに映らなければよいのだ。数十年も組織というしがらみのなかで、がんじがらめに縛られて生きてきたのだから、ボランティアは別としても、再びしがらみを求めないで、ひとり静かに余生を受け入れ、清々しく生きるのがよい。いまは、いずれやって来る老いと死のための準備期間だと思って。死ぬときは、どうせひとりなんだからさ。でも、人間そうそう聖人君主になれるものじゃない。それに男性の平均寿命が79歳と聞くと、長い老後を生きなければならない辛さをひしひしと感じる今日この頃だ。
 ところで、神楽坂を歩くおじさんは、おばさんと違って道に迷っていても、なぜか他の人に訊ねようとしない。仮に私が道に迷っているご同輩に、「なにを探しているの?」なんて声をかけようものなら、余計なお世話だと言わんばかりに迷惑そうな顔をする。
 本来は無目的な散歩ほど気分よく快適なことはないのだが、彼ら高齢者の男性にはそんな意識の欠片もない。定番のディバッグを背負い、キャップをかぶり、ファストファッションを着ている。そんなおじさんを見るたびに私は、「人の振り見てわがふり直せ」という諺を思い出す。
 思い返せば、亡くなった父がその諺をよく使っていた。それはバカばかりやっていた私に向けられたものだ。学歴のない父は、商売一筋に生きて実戦のなかで実感を持って諺を受け入れたのだろう。他にも彼の好きだった諺は3つ――「継続は力なり」「情けは人の為ならず」「人を見て法を説け」。いずれも味わい深い言葉に思えるのは、私が死んだ父親の年齢に近づきつつあるからだろうか。
 そうした町歩きの下手なおじさんたちを見るにつけ、日本人にとって散歩という概念がいまだ肉体化されず、いかに希薄な言葉であるかよくわかる。
 そもそも、散歩という言葉は明治になって西洋から渡来した外来語である。以来150年以上も経過しているにもかかわらず、日本人の散歩事情は欧米と比べて異なものだ。戦前戦後、『鞍馬天狗』『パリ燃ゆ』『天皇の世紀』などの作品で知られる、フランス通のリベラルな作家の大佛次郎はエッセイのなかで、「散歩は、やはり西洋人が来て教えてくれた」と書いている。なるほど、テレビや映画の時代劇を観ていても、武士や町人が悠然と散歩する姿はあまり見られない。身分制度によって社会が厳として縛られていた江戸時代に、昼間から大の男が町をぶらぶらほっつき歩くなんて考えられないことだったのだ。だいいち、そんなみっともない振る舞いをしたら周りから怪しまれる。
 日本人にとって散歩とは、単にある地点からある地点へ到達するための移動手段にすぎなかった。忙しい時間の合い間をぬってあわただしく追いたてられるように、わき目も振らず、せっせと目的地に向かって歩く。そんな状況のなかで大の男が昼日中、人目もはばからずのんびり散歩するなんて、大袈裟に言えば侮蔑&嘲弄の対象だったのである。ひと昔前はサラリ-マンも中小企業の経営者も商売人も従業員も、そんな悠長なことやってらんないよ、といったような否定的な心情だった。その事情はいまもそう変わらない。
 散歩の楽しみというのは、なにかとうっとおしい生活からひとときでも解放され、ぶらぶらのんびり歩きながら、周りの景色を見ることで心地よさや快適さ、すがすがしさを味わうことである。そうすれば頭も活性化するし、普段気づかなかったことに気づいたり、座ってばかりでは浮びそうにもない発想がヒョイと出てきたり。また静かな公園や森をそぞろ歩き、じっくり物事を考える楽しみもある。ひとりでもカップルでも家族でも、散歩している姿を見るのは気持ちがいい。
 東京には散歩を楽しむ場所はいくらでもある。それぞれの場所に特色があるから、その気になれば毎日でも場所を変えて飽きずに歩きまわれる。単に「点」から「点」への移動ではなく、「点」と「点」を「線」でむすぶことによって「面」へと広がり、それにつれて周囲の人間と光景を見ながら街歩きを楽しむ「場」へとつながってゆく。余裕のなかった昔ならいざ知らず、すっかり豊かになりモノにあふれた現在にいたるまで、そうした意味を持つ散歩が身体になじんでいないのはとても残念だ。おそらく、東京に住む人々は落ち着いた時間を仕事や会社に奪われているのだろう。

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*引き続き第5回の後半を掲載します。

第5回②(2013年12月10日)
 「そもそも島田さんにとって本格ミステリーとは?」
 「驚きを演出する人工的な装置だと思う。この驚きを維持するために前例のない発想や、これを支えるメカニズムが最重要となるのです。先にアイディアとトリックがあるべきじゃないですね。ミステリーというものは単純に殺人の文学じゃなくて、謎の文学、脳の文学なんです。そのためにあらゆるジャンルに深く分け入って、本格ミステリーに応用できるメソッドやエレメントを発見することが大事です」
 彼の言うジャンルとは、歴史や自然科学や建築学、医学や脳生理学など広範囲におよぶ。いわば森羅万象をエネルギッシュに渉猟しながら、ミステリーを支える素材を探索・研究する。それぞれのジャンルの知識を深めていけば、本格ミステリーにいたる道は必ず拓けるという。そして「驚きを演出する人工的な装置」という強い信念と確信を持っていれば、そこに迷いは生じない。絶えず四方にアンテナを張り懸命に勉強していれば、作品のクオリティは維持できると力説する。
 「スキルの部分で、リアリズム的表現の重要性、美文調の文章などが必要になるにしても、それらはですね、私が提唱してきた装置としての構造発見より上位に来ることはありません。本格の場合はですけどね。あくまでも装置発想や、その設計力、斬新でつじつまが合った美しい配線を設計し続ける能力こそが大事なのであって、文章力はそれに従うもの。そういう順番ですね。そんな風に割り切って、この文学をとらえることによって完成度の歩止まりは上ると思います」
 会場を埋めるミステリーファンにとって最大の関心事は、やはりアイディアやトリックに帰すだろう。なんと言ってもミステリーの醍醐味はトリックにあるからだ。いったい、新本格の旗手から巨匠へといたる道程で、次々に発表されるクオリティの高い作品群を支える、大仕掛けで奇想天外なアイディアやトリックをどう編み出してきたのか。常に驚くべきアイディアを探求するために思いをめぐらせ、そのストックは無尽蔵にあると思われるが、時に構想力が鈍化したり、ストックが枯渇することはないのだろうか。
 「アイディアやトリックは降ってきますよ」
 と島田は笑いながら飄々と話す。
 「言葉でいえば大層な感じですけど、大したことじゃないんですよ。毎日毎日、頭をリフレッシュして、真剣にそのことを思いつめていると、さまざまなアイディアが降ってくる時期があるんですよ。私の場合は、特に80年代にたくさん降ってきまして、たまったアイディアをメモしてあります。それでみんなを驚かしてやりたいといった気持ちが強い。物陰に隠れていて、通行人を驚かしてやりたいというような悪戯心や稚気はいつも持っていますよ。その頃の5、6年間に得られたアイディアのストックだけで、一生追いつけないかもしれない。もちろんいまも常に考えていますけど」
 「でも、アイディアによっては、すぐに使えるものとそうじゃないものがあるんでしょ?」
 と私は参加者の代表になったつもりで質問した。
 「楽に思いつくアイディアもあれば、苦労して手にする場合もあります。全部がAランクじゃなくて、それ以下のアイディアだってありますからね。ですから、時にはBランクとCランクを集めると、Aランクに届く場合もある。あるいは熟成に時間をかけたり、視点を変えたりする。大切なことはアイディアを活用して、骨のほうから、私も飽きないように、読者も飽きさせないように、作品を装置として俯瞰的にとらえることによって、世の中にないような新鮮さを設計することなんですね」
 この書き手と読者を念頭においた「飽きる&飽きさせない」という発言は、表現者にとって大切な心持ちだと私は思う。作品のクオリティを維持することはもちろんのことだが、作者によっては自分さえ飽きなければいいんだといった、得てして読者の存在をないがしろにする人もいるだろうし、またその逆もある。両者を飽きさせないようにしながら表現する、というのは意外に難しいことではないだろうか。
 ちなみに私の場合、「読者サービスに少し欠けている」と、時たま人さまから仄めかされるが、そんな時は必ず「あんたに言われなくたって、そんなことは重々わかってるんだよ」と心中で絶叫する。まあ、私の表現に関して「飽きる」という言葉を聞くたびに、私は身震いしながら己の才能の限界を感じる次第。
 自他ともに飽きさせないという言葉の重みをよく知っている島田が、常日頃自身に課している作業を知って、またまた私は己の至らなさを痛感するのである。「バレリーナは練習を一日休めば自分でわかる。二日休めば仲間にわかる。三日休めば観客にわかる」といった例を挙げてから彼は話す。
 「小説家は文章力の職人芸みたいなところがあるから、常に文章を書いていないと安定した力が維持されないでしょう。本当に文章は怖い。若い頃に文章力が上達していく時期があるけれど、でも一日休むと元に戻っちゃう。まして一週間も休めばすべて初期化される。毎日毎日何かを書いていないと、自分の定型に寄りかかった表現とか、繰り返される表現とか、そういうものに気づかないんですよ。文章が安定するまで10年はかかる。文章は直して直して、淀みのない文章になるまで追い込むことが大事なんです。でも、一生かかっても安定した境地に届かないと思うけれど」
 まるで修道僧のようにストイックに語る島田荘司は、自他ともに認めるワーカーホリックだ。「それに近いと思う。でも、楽しくなければダメですよ。我慢して書いていたら続かない。原稿を楽しく量産することが大事です」
 さすがに仕事中は鬼気迫るものを感じさせるのだろうが、透徹した語り口の島田の素顔は意想外に丁寧かつ謙虚で、まことに心根は穏やかで優しい。今回のトークセッションに参加した人たちはみなさん、そう感じたであろう。
 この30年、全力疾走しながら壮大なテーマと驚異的なアイディアとトリックを提示し続け、一瞬たりとも立ち止まらない底知れぬ過剰な才能は敬服に値する。トークセッション終了後、日頃我慢しながらいやいや執筆している私が、彼の爪の垢を求めようとしたのは自然の成り行きだろう。
 そこで思い出したのが、島田荘司が先のトークセッションでも開陳した本格ミステリー「ベテラン新人」発掘プロジェクト。彼が提唱して出販社と共同で立ちあげたものだ。60歳以上に限定された公募だが、「日本を豊かにしたシニア世代の長い経験を通じて培われた才能をミステリーの世界に引き出したい」と意欲的に語った。すでに受賞作が出版されている。
 みずからの居場所を見つけられないまま、なにかと世をはかなみすねている中高年のみなさん、特にミステリー好きならぜひチャレンジしてみたらどうだろうか。会社に勤めながら密かに新人賞に応募して落選した小説家予備軍も、奮起してリベンジのつもりで書いてみたらどうか。あるいは眠っている才能が開花するかもしないからさ。
 それはさておき。
 パリから東京に戻った10数年前、ごくささやかな企画を知人の編集者にもちこんだ。タイトルは「東京の商店街巡り」といったようなもの。世の中ちょうど散歩ブームなんて言われはじめたころで、私としては長いパリ暮らしで身体に沁みこんだ生活のリズムやテンポやバイオリズムが東京のそれと微妙に食いちがうことに、ある種の齟齬を感じているときだった。50代になって再開した東京生活のあれやこれやがなにかと心身をギスギスさせ、なかなか思い通りにフィットしなかったので、密かにリフレッシュを考えていたのである。ところが、虫がよすぎるその企画は当の編集者から「ハァ?」なんて怪訝な顔をされ、一蹴されてしまったのだ。
 どうしてそんな企画を思い立ったのか。無聊のままにネットで東京町散歩などという情報を検索していたら、シャッターストリート化する商店街が増えるなか、大小を問わず東京にはまだ2千ほど商店街があると知ったからだ。そして計算上は、有名な銀座通りや巣鴨地蔵通り、戸越銀座や吉祥寺サンロードをはじめ東京中に張りめぐらされた商店街を、仮に3日毎に3ヵ所回ったとしても、踏破するのに5年近くかかる。これは暇つぶしとリハビリとダイエットにはもってこいだ。しかも取材できれば原稿料も見込めて一石二鳥、なんて浅ましくも図々しく考えた末に、ダメ元だと思ってもちこんだ企画だったのだ。案の定、先のように編集者からバカにされボツになってしまった。
 日頃から神楽坂という町の地の利を生かして私は散歩と文化活動を欠かさない。気儘なフリー稼業だから、暇さえあれば映画や芝居、展覧会に出かけ、イベントに招待されればのこのこ出向き、私の話でありがたくも講演会を開いてくれるのであれば喜んで応える。もっとも、自他ともに認める初版作家だから、講演会などさほどあるわけじゃないけどね。
 かつて初版作家と自称していた小説家が苦節十数年、直木賞を取り、一躍売れっ子になったというストーリーは出版界で知られている。他にも人気作家になるまでに苦労したという小説家の話はよく耳にする。ユーモアミステリー小説の第一人者が目が出ない時分、編集部に何度も原稿をもちこんでも、何度懸賞小説に応募しても採用されず、ついにたまりにたまった原稿が行李からあふれていた、といったエッセイを読んだこともある。
 私の場合、彼らとはジャンルの違う作品を書いているけれど、才能も実力も違いすぎるから比べるのもおこがましい、正真正銘の初版作家です。心ひそかに期する作品もあり、なかには増刷された著作もあるにはあるが、だいたいが初版止まり。これが私の才能だと思うし、卑下しようにも実際その通りだから仕方ない。本が売れなくなったと言われる昨今、他所からなにをどう言われようとも、ともかく表面的には泰然自若でいようと思う。嬉しいのは、それでもめげずに私の本を出してくれる篤実な編集者と、その本を待ってくれている寛大な読者がいることだ。以って瞑すべし。

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*引き続き第5回の前半を掲載します。

第5回①(2013年12月1日)
 この連載で自分の本を宣伝するなんて、あまり褒められたことではないだろう。むしろはしたないことかもしれない。しかし、本が売れないと言われる昨今、新聞雑誌の書評欄で取り上げられること以外、自著が一般読者に知られる機会に乏しい私としては、こうした連載でも利用しなければ拙著の宣伝もままならぬ。
 私がパソコンで使うのはワードとメールだけで、面倒だからホームページもフェイスブックもツイッターもやらない。時々やってみたらという声を頂戴するけれど、たしかに便利なツールとは知ってはいても、他にいろいろとやることもあるし、勘弁してほしいよという気持ちが強い。まあ、いつかはブログ程度はやってみようかなと思っているが。
 いまは拙著の案内とか、その他諸々の情報を知らせるには、メールを使っていつでも気がむいたときに、アドレス帳に登録された人々に同時配信すれば十分だと思っている。という次第であり、勝手ながら先般出版された本を紹介することをご容赦いただきたい。
 拙著というのは今年5月に発売された『書斎探訪』。2008年に出版された前著『書斎の達人』の続編で、両者ともども月刊誌に連載している「男の書斎」というコーナーの記事をまとめたものだ。連載はすでに長期にわたり100回を超えている。ありがたいことに読者の興味と関心を引いているらしく、今なお続けている。
 人選は私に一任されている。従って、私の細いネットワークを駆使しながら、取材にかこつけて友人知人との旧交を温める機会にもなっている。というのも、長くパリで暮らしていた私は、時折帰国して東京に滞在していても思うように彼らに会えなかったからだ。取材を兼ねての反則技のようなものだが、個人的な願望も満たせる楽しい仕事である。
 人選にこまり、時には友人知人の人脈を借りながら進める。だが、いつもすんなり決まるわけではない。一度に数人ことわられることもあったりして、なかにはトイレなら構わないけれど書斎を見せるのはどうもね、とやんわり拒否されることもある。なぜトイレかと思うが、たしかにトイレは書斎と同様、孤独になれる聖域として共通している。
 本書に登場するのはジャンルを問わず各界で活躍する20人の表現者である。毎月、人さまの書斎を訪れるという、健全な覗き見趣味みたいな取材を行なっているが、そんな気持ちを吹き飛ばしてくれるように、彼らの人生や仕事や書斎の話に耳を傾けていると、何物にも替えがたいスリリングな時間を味わえる。訪問する前に想像していた書斎とはまったく異なり、アッと驚いたり、意表を衝かれたり、拍子抜けすることもある。そんなギャップを追いながら、表現者の書斎をめぐる歴史と思慮と趣向に思いを巡らせることは楽しい。
 書斎に入ってまず気づくのは、書棚とインテリアと佇まいに彼らの知的体験や脳内構造が反映されているらしいことである。みなさんある時期、徹底的に真摯に読書体験の熱いシャワーを浴びていることがわかる。その痕跡が、濃淡にかかわらず書斎のあちこちに刻印されている。そして折に触れポロリと洩らすエピソードや片言隻語に、心境の吐露や思想の断片がうかがえて興味深い。
 考えてみたら、けっこう贅沢な仕事をやらせてもらっているような気がする。普段は他人を招き入れたくないであろう、アンタッチャブルな聖なる場にずかずか踏みこむわけだから、緊張しないといえば嘘になるが、むしろ高揚感は否めない。書斎には創造の秘密が隠されているとつくづく思う。
 本書はおかげさまで新聞雑誌の書評欄で取り上げられ、類書がそれほど見当たらないという理由からでもあるだろうか、ある程度の評価を得た。その後、大手書店からお声がかかり、ミステリー界の巨匠と呼ばれる島田荘司と二人でトークセッションを開催する運びになった。当の書店から対談相手を相談されたとき、私は迷うことなく『書斎探訪』に所収されている彼の名前を挙げたのである。詳しいことを言うまでもなく、新本格のカリスマである島田はミステリーだけでなく日本人論や車社会論、文明論など幅広い作品を上梓している。本誌読者のなかにも愛読者はいるだろう。
 思えば、島田との付き合いはかれこれ25年ほどになる。私たちの交流は、車好きで知られる彼が、有名な長距離耐久レースである「パリ‐ダカール・ラリー」に参戦するためパリに立ち寄ったことからはじまった。以来、島田がパリに来るたびに拙宅に寄ってくつろぎ、私が日本に帰国したときには、対談したり、島田の愛車のポルシェ119やMGに同乗して深夜の都心をドライブしたりと交流が深まっていったのである。
 周知のように島田荘司は1981年、本格ミステリー『占星術殺人事件』を発表して衝撃的にデビューした。私はミステリーのよき読者ではないからあれこれ論評することはできないが、巷間言われるように、本書は日本におけるミステリー史のベストテンに入る傑作だ。ある時、彼と雑談していたら、この作品に失敗したら小説家への道を断念するつもりだった、と崖っぷちだった心境を語ってくれた。それを聞いていた私は、「へえ、そんなことがあったんだ」と能天気に相槌をうったものだ。
 島田に対する私の親近感はまったく個人的な理由からでもある。というのは、彼と私のひとり娘の誕生日が同じなのだ。おそらく同一誕生日なんてありそうで滅多にないことだから、偶然の産物とはいえ私を愉快に不思議な気分にさせた。しかも、『占星術殺人事件』を世に問うために2年ほども西洋占星術を徹底的に研究したというのだから、生年月日にまつわる運命や逸話などに詳しいはずだ。その情報によれば、二人の誕生日は昇竜のように将来の運勢は良好であると。一見強面に見えながら無類に心優しい島田は、娘に甘い父親としての私の立場を慮って持ちあげてくれたに違いない。それでもやはり嬉しいものだ。
 大手書店の会場で行われたトークセッションは、島田のファンが集まり満席になった。席上、彼はまるで天才外科医のように独自な論理を展開して参加者を魅了した。明晰な頭脳、論理的な思考、淀みない話術、神秘的な佇まいなど、その才能には端倪すべからざるものがある。
 彼によれば、彗星のように華やかにデビューしたものの、その後10年ほど既成のミステリー界から強烈なバッシングを受けた。そのバッシングたるや異常なものだったという。
 「『占星術殺人事件』は乱歩さんを連想させる作風だけに、非難轟々の嵐を巻き起こしたんですよ。問答無用の排除の対象になってしまって、四面楚歌の状態でしたね。というのも当時は、御手洗潔的な天才が活躍する作風には、みなさん大抵抗があったからです」
 「島田さんの書く乱歩的な作風が否定されたわけですね。当時はまだ清張的な私小説風の推理小説が主流だったんですか?」
 と私は訊ねた。
 「世に言われる『清張の呪縛』が支配していたわけです。私が発表する作品はことごとく、それらすべての禁を犯すものだったから、既成の推理文壇を乱歩流の通俗に戻す悪だと誤解されたんです」
 「松本清張は一部の人々のものだった推理小説を広く普及させ、その地位の向上・発展に大きく貢献した。いっぽうで島田さんの登場によって、乱歩的世界が息を吹き返してきたと思われたんですね」
 「やがて清張的な流行から、乱歩的な本格ミステリーも復権・自立していくんですけど、私の作品がちょうどそのターニング・ポイントに当たったんですね」

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*引き続き第4回の後半を掲載します。

第4回②(2013年11月20日)
 昔からフランス人の英語嫌いはよく知られている。そもそも、フランス人は一国で世界を支配している気になっているアメリカに対して、腹の中ではバカにしている。だいいち歴史も文化も薄っぺらだし、美味しい食べ物がなくファストフード如きに満足している国民に世界を支配する権利はないと。歴史的に評価に値するのはかろうじて「アメリカ独立戦争」、それから皮肉をこめて「ハリウッド映画」と「コンピューターの発明」くらい。記憶に新しいところでは、アメリカが強行しようとしたイラク戦争へのフランスの反対が挙げられる。時のドビルパン外相は名優のように国連で開戦反対の論陣を張り、フランス流のしたたかで巧みな外交戦略と平和の使徒としての自国を高らかにぶち上げたのは流石だった。まさに値千金の演説と言わざるを得ない。
 ちょっと前までは、パリに行った旅行者がフランス人に英語で道を訊ねたら、嫌な顔をされてフランス語で返事をもらったという体験も多かろう。それはなにも日本人に対してだけじゃなくて、世界中からやって来る旅行者に対しても同じ態度を取る。だから、外国人から、「フランスは素晴らしい国だけれど、フランス人がいなければもっと素晴らしい」なんて皮肉をかまされるのだ。
 ところで、彼らフランス人が英語を理解しながらも、フランス語で切り返してくるのは、決して悪意があってのことではない。それだけ母国語に誇りを持ち、その重要性をよく認識しているからだ。この世で英語とアメリカ文化だけが唯一絶対のものじゃないよ、というのがフランス人の基本的なスタンス。文化の多様性こそが人々の生活を豊かにする、という強固な信念に支えられている。
 そうはいっても、フランスでも英語によるグローバル化は生活の隅々にまで浸透しつつあるから、英語を話す機会はぐっと増えた。英語嫌いのフランス人といえども、ずっと前から学校では英語は必須科目。いまや若い人たちに英語アレルギーはまったくないし、普通に話す。道を聞いてもブティックでも、ホテルでも美術館でも英語で通じる。もちろん現地での生活ともなれば別で、日常的にフランス語を喋らなければならないけれど。
 その一方で、政府は英語の侵略に神経をとがらせてもいる。従って、英語からフランス語への翻訳を積極的&不断に進めている。アメリカ由来のコンピューター関連用語も大半はフランス語に置き換えられている。もっとも、パーキングなんて言葉はフランス語に訳されてはいるけれど、すっかり定着しているからそのまま通用する。ハンバーガーもそうだが、ただしフランス語はHを発音しないのでアンバーガーみたいな発音になる。
 ともあれ、フランス人のアメリカに対する感情を理解するには、米仏両国の過去の歴史を遡らなければならない。そこではフランス人のアメリカへのある種の屈折した心情をよみとれるからだ。いわば憧憬と嫌悪といったアンビバレントな感情を。こうしたルサンチマンがアメリカへの対抗心のバックボーンになっているのだ。
 さて、以前と比べて東京の街中に氾濫するフランス語の表記に間違いが少なくなったのは、まことに慶賀の至り。一昔前、女性誌に掲載されたフランス関連の記事、レストランのメニューなどにはフランス語の綴りや文法に間違いがごろごろあって、私なども編集者やオーナーにそれとなく注意してあげたり。そう思えば、まだまだ目障りな間違いは多々あるにしても、かなり少なくなった。この間、仕事のジャンルを問わず日仏を往復する人たちが増えて、現地でフランス語に磨きをかけた企業の広報担当者やレストランのシェフやソムリエが、フランス語の表記に気を配るようになったからだろう。
 それでも残念ながら、高級ホテルのフランス料理店のメニュー、高級パティスリーの菓子名などによく間違いを見かける。そんなときほど気分が萎える。せっかく高級を装っているのだから、徹底的にそうしてほしい。みっともないから綴りくらいは間違えないで。
 最近も気になる大きな間違いを見つけた。そう言うと、まるで私が目を皿にしてアラさがしに明け暮れるイヤミなオヤジに思われそうだが、たしかに口は悪いしイヤミなところは否定しない。
 「私って口が悪いかな?」
 と年端の行かない知人に聞いた。
 「悪いんじゃないですか」
 「死ぬまで治らない?」
 「死んでも治らないんじゃないですか」
 と彼にぴしゃりと切り捨てられた。
 たしかに口は悪いけれども、自分で言うのもなんだが、臆病でシャイな私の腹のなかはそれほど黒くないし、クレーマーでもない。むしろパリ生活でも東京生活でも、どちらかと言えば見て見ぬふりをする、面倒なことや煩わしいことはできるだけ避けたい、傷つきたくないがために保身に走る、といった気持ちが真っ先に働くタイプである。我が身を振り返ると、それが正直なところ。それでも時折、オーバーだが突沸現象とでもいおうか、大手企業の広告などにフランス語の誤植を見つけたりすると、高めに保っている不愉快の沸点を越えることがある。
 一般に年を取ると怒りの沸点が低くなり、もともと短気の人はその度合いを測りかねて、どう対処していいのか困るそうだ。もともと私は短絡的なところがあるからキレたりする。さすがに年を重ねてそうした感情をおさえるようになったが、フランスという日本とはまったく異なる価値観の社会で長く暮らし、そんな価値観で日本の社会を見る癖がついたせいか、いまでは日本に対して諦念に近い感情に捉われている。というのも、あきれ果てたりバカバカしいことが多くて、もう怒りの感情が萎えてしまうからだ。そして私のようなヘンクツ、へそ曲がりでも世の中に対する姿勢に変化が生じたらしく、腹を立てても仕方ないと問題を回避する術を心得たのである。まあ、日本という尋常ならざる、社会性の欠如した人々の間で暮らしていると、怒りの矛先はどこにでもころがっている。
 先の広告というのは、フランス語で日本語の「猫の舌」という意味の菓子で知られるメーカーのもの。菓子そのものは17世紀頃に誕生したと言われ、猫の舌の形をしていることからそう呼ばれる。ふと雑誌で広告を目にしたのだが、昔から私はその名を聞くと、なぜか反射的に身構えてしまうのだ。しかも、クラッシュゼリーに閉じ込めた5つのフルーツなんて謳った商品には明らかにフランス語の間違いが。具体的に言えば、まず単数形になっている名詞「フルーツ」を複数形に、次に男性名詞の「フルーツ」にかかる形容詞は男性複数形にしなければならない。ところが、肝心のその形容詞が女性複数形になっているのだ。しかし、フランス語の名詞は男性名詞と女性名詞に分かれていて、名詞にかかる形容詞はその名詞の性数(男女・単複)に一致するという原則がある。また基本的に形容詞は英語とは逆に名詞の後ろにおく。
 そうなると気になって仕方ないが、私の性分としては、いっそ目をつぶろうかとも思ったけれど、かつて世の中に洋菓子が少なかった時分、厄介な人間関係による苦い思い出と「猫の舌」とがイメージとして微妙にからみ合ったりもしているので、やはり「お客様係り」に電話した・・・。
 いつぞや、オープン当初話題になった池袋エチカに行った。ヨーロッパ調のインテリアに、「池袋モンパルナス」なんて文化面を強調していたから、さぞやと期待はふくらむ。でも、第一印象のしょぼさに、いったいなぜという疑問が。日本人は狭いエリアを有効利用するのが得意だろうに、ぎゅうぎゅう詰めの様子は、その限界を超えてセンスの欠片もない。そして多少なりともフランス語のわかる人間にとって最悪だったのは、やっぱりフランス語の間違い。予想通り食のゾーンはフランス語使用だ。けれども、造語と思われる形容詞を使い(意欲は買う)、それを名詞の前におき、しかも言葉をつなぐ前置詞が誤りときている。
 極めつけは、男性トイレに表示されたフランス語「HOMME」の文字。それが目にとびこんできたときの気持ちをどう表現しようか。この東京でホモセクシャル専用トイレが設置されたのか、と一瞬目を剥いたのである。なるほど快挙だな、と思いつつよくよく見たら、ボーっとしていた私は迂闊にも「HOMME」を「ホモ」と読み違えてしまっただけなのだ。単に英語で「ジェントルメン」と書けばいいようなものの気取ってフランス語で表記したというわけだ。なぜそうまでして、よく知られていないフランス語を使用するのか首をひねった。
 単に勘違いだったのだが、人は見た目が9割なんて言われる昨今、やりすぎにもほどがある。先日、池袋エチカを通りすぎたら「男性用有料トイレ」と、日本語で書かれた小さな紙が貼られていたけれど、「HOMME」の表示はそのままだった。
 どこもかしこもフランス語をむやみに使うのは、広報担当のみなさんが単にオシャレだと思っているからにすぎない。だが、個人経営であるフレンチやビストロなどのメニューの間違いはご愛嬌として笑えるが、大手メーカーの広告やパブリック・スペースはそれでは済まないだろう。フランス語を使っておけばオシャレと思う浅はかさと単細胞には敬意を表するが、まったくもって虎の威を借る狐、なんだか恥ずかしい。「神は細部に宿る」という意味深い言葉もあるのだから、もっと細心の注意をはらって誤植を出さないでほしい。
 それになにより、東京メトロは相応の金をかけて池袋エチカをオープンしたのだろうが、その前に他にやるべきことはあると思う。たとえば、どうして駅によって階段の左右通行がバラバラなんだ。なぜ統一しないのか。また蜂や蟻の大群が一斉に襲撃してくるような気がして眩暈を感じる広すぎるコンコースに、規制されることを快感に思うような国民を慮って、いっそ左右通行を厳重に仕切る頑丈なガードレールでも敷設したらどうだろうか。
 
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*引き続き第4回の前半を掲載します。

第4回①(2013年11月10日)
 今日の興隆を導いた神楽坂ルネッサンスを決定づけたのは、なんといっても2007年に放映されたテレビドラマ「拝啓、父上様」。このドラマがどんなプロセスを経て成立したか、その一端を前回に書いた。ドラマの成功によって神楽坂は東京でもっとも知られる町のひとつになったのだから、脚本を書いた倉本聰は恩人であり、彼とタッグを組んだ東京神楽坂組合理事長の澁谷信一郎は功労者。むろん忘れてはならないのは、神楽坂という町に魅力があったればこそである。
 私もほんの微力ながら手伝った。ただドラマのセリフをフランス語に変え、カタカナで発音ルビをふることくらいだったが、主役の若い二人がよどみなく喋っているのを観ていて胸を撫で下ろしたものだ。
 一般にフランス人が日本語を勉強しようとする場合、さまざまに難しい点があるのは言うをまたない。逆に日本人がフランス語にチャレンジする場合もそうで、フランス語の発音を覚えることも厄介事のひとつ。親しみのある英語の発音と異なるフランス語の発音を、それらしく真似するだけでもけっこう時間がかかる。フランス語音声法という専門分野があるくらいで、初心者が発音をいちいち気にしていたら少しも前に進めない。そのことは私も大学でフランス語などを教えているからよくわかる。だから、生徒に発音ルビをふらせることがある。こうしたやり方は専門家から見れば邪道かもしれないが、フランス語を勉強する若い人たちが将来、みなさんフランス語の先生を目指したり翻訳や通訳をしたり、フランス語で文章を書き、フランス語でビジネスをするわけではないのだから、眉間にしわを寄せ、ねじり鉢巻きで事をかまえるものではない。
 要は、肩肘張らずに楽しく気軽に勉強すればいいのである。パリ旅行したとき、フランス語が多少なり通じれば嬉しい。あるいは東京の町にあふれているフランス語の綴りの間違いにふと気づけば、ちょっぴり嬉しい気分になれる。ときには、在日フランス人と片言でお喋りできたら楽しい。その程度にフランス語がわかればいいのであって、フランス語に発音ルビをふることくらいでいちいち目くじらを立ててもアホらしい。途中で挫折してもいっこうにかまわない。その気になれば再開すればいいだけの話だ。
 一般にフランス語を含めて語学を習得するにはある時期、言葉のシャワーを浴びる必要があるだろう。そう思うと、たとえば、羨ましいのはアメリカの片田舎で生まれ育ったおじさんやおばさんたち。なにが羨ましいかって、彼らはパリでもロンドンでも、南米でもアフリカでも、おそらくどこへ行っても母国語で通すことができるからだ。たとえ平凡なおじさんおばさんでも、ただ英語を喋れるということだけで、一片のコンプレックスも持たずに世界中を旅行できるのだからね。日頃、英語に苦しんでいる日本人なら羨ましいと思うだろう。変な話だが、戦後ずっと英語を話すために努力しなければならないというハンディを背負ってきた。
 ところが実際には、英語にしてもフランス語にしても、その言葉を使って仕事をしている人はそう多くないはずだ。
 先頃対談した、元マイクロソフト社長の成毛眞によれば、仕事で英語を使う人は日本人のわずか1割程度にすぎない。ご本人は入社するまで英語を話せなかったそうだが、必要に迫られて喋るようになったという。
 「1割と言っても日本人全体から見れば約1300万人。それだけでも大変な数です。その人たちが徹底的に英語を勉強して、ちゃんとネイティブになればいいんですよ」
 「まったく世の中、英語を喋れ喋れとうるさすぎますね。まるで強迫観念のように国際人たれって思わされているみたい」
 と私は応じた。
 「日本は中学と高校の6年間に、英語の授業におよそ900時間も費やしています。それでいったいなにが残るのか。簡単な英会話すら満足にできないし、簡単な英文のビジネスメールさえ書けないような語学力。無駄の最たるものでしょう。ほとんどの日本人にとって、英語を使うのなんてせいぜい旅行するときくらい。それに今度は小学校に英語の授業を導入したというじゃないですか。なにか勘違いしてるんじゃない」
 「アメリカの属国じゃないんだから、そこまでしゃかりきになって英語を勉強する必要はないと私も思う。おっしゃるように一部の人たちがちゃんと喋れれば、それで済むこと。まして小学校に英語を導入するなんて愚の骨頂。まるで日本人はすべて、グローバリゼーションという名の亡霊に脅されているような感じがします」
 と私が言うと、成毛の話はこう佳境に入る。
 「大人になったら、今度は英会話スクールに通って時間を浪費している。そんなに英語を勉強する時間があったら、他にやることがたくさんある。日本の歴史や古典や文化をもっと勉強したほうがいいですよ。だいたい大人になっても英語をやるなんてバカ。私に言わせれば、そんな英会話スクールも必要ないし、そもそもインターナショナルスクールに通わせる必要もありません。インターナショナルを出て成功した人はいませんよ。最近、英語を社内公用語に導入した会社があるけれど、僕は愚かな選択だと思う。社員全員が英語を喋るなんて必要ありません」
 というわけで、日本における英語教育の是非に触れてそんな話をしたのだが、挑発的な成毛説は日頃、私もそう思っている口だから、真っ当で小気味いい。わが意を得たりといった快論だ。むろん、成毛は頭から英語教育を否定しているわけではない。元マイクロソフト社長というIT業界の最前線で働いてきた人物にしてみれば、英語の必要性は十二分にわかっている。そう理解している上での発言だ。彼の話のなかで重要なのは1割というバイリンガルの存在。つまり、一定のバイリンガルさえ確保しておけば、政治・経済・ビジネス・文化の各方面で世界と戦えるということだ。だから「一般人」は英語に拘泥せず、語学以外の教養を深めるべきである。
 フランス語も同様で、ちょっとかじったぐらいで現地で生活するのは無理。でも、パリ旅行するぐらいなら、冗談じゃなく、「ボンジュール」「メルシ」「パルドン」「シル・ヴ・プレ」「コンビアン(いくら)」「オ・ルヴォワール(さようなら)」といった程度の言葉を知っておけば問題ない。もしどうしても必要に迫られたら、フランス語を喋る日本人のガイドや通訳にたのめばいいだけの話だから。あとは窃盗や交通事故、詐欺師やナンパにくれぐれも注意すること。
 ついでに言えば、成毛眞は若い時分、給料の半分を本代に充てたというほどビジネス界きっての読書狂。
 「ビジネスマンなんか、歴史に残るような人物は一人もいない。紀伊国屋文左衛門とか角倉了以ぐらいなもの。それも文人として」「ビジネスマンとしての達成感とか目的とかおこがましい。そんな生意気なことを言っちゃいけません。たかがビジネスマンですよ。金儲け以外の何物でもない」「みんな自分でちゃんと考えていない。ビジネス誌の受け売りで人生を決めている。みんな同じことを言っている、何百万人も。金を稼ぐための方法論も戦略も持っていない。答えははっきりしている。一人だけ違えばいい」など、過激でユニークな発言がぽんぽんとびだす人物だ。
 なかでも痛快&爽快なのは、ビジネス書はバカらしいから読まないといった潔さだ。毎日更新される書評メルマガは一読の価値がある。
 結論を言えば、周りから強要されて語学を勉強しても意味がない。一般人がどんなに英語を喋れても、フランス語の美しい文章を読めても、教養としては褒めてあげられるが仕事の上ではたいして役に立たない。それよりも重要なことは、もっと日本の古典や文化や思想を学び、その広さと深さに触れることだ。要するに、英語やフランス語を喋れても、頭が空っぽじゃ外国人になにも伝えられないよ。

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*前回に続き第3回の後半を掲載します。

第3回②(2013年11月1日)
 さて、澁谷さんは料亭の主人であると同時に、神楽坂の花柳界の看板を背負い、その行く末を託された人物である。人気の花街だからといっても、他の花街と同じように厳しい状況に置かれていることに変わりはない。なにか対策を講じなければ、今後は衰退するのが目に見えている。黙って手をこまねいてはいられない。澁谷さんとしては決して本意ではないとしても、このご時世では花柳界という「閉ざされた世界」から、一般人の「開かれた世界」へと料亭ワールドを開放しなければ、座して死を待つばかりという認識はあるだろう。
 倉本聰と澁谷信一郎は初対面といっても先輩後輩の間柄だから、そこは意気が揚がり、あうんの呼吸ですぐさま旧知の仲同然になるといった次第。澁谷さんはこう話す。
 「居間に上がってもらって喋ったんですよ、私の先輩といっても、私らと違って倉本さんは東大に行った秀才。一杯飲みながら、気軽に4、5時間いろいろ話してね。倉本さんは全部メモしていたよ。立派な人だね」
 花柳界は私たち一般人が生きる世界とは異なるしきたりや流儀を受け継いでいる。はたから見れば風変わりな伝統を墨守しているようだが、それが強固な価値観に支えられているからこそ魅力的に見えもするのだ。一般社会から隔絶された別世界ともいえるが、それが独特な美意識に貫かれた生き方に反映されている。そういう狭い世界で生きる住人のなかでは出る杭は手厳しく打たれることにもなるのだ。一般にはなかなか理解しがたい花柳界のしきたりも、事情通の倉本聰ならまったく問題はない。だから澁谷さんは心置きなく話した。
 「倉本さんは昔から神楽坂となじみがあった人。だから、料亭とか、昔お座敷に出ていた芸者をよく知っていてね。いまは引退して喫茶店をやっている芸者とかさ。その喫茶店をドラマに出てくる人たちの集まる場所にしたり、神楽坂の坂下の交差点にあるカナルカフェも使いたいと言ってたけど」
 実際に引退した芸者が営んでいるカフェも、飯田橋駅西口に近いお堀端にある「カナルカフェ」もドラマのなかで使われた。そして黒塀に囲まれた料亭「坂下」のファサードは現実の料亭のものを、板場はセットを組んで撮影した。倉本聰が神楽坂の定宿にしている、ホン書き旅館として知られる「和可菜」も登場した。 
 ドラマの冒頭で二宮和也と黒木メイサが出会う重要なシーンは、神楽坂見番斜め前の石畳の坂道が選ばれた。わりと急なその坂道に面して二宮が修業する「坂下」が設定されているが、その「坂下」は人気店「鳥茶屋」のある場所である。出会いのシーンは、林檎の入ったかごをかかえた黒木に二宮がぶつかり、林檎が何個も坂道を転がるという印象的なものだった。それに使われた林檎が1個、倉本聰のサイン入りで「鳥茶屋」の玄関のガラスケースに展示されている。
 料亭や芸者をどう設定するか、花街の男と女の関係をどうするか、閉ざされた花柳界に生きる人々をあまり刺激しないよう澁谷さんは倉本さんに助言したという。澁谷さんはあくまでも縁の下の力持ちに徹した。
 「あるとき、ドラマの制作会社の人が来てね、こう言うわけ。ドラマが終わったら、神楽坂にワッと人が来ますよって。でも、私は最初信じなかったけどね。神楽坂が栄えるのは結構なことだけど、そんなことぐらいで来るわけねえやと思っていたから。そしたらほんとに来ちゃったの(笑)。専門家は見るところが違うなって感心したね」
 こうして2007年に放映されたドラマはヒットした。それまで沈滞ムードがただよっていた神楽坂は不死鳥のように甦ったのである。ドラマのおかげで土日のみならずウィークデーも、観光地並みに横町や路地裏まで人々でごった返すようになった。最大の功労者は、言うまでもなく倉本さんと澁谷さんは断言する。その労に報いるためにも町を挙げて倉本さんをもてなさねばならないとも。「いっそ倉本さんの銅像でも建てたら」と私が茶化すと、澁谷さんは「その通り!」と微笑んだ。
 ある日、自宅の階上にある書斎で仕事をしていた私に階下からお呼びかかった。何事かと降りてゆくと、テレビや雑誌で顔を知っている人物がテーブルについている。シャレた白い洋服を着たダンディなその人物こそ、倉本聰さんだった。どんな要件で来訪したのか皆目見当がつかない私に、倉本さんに同行したテレビプロデューサーがこう切り出した。
 「いま倉本さんが書いているドラマの舞台が神楽坂なんです。料亭で板前として働く若い男と、フランス語を勉強している男女の恋物語が中心です。彼女は神楽坂に近い日仏学院でフランス語を勉強しているといった設定。ついては、ドラマのなかで彼女が喋るセリフをいくつかフランス語にしてほしいのですが」
 むろん異存はない。そのときは誰の紹介で訪れたのか聞きもらしたが、たぶん澁谷さんのさしがねだったのだろう。先に述べたように、世の中の酸いも甘いも噛み分けた澁谷さんと私は日頃、親しくしている間柄だ。
 神楽坂の宣伝になるなら喜んで引き受けようと応諾したら、倉本さんがその場でシナリオを見せてくれた。そして日本語のセリフをフランス語に訳してほしいと頼む。二宮の恋人役となる黒木メイサは、将来はパティシエ修業のためにフランスへ渡り、いずれは菓子屋を開こうと考えている役柄だ。そのために菓子屋で修業したり、渡仏前に初歩的なフランス語を勉強している。だから、それほど難しい言い回しをするわけではない。たとえば、「こんにちは」とか「元気ですか?」とか、「コーヒーを飲みたいのですが」といったような他愛ないセリフだ。それらのセリフをフランス語に訳しながら、私は同時に発音ルビをふった。
 面白そうなストーリーだから、私が発音ルビをふったフランス語が邪魔になったら申し訳ないという気持ちがあった。いっぽう、これで神楽坂の町と澁谷さんへの借りをほんの少し返せたかな、という思いもあったのである。
 やがて番組がスタートした。神楽坂の町のそこここが映るたびに、あそこの路地、あの脇道などと謎解きするような気分で楽しく観られた。二宮和也も黒木メイサもフランス語の発音にまったく問題はなかった。私はそのフランス語を訳したかどうかすっかり忘れていたのだが、二宮が尊敬する花板の梅宮辰夫が夢のなかで、黒木メイサに私と一緒にパリに行かない? と誘われ、「もちろん。遠いの?」なんて寝言をフランス語で真剣に答えているのがなんとも可笑しかった。このときばかりは強面の梅宮に親近感を持ったものである。
 そういえば、先のインタビューで倉本さんが神楽坂の酒亭「伊勢藤」について話している。昨今の神楽坂人気にもかかわらず、昔から「伊勢藤」は知る人ぞ知る昔ながらの呑み屋。倉本さんは30年前から入りたいと焦がれていたという。
 「そこがなぜ入れないかというと(笑)、ものすごいうるさいじいさんがいる。酒は2本までしか飲ませないっていうんですよ」
 そう話してから続ける。
 「それでまわりの人と大きな声でしゃべると怒鳴られて、『出てくれ!』と言われる。怖いんだっていうんです。そういう店があるっていうのが、ぼくはすごく惹かれますね」
 たしかに客が大きな声でぺちゃくちゃ喋っていると、いまでも「お客さん、お静かに!」と注意される。東京広しといえども亭主が叱る店というのは珍しい。最近はもったいぶって客に能書きをたれたり、横柄に客を叱ったりする高級鮨屋の主人がいるが、この手の人物を私は好かない。だが、「伊勢藤」の主人の叱り方はもっと愛着がこもっているような気がする。
 私が「伊勢藤」に初めて行ったのは大学を卒業してから数年後、はるか40年ほど前のこと。当時の神楽坂はまだ花柳界の勢いが盛んだったから、どこか堅気の人間を拒むように静かに落ち着き、凛とした雰囲気が街全体にただよっていた。そのころ数少なかった、東京のレストランを紹介するガイドブックに顔を出していた神楽坂の飲食店といえば、「伊勢藤」、「うを徳」、「大和田」(閉店)、「紀の膳」、「志満金」、「たつみや」、「田原屋」(閉店)、「万平」(閉店)、「三浦屋」(閉店)、「龍公亭」くらいだろうか。
 以前から主人が怒鳴る「伊勢藤」の評判は耳にしていたから、初めてのれんをくぐるときはやけに緊張したことを憶えている。店そのものは昭和12年に創業されたが、戦災で焼け昭和23年に建てなおされたそうだ。いまにいたるも古風な戦前の昭和の風情が色濃く残り、酒好きには喜ばれる。私が行き始めたころは先々代の祖母が店を仕切っていた。(蛇足ながら、今の50歳前後の主人から見て祖母=先々代という関係)
 どんな店かというと――。神楽坂のシンボルである毘沙門天の目の前の横丁に入り、右手にある店の縄のれんをくぐると、地面がむきだしになった床にまず驚かされる。先々代が囲炉裏のある黒光りする床の座敷で背筋をピンとのばし、黙々と燗をする姿は客を支配するような威厳を感じさせた。その燗酒をコの字型に坐った客に、大きな杓子の端にのせて厳かにさしだすのである。客はみなさん、日本酒をありがたく押しいただくといった儀式のような気配につつまれていた。先々代は、客がちょっとでも大きな声で喋ろうものなら、上目遣いに小声で「お客さん、お静かに!」。それを聞いたとたん一座はしんと静まり返る。ところがややあって、聞き分けのない客が再び駄弁をはじめる。するとまた、おばあさんの出番がやって来る。そんな繰り返しを眺めながら飲む酒も一興だった。
 ある年を境におばあさんの姿がふと消えたと思ったら、先々代の息子が同じ場所に座っていた。母親からの習慣を踏襲し、大声で喋る客に容赦なく愛の鞭がとぶ。先々代同様、厳粛に叱責する姿は神々しい。それから幾星霜、いつのまにか三代目の息子が同じ場所を占めている。そしてゆっくり燗をつけ、徳利をコの字型に坐った客に長い杓子で渡すという儀式は変わらない。先々代と先代に比べるとお叱りの言葉はやや穏やかになったものの、その威厳はそのままだ。私はたまにしか行かないが、親子三代にわたる決然たるしきたりは見事に頼もしく、むしろ美しいとさえ思えるから不思議だ。
 料理のほうはどうか。
 燗酒を注文すると出てくるのが四品一汁。皿数は少ないが、他に経木に書かれたメニューから料理を選べる。値段はリーズナブルで、ビールも焼酎も置かず、酒は燗酒だけ。世の中せせら笑っちゃうような、まがいものだらけの昨今、東京では珍しい絶滅寸前の文化財級の酒亭である。
 倉本さん、早くお訪ねください。ただし冷暖房なし。団扇はあります。

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*前回に続き第3回の前半を掲載します。

第3回①(2013年10月20日) 
 前章を書いていたら久しぶりにどじょう鍋を食べたくなり、では深川高橋の「伊せ喜」にでも行こうかと重い腰をあげた。夏はどじょうの旨い季節だ。
 大江戸線に乗って清澄白河駅で下車し、小名木川にかかる高橋をわたると「伊せ喜」が視界に入ってくる。あたりは見なれた風景だ。ところが店に近づくにつれて、なにが起こっているのかわからず、思わず絶句。すでに建物は解体寸前になっていたのだ。悄然となり、どうしようかと迷っているうちに(書き文字薄いがこれでOK?)、咄嗟に携帯電話に手をかけていた。電話しようと思う相手は、店の黒塀に貼りだされているプレートに記された設計者である。そこには用途として「共同住宅・店舗」の文字が。
 電話に出た担当者によれば、現在の所有者が閉店を決めたそうだ。工事期間は約1年で、竣工は来年9月の予定。むろん閉店するかどうか関係者で何度も話し合いがもたれ、深く悩みながら決断を下したのだと思うから、私たち部外者がとやかく口をはさむ筋合いのものではない。そう思いながらも、私の脳裏で肝心の「伊せ喜」はビルのなかで再開するのかもという期待がちらとよぎる。
 「それはないと思いますよ」
 担当者は無慈悲に言い放つ。
 「じゃあ、どこか他の場所で開くわけ?」
 私は勢い込んでそう訊ねかえした。
 「それもないと思いますよ」
 今度も担当者の抑揚のない声がひびいた。
 一縷の望みがたたれた私は電話を切った。そうなんだ、こんな風にあっけなく、創業120年の歴史を持つ「伊せ喜」という名のどじょう屋は、ひっそりと消えていくのか。あとは一部の人々の記憶のなかにしか残らず、ゆっくり存在しないことになっていくわけだ。なんともやるせない。
 「失われた20年」を超える長引く不況下、家族経営が苦しいことは誰もが知っている。全国各地で家族経営の店が軒を連ねる商店街がシャッターストリートになっている。そんな状況にもかかわらず、花も嵐もふみこえてきた長い歴史の老舗がついに閉店するのを眼前にすれば、どうにも釈然としない気持ちになるのは私だけじゃないだろう。なにしろ1世紀以上も経ているのだ。
 思い起こせば1世紀前に生まれた著名人は、1910年生まれの黒澤明(映画監督)、山村聰(俳優)、安藤百福(日清食品創業者)、白洲正子(随筆家)、外国人にマザー・テレサ(修道女)、エドウィン・ライシャワー(歴史研究家)、ジャック・イヴ・クストー(海洋学者)、さらに翌11年生まれは岡本太郎(画家)、石津謙介(VAN創業者)、メイ牛山(美容家)、花森安治(編集者)など。彼らはすでに鬼籍の人だ。11年生まれで、現役で活躍するのは日野原重明(医師)くらい。「伊せ喜」は長い道のりを彼らとともに歩んできたということになる。
 私はちょっと気落ちして、憮然としつつ暗くなりかけた道を歩いて萬年橋にむかった。「萬」という懐かしい旧字体をその名に残したアーチ型の橋に、白いイルミネーションが輝いていた。しばらく橋上から隅田川に架かった、同じようにイルミネーションに彩られた美しい清洲橋を眺めた。やがて、明るく灯る提燈を飾った屋形船が清洲橋のほうへ舵を切った。隅田川の両岸は高層ビルでうずまり、川面は漆黒のなかで静かに揺れていた。
閑話休題。
 テレビドラマの名作「北の国から」を書いた倉本聰が、深川を舞台にドラマ「前略おふくろ様」の続編「拝啓、父上様」の脚本に取り組んだのには、亡き母親への思慕があったことは前回書いた。
 物語は主人公の二宮和也が板前修業する料亭と、彼が恋心を抱く黒木メイサの二人の恋愛事情を軸に、この二人をとりまく大人の人間模様がさまざまに描かれる。練達の倉本聰の手になる作品は安心して観られる。黒木は謎の少女として登場し、なぜか月水金の3日間はフランス語しか喋らないと決めている。
 「僕は東京を捨てちゃっている人間なんだけど、数年前、神楽坂に定宿ができまして。最近、腰を痛めちゃって、神楽坂の町は坂が多いので、ステッキをついて歩くようになったんですよ。ゆっくり歩いていたら、今まで目に見えなかった神楽坂が飛び込んできたんです」(『拝啓、父上様 オフィシャルガイドブック』)
 同書のなかでインタビューに答えて、倉本は神楽坂再発見のいきさつをこう話す。もともと倉本と神楽坂とのつながりは、彼が誕生するよりかなり以前からだという。神楽坂へ行くにはJRの場合、飯田橋駅で下車し、西口の改札口を出て右手に行く。また改札を出て反対方向は千代田区にある靖国神社へといたる道だ。靖国神社の周辺に昔から富士見町と呼ばれる町がある。
 「僕の実家は昭和の初年、その富士見町にあったらしい。兄の言によれば当時の富士見町の家から馬車で出て行く祖父の写真が遺っていたという。僕の生れる前の世界である」(倉本聰『拝啓、父上様』)
 倉本が神楽坂に馴染みはじめるのは、30数年前フジテレビがまだ神楽坂に近い新宿区河田町にあったころである。仕事が終わり、帰途神楽坂に寄って遊ぶことがよくあったという。あるとき豪快な勝新太郎と一夜遊んだら、勝が神楽坂育ちだということが判明して驚いた。「一緒に疎開していたという老妓たちを、あいつも呼べこいつも呼べ。目の玉のとび出るような勘定書が来て蒼くなったという記憶もある」(同前)と回想する。そのころからいずれ「拝啓、父上様」をドラマにしたいという構想が浮かんでいたのだろう。そして爾来、神楽坂に定宿を得て着想が膨らんでいったのである。先のインタビューにこう答えている。
 「神楽坂っていう町は、本当に和と洋が混在している町で、古いものと新しいものの両方が仲よく同居している。例えば今、東京の町で失われちゃった古い八百屋さんとか、銭湯とか、そういったものが依然としてある。かと思えば、古い料亭がどんどん潰れていって、そこに新しいビルが建つ。そういう風に世代が交代していくんですね。何というか町は人生そのものなんですよ。それが神楽坂に凝縮されているなという感じがあって。
 古いものを大事にするというきちんとしたしきたりも、花街ですから残っている。その両方のコンビネーションの魅力というのがあって、そこを舞台にして書きたいなという思いがありました」
 神楽坂は東京のなかでフランス人がもっとも好む町である。いまや神楽坂好きなフランス人が数百人は住んでいるだろう。
 倉本は神楽坂の魅力を熟知している。
 「おしゃれですよね、若者にとっても。だからぼく、『前略おふくろ様』のときはロックがバックだったんですけれども、今度はシャンソンにしてくれって、森山良子ちゃんに頼んだんです。シャンソンの似合う町ですね。フランス料理屋も多いし、そばに日仏学院があるから、外人が結構住んでいるんですよ」(『拝啓、父上様 オフィシャルガイドブック』)
 この30数年、神楽坂とて東京の町が急速に均一化していく趨勢のなかで、それに抗えないものがある。花柳界の衰退とともに伝統の芸者文化を支えてきた職人の姿が次第に消えていく。倉本の目にそういう状況はどう映っているのだろうか。
 「それでも30年前には足袋屋があったんですよ。芸者さん達っていうのは足袋を誂えてつくるんですね。こはぜが普通四つだけど、踊りをする人なんかは五枚こはぜで、上まできてしわが寄らないように、自分の足に誂えてつくるわけですよ。そういう職人さんが神楽坂にもいたんだけど、今はもういなくなったって言いますね。日本は、需要がなくなると職人さんが減っていくんですよ。ぼくは職人さんとか、そういう世界、好きだから、それがなくなるっていうのは、ものすごく寂しいことですね」(同前)
 だから、「拝啓、父上様」に描かれた人情話のなかに、滅びゆく芸者文化へのノスタルジーやオマージュが感じられるのである。しかも変わりつつある神楽坂を象徴するようなエピソードが、ドラマのなかで随所にはさまれている。板前修業中の主人公の二宮和也が働く料亭「坂下」の売却話など、花柳界に対する倉本聰の哀切な視線を感じる。
 「拝啓、父上様」を執筆する上で大きな支えとなったのが、東京神楽坂組合理事長の澁谷信一郎である。倉本が澁谷を訪れたのは、「拝啓、父上様」の脚本を構想している段階だった。神楽坂を舞台にした脚本の大筋はできつつあったものの、細部を肉づけしなければならず、いろいろ教えを乞おうと澁谷を訪ねたのである。
 倉本と澁谷は初対面。だが澁谷は事前に友人のフジテレビ幹部から、倉本が訪ねるから協力してほしいといった伝言を受けていた。おまけに澁谷にとって倉本は東京の麻布中高の先輩だから、あだやおろそかにできない。もちろん、神楽坂が舞台として選ばれたのだから一肌も二肌も脱ぐつもり。倉本にしてみれば神楽坂花柳界の主のような存在の協力を得られなければ、花街を軸に据えたドラマの成功はおぼつかない。そういう強い思いがあったからこそ、澁谷の助言を求めたのである。
 澁谷信一郎が経営する料亭「千月」を訪れた倉本聰は、澁谷がみずから包丁をふるう板場の隣にある茶の間に通された。板場は「拝啓、父上様」の舞台となった料亭「坂下」に比べれば小ぶりだが、掃除が隅々までゆきとどき、清潔感にあふれている。私も野暮用があったり茶飲み話をするときなど「千月」を訪ねるが、いつも茶の間に通される。そのたびに垣間見る板場がこざっぱり整理整頓されていることに感心する。
 小ぶりな板場と対照的に澁谷さんは豪放な人であり、おまけに和洋中何でもござれの相当なグルメ。特にフランス料理には目がない。あるとき神楽坂の路上で立ち話をしていたら、澁谷さんが私にこう切り出した。
 「来週、店を休んでスペインに行くのよ」
 「どうしてまたスペインに?」
 「知ってるでしょう、『エルブジ』?」
 「もちろん。でも、スペインまでわざわざ?」
 「今一番話題になってる店だよね。だから食べに行きたいの。オードブルからデザートまで20くらい出てくるとか」
「そう聞くだけで腹がいっぱいになりそう。あそこにはラボラトリーがあって、シェフが毎日新しい料理をつくり出すために、いろいろ実験しているわけ。先端テクノロジーを使ってね」
 「だから、奇想天外な料理も出てくるわけだ。あっと驚かされるようなエンターテインメントも抜群だとか」
 「世界でもっとも予約の取れない店と言われているけど、よく取れたね?」
 「なにしろ45席しかなくて、予約希望者が年間、数百万人いるとも。まあ、私の国際的なコネクションをフル活用したのよ」
 澁谷さんは豪快に笑いとばす。
 「でも、バルセロナに行ってからが大変だよ。片田舎にあるから、レンタカーかタクシーをチャーターしなくちゃね」
 「バルセロナから150キロくらい離れているらしい」
 澁谷さんは一息つくと続けた。
 「日本の素材も実験的にけっこう使ってるんだって? 海苔とか湯葉とか山葵とかもそうじゃない? どんな料理が出てくるか楽しみだよ」
 それを受けて私はちょっと説明した。
 「澁谷さんはフランス料理通だから、1970、80年代に流行ったヌーヴェル・キュイジーヌって知ってるよね。そのころのフランスの二つ星や三つ星には、調理場に隠し味として使う醤油と味醂と日本酒を置いていたわけ。それを称して三種の神器と言ってね。それがいまじゃクール・ジャパンの影響で、味噌とか昆布とか豆腐なんかも。もっとも、そんなのを置いているのは保守的な店じゃなくて、シェフが前向きな考え方の持ち主で、星つきの店に限られるけど。意欲的なシェフになると、日本に来て茶の湯や華道、包丁砥ぎまで経験する連中もいてさ。日本の包丁はフランスと違って、一本一本が特別に作られているから面白いって」
 「そうなんだってね。ヌーヴェル・キュイジーヌってのに、日本料理がけっこう影響を与えたのは知っていたけどさ」
 その新フランス料理と呼ばれるヌーヴェル・キュイジーヌについてはいずれ書くこともあろう。
遠路はるばる澁谷さんが食べに行く、スペインの僻地にあるレストラン「エルブジ」は、フランス料理の王道であるフランスから見れば、隣国とはいえ料理に関して言えば辺境の地である。ところが、スペイン料理をベースにしたこのレストランが、それこそある日を境に世界のグルメに知れわたることになるのだ。発端になったのはある人物の発言で、料理好きな人なら東京にも店を持っているからご存知だろうが、フランス料理の皇帝と称えられ、泣く子も黙るフランス人のジョエル・ロブション。彼が「エルブジ」を「21世紀最高の料理」と称賛したことから一躍脚光を浴びた。まさに「辺境に名店あり」を実証したのである。
 なお、その背後には外交戦略に長けたフランス人料理人による、したたかな仕掛けが施されており、さらには19世紀以降、アヴァンギャルドとしての美食文化を発展させ世界的に認知させる上で、フランスの料理人がいかに活躍したかという話は後述しよう。
 このミシュランの三つ星「エルブジ」は先程の会話に出てきたように、「ラボラトリー」と称するアトリエを持っていて、日夜新しい料理を化学的に次から次へと創造していることで知られていた。ベースになるのは故郷のスペイン料理だが、その変幻自在なバリエーションは驚嘆という言葉がふさわしい。レストランのテーブルに坐ると、次々に実験的な料理が出される。まず約20皿という皿数に度肝を抜かれ、しかも一風変わった料理ばかりだから驚かされる。
 それにしても、いくら世界的に話題になっているからといっても、本当に「エルブジ」行きを決行するなんて、澁谷さんの根性は見上げたものだ。私より年配であるのにもかかわらず、常に変わらず食べ物への好奇心を失わない、バイタリティあふれる行動力は羨ましいやら恐れ入るやら、じつに頼りになる御仁である。私がパリから「エルブジ」を訪れたのは、世界的に知られるよりもずっと以前のことだ。皿数も普通のレストランと変わらなかったし、それほど衝撃を受けた覚えはないけれど。 
 ところがここ10数年、さまざまに話題を提供した「エルブジ」は昨年7月、閉店してしまったのである。どうやらスペイン生まれのカリスマシェフのフェラン・アドリアが、何年にもわたり創造的な料理に挑んできて疲労困憊だったのが理由だという。真相は藪の中だが、いずれにしてもしばらく充電期間を持ちたいと閉店を決断した。一時、再開するかどうか話題になったが、完全撤退するそうだ。その代わり2014年に新たに料理研究所を現地に新設することが発表された。閉店を告げるアドリアの言葉に、「われわれはモンスターを生み出してしまった。それを手なずける方策を考えねばならない時期にきたのだ」とあるが、この弁は正直な気持ちだろう。世界の料理史にその名を刻むことだけはたしかだ。
 閑話休題――。 

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*前回に続き第2回の後半を掲載します。

第2回②(2013年10月10日)
 江戸幕府公認の吉原芸者に対して人気があったのが、非公認の岡場所だった深川門前仲町を中心にした深川芸者で、下町の粋な気っ風と当時は男装だった羽織を着て座敷に出たことで知られている。深川芸者は別名「辰巳芸者」と呼ばれたが、その由来は深川が江戸の辰巳(東南)の方角にあったことからである。
 深川芸者がこの世から姿を消してから早いもので10数年になる。1990年代に入り、東京の花柳界はどこもかしこも加速度的に衰退してゆき、深川芸者とてむろん例外ではなかった。長い歴史を持つ深川花柳界は時代の流れに翻弄され追いつけず、次第に消えていったのである。
 前回書いたように私の生家が「水商売」だったこともあり、父親は社会見学という名目で大人になった私を深川の料亭に連れて行ってくれた。
 思えば昭和3、40年代の親子関係にはただならぬ気配がただよっていた。両者の確執や対立は当たり前のことだったから、私たち親子も寄ると触ると議論という名の親子喧嘩にあけくれていた。衝突のネタはなんでもよかった。政治や経済、教育や文化など社会的なものから日常生活の態度にまでおよび、ネタに事欠くことはない。互いに目の上のたんこぶのような存在だったから、目障りで仕方なかったのだ。
 当時、こんな光景はわが家だけの特別なものではなく、その後団塊世代と呼ばれる娘や息子がいる家庭ならば、どこでも同じような衝突をくりかえしていた。世代間対立はすべし、そして親子の対立を乗り越えるべしなんて、いま思えば笑っちゃうような「スローガン」が生きていたわけだ。折しも世界中でスチューデント・パワーがふきあれていて、フランスでは68年五月革命によって世情は騒然としており、「想像力が権力を奪う」というスローガンが大学の壁に殴り書きされていた。お隣の中国では紅衛兵による「造反有理」が叫ばれていた。日本では全共闘運動が燃えさかり、家庭では権力と権威の象徴だった父親が否定され、親子の対立が激化していたのである。
 しかしわが家では、所詮「血は水よりも濃し」といった格言が幅を利かせていた、下町という粘着質な独特の風土でともに生きてきた親子の共生感は、そうやすやすとは消せない。だから、ときには世代間闘争という仮構された対立ドラマを小休止して、一緒に酒を酌みかわすこともある。おそらく山の手のシビアな親子関係と違い、下町の親子関係は相当に下卑ていて現金なもので、何事もゆるく適当に妥協するのが常だったのである。
 常習となった親子喧嘩も、ときに一服という感じでわが家では、「じゃ、門仲(門前仲町の略)でも行くか」となるわけだ。そして向かった料亭の座敷に座り、目の前に芸者の姿が現れようものなら、お互い相好を崩し、いましがたまで親子で猛烈に口喧嘩していたことが嘘のように、三味線と鼓にあわせて舞う芸者を見ながら手を打っている。座敷に上がった深川芸者は羽織芸者と呼ばれていたから、単なる伝統的な形でしかないけれど、もちろん羽織を着用。
 ところが座興が終わり、「門仲」から帰宅すればリターンマッチが待っている。ということは、下町の親子関係は了解事項を含んだ共犯関係に近く、持ちつ持たれつの関係を壊さない範囲で、日々のモチベーションを上げるための出来レースだったのだろう。とことんぎりぎりまで相手を追い込まない、というあざとくも卑しい暗黙の世間知が刷り込まれていたに違いない。同じ血を分けあっていても、世の中には宿命的に相容れない関係もあるだろうが、そのようなソリのあわない苛烈な親子とは異なり、下町ではどんなに激しく仲たがいしていようとも、親子なのだからいずれは分かりあえるという甘い幻想を共有していたように思う。いやはや、思いおこせば赤面の至りだ。
 パリから帰国して数年後、神楽坂在住の私に雑誌から依頼があった。その企画というのは、パリで生まれ育ったひとり娘を連れて深川めぐりをするというもの。よもやこんな形で深川を訪れることになるとは思いもよらなかったけれど。
 娘は高校までパリで暮らし、卒業後は帰国して東京の大学に入学した。私自身はパリで生活しながら、年に何度か仕事の関係とやらで帰国していたが、娘のほうは毎年、夏の長いバカンスや、短い冬休みを使って帰国をしていた。日本に帰れば、ときには娘と深川にある私の実家を訪れたりもしたが、彼女を連れて深川を散策する機会はなかった。いずれ下町案内でも買って出ようかな、という気持ちがあるにはあったが、それが思いがけず実現したのである。
 彼女と深川とのつながりのなかで記憶に残っているのは、娘の七五三詣を富岡八幡宮で祝ったこと、桜鍋「みの家」やどぜう鍋「伊せ喜」に連れて行ったことなど。その「みの家」と「伊せ喜」は深川では数少ない正統派の「日本料理店」である。
 この20数年、いずこも同じだが深川の町も変わった。90年代初めに起こったバブル崩壊の影響をこうむりながらも、かろうじて街並みは保たれているが、深川の花柳界の料亭と辰巳芸者は消滅した。東京下町と聞いても、昔のイメージが浮かばない世代が増え、下町深川という言葉も博物館行きのように空しくひびく。近年は江戸開府400年で注目されたが、あたり一帯に背の高いビルが建ち、また深川江戸資料館や、材木問屋が移転した木場の跡地に東京都現代美術館がオープンするなど風景の変化は進んでいる。
 普段は忙しさにかまけて忘れているが、私の気持ちのどこかにいつも「故郷」はデンと座っている。時折、気分が萎えたときなど深川まで足を延ばす。深川という土地の空気が気持ちを落ち着けてくれるからだ。
 パリから東京に戻り、自宅を神楽坂に定めたのは、私のなかで深川と神楽坂とがへその緒でつながっているような気がしたからだ。神楽坂以外の候補地に原宿あたりを狙っていたが、やはり神楽坂を選んだことは正解だった。
 昭和30年代の深川は都電が走り、地下鉄東西線が開通する前は「陸の孤島」と呼ばれていた。そのころ、時折数人の仲間と連れ立って、門前仲町近辺に歩いて「遠征」したものだった。粋な着物姿で白粉のかぐわしく匂う辰巳芸者が、夕暮れになると三味線や鼓の音がひびく路地裏をそぞろ歩いている時代である。わざわざ東西線で一駅離れた富岡八幡宮や深川不動堂あたりへ遠征するのは、現地の小学校の生徒に喧嘩を吹っかけるためだった。放課後、あたりの境内や公園で遊んでいる現地の子どもたちにからむのである。
 子どもの喧嘩というのは道理もなく、ただ感情の赴くままの残酷で単純なものだから、要は敵と味方の区別しかない。思うままに口汚くののしったり小石を投げつけるくらいで、「敵の敵は味方」ということにまでは思いいたらない。昔から喧嘩道にはいろいろ格言があるらしく、よく知られているのが、「喧嘩は、片方にしか非がなければ、長くは続かないだろう」(ラ・ロシュフコー『箴言集』)というもの。まあ、私の場合は他愛ないガキの喧嘩ながらも、他地域に出向き、私なりにいちおう社会的コミュニケーションを実践しようとしていたのではないか。
 喧嘩の勝敗はともあれ、帰りはきまって富岡八幡宮や深川不動堂の境内とその周辺をぶらつき、ぶつくさ文句を言いながら地元に引き上げてきた。富岡八幡宮は江戸勧進相撲の発祥地として知られていて、相撲関連の碑が建てられている。そのうちの巨人力士手形足形碑は子どもにとっては珍しいものだから、われわれ喧嘩仲間は競って大きな手や足と比べて騒いでいた。そういえば、先に述べた取材で娘とたちよった、富岡八幡宮のそばにかかる日本最古の鉄製の橋、八幡橋(旧弾正橋)は当時はうらぶれた橋だったような気がする。あの橋の上で喧嘩に負けたときなどは、はらいせに欄干にケリでも入れたのではなかろうか。
 先の取材で明治時代に創業された、森下町にある桜鍋の「みの家」を数年ぶりに訪れた。まだ東西線も新宿線も大江戸線も走っていない昔から、下町庶民がご馳走を食べるときの定番のひとつが「みの家」。和洋中からエスニックまで、なんでも自由に選択できる時代ではなかったし、そもそも隅田川をわたり山の手へ食事に行くというのは、ハレの日でもなければ実現しない一大イベントだった。「みの家」で食べることは、下町深川の人々にとってハレとケの入り混じった、わくわくする時間だったのである。
 私も子どもの時分から連れて行ってもらった。先述したように家業による「社会見学」の一環で、父親に連れられて家族でよく食べた。日本がようやく高度経済成長に向かう昭和2、30年代の、まだ豊かとは言いがたいころで、繁華街で軒を並べる和洋中の飲食店のなかから自由に選べたわけではなく、グルメ(食通)やグルマン(大食漢)なんて言葉もまだない。そんな時代だから旨い店は少なかった。隅田川を越えて日本橋や銀座あたりに食べに行くことは、よほどのことがない限りない。ちょっと贅沢な食事会とか親戚が集まる宴会とか、深川ではまにあわないときに出かけるハレの日の食事だ。まして新宿や渋谷は下町の人々にとっては郊外の感覚。オシャレな町に変貌する前の青山や麻布はまず話題に上らない。そんな郊外感覚は、唐突な譬えに聞こえるかもしれないが、明治の東京人にとって国木田独歩が描いた『武蔵野』が郊外だった感じに近いかもしれない。
 さて、娘との深川めぐりの際に訪れた、昭和29年に建てられた「みの家」は佇まいも風情もなにもかも昔と変わらない。のれんもたたきも下足棚も厨房も、追い込み式で座卓が両側に沿ってずらりと並んだ、ギシギシ音をたてる籐敷きの座敷も高い天井も、廊下の奥の手洗いも2階に通じる階段もそのままだ。入口のたたきで客のぬいだ靴を下足棚にあずかってくれる、たのもしい下足番のおじさんも、人は替わっても健在だ。
 40数年の歳月を経ても、当たり前のように変化していない。「家の年輪」に触れて、ふわっと身体が包まれるような心地よさを感じた。伝統の根っ子にあるものを簡単に捨て去り、変化することを至上命題として世の中が動いてきた東京で、こんな空間が残されていることは驚くばかり。店の名物は桜鍋の看板通り馬肉一筋。3週間以上寝かせて熟成した生肉は、意外と柔らかくて食べやすい。「この十数年、馬肉が健康と美容にいいと知られてきたので、若い女性客が増えている」と5代目オーナーは顔をほころばせていた。
 座敷に上がった娘は体に流れる深川の血が騒ぐのか、また私の実家の佇まいに似ていることもあるのか、おもしろがって盛んに店内を見まわしている。パリ育ちの娘にこうした空間と雰囲気とがどう映るのか興味深いが、パリは町全体が博物館のようなものだから、たぶんすんなり受け入れたのかもしれない。「破壊と創造」という命題に対して、伝統を守らなければ新たなる創造は生まれないと考えるフランス人。それに逆行する近代の日本人の考え方との違いに思いがおよぶ。21世紀に入っても、日本人の考えに変化が生じていないようだから、文化破壊と伝統破壊に血道を上げてきたツケは大きいだろう。いったん壊した文化を再生させることはほぼ不可能である。日本人はずいぶんもったいないことをしてきたものだ。
 「みの家」を出た私たちは、今度は森下町から門前仲町に移動した。表通りの商店街はあいかわらず人出が多く、各地の商店街の衰退を聞いているから、町の活性化がうまく進んでいるようだ。大通りから一歩裏手にまわると、街並みのなかに消えてしまった花柳界の名残がかすかに感じられる。裏通りにあるエスニック料理店や甘味店や居酒屋に入った。みんな地元の人気店だから賑わっている。親の代の染物屋から居酒屋に変えてしまった店の天井の造作は、往時の染物屋を忍ばせる。
 門前仲町の居酒屋といえば、おじさんたちに絶大なる支持を得ている「魚三酒場」。いまどき「酒場」なんて名前をつけている店はそう多くない。永代通りに面し、16時の開店と同時に行列ができる4階建ての人気店だ。酒飲みにあまり知られていなかったころから、「安くて早くて旨い」と評判だった。近場に住んでいたから私も何度もお世話になった。昔は深川にもこの手の店が随所にあったが、長引く不景気の折柄、次々に閉店していく。「魚三酒場」は下町深川の誇りだ。
 いまにいたるも深川には意外に老舗や世に知られた繁盛店は少ない。私の独断で人気店をいくつか挙げれば、「魚三酒場」、どぜう鍋「伊せ喜」、「みの家」と「山利喜」くらいか。
 「みの家」に近い「山利喜」は居酒屋のジャンルに入るがチェーン店風ではなく、開店と同時に満席になるという有名店。創業80余年の老舗で、東京の居酒屋ランクの常連だ。三代目店主になってから料理がバラエティに富むようになり、客の大半は必ず名物の「煮込み」を注文する。店主はフランス料理への道に進もうとしたが三代目を継いだという。名物「煮込み」は一般の居酒屋のものとは明らかに味が違う。フランス料理を習得したシェフの技が加味され、「煮込み」の独特の味わいは赤ワインを入れているからだろう。
 「伊せ喜」のある深川高橋は、門前仲町と森下町とを結ぶ清澄通りが小名木川と交わるところにあり、最寄りの地下鉄は白河清澄駅。私も昭和30年代に家族でよく通った店だ。創業100年を越え、料亭風の門構えの内側は昭和レトロの雰囲気が濃厚にただよっている。お勧めは葱の小口切りを山ほどのせたどじょうの丸鍋。柔らかく煮込んだどじょうを噛むと小骨がちらちら歯に当たり、どじょうを食べる気分を存分に味わえる。
 界隈には小さくて地味な盛り場があり、「伊せ喜」から5分ほど歩くと、葛飾北斎「冨獄三十六景」や歌川広重「名所江戸百景」に描かれた萬年橋につきあたる。萬年橋の下を流れる小名木川はこのあたりで隅田川に合流する。その昔、多くの材木問屋が集まっていた木場が他所に移転する前、棹一本で器用に筏をあやつる川波の姿が小名木川でよく見られた。いまでは稀少になってしまったどじょうは高級料理に格上げされたが、かつてはそんなことはなく、川並がよく食べる安価な食べ物だったという。
 「みの家」にしても「伊せ喜」にしても老舗と呼ばれるに足る価値がある。最近は町の変貌が激しいから、30年程度営業していれば老舗と呼ばれるらしい。横町の豆腐屋が老舗と呼ばれるなんてほんまかいなと思う。だいいち「みの家」や「伊せ喜」に失礼だろう。喜んでいいのか悲しんでいいのか。ある種の悲哀を覚えるのは私だけではないだろう。
 
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*前回に引き続き「小説推理」に連載中の「東京とパリ『日仏』閑話休題」の第2回の前半を掲載します。今月から月3回ブログを更新する予定です。

第2回①(2013年10月1日)
 ここ数年、東京の町のなかでも神楽坂の人気がとみに高まっている。気取った山の手と気さくな下町とがほどよくまじりあい、奥には情緒たっぷりの花柳界がひかえている。粋と新しさと伝統が調和した雰囲気が、連日この町におおぜいの人々を引き寄せるのだ。
 町のメインストリートである神楽坂と、並行する軽子坂を中心に、外堀通りと大久保通りにはさまれた、ヒューマンな狭い範囲のなかに各国のさまざまな文化が混在している。何代も続く老舗、明るい表通りとほの暗い横町。芸者とフランス人、老人と学生、料亭とフレンチとイタリアンと各国料理、ビストロとクレープとファストフード、バーとバールとライブハウス、ギャラリーと落語会と名画座とカラオケ、法政大学と東京理科大学と日仏学院。さまざまな異文化と共存しつつ、戦後の東京が失った要素がこれほど狭いエリアに残っている町は、神楽坂をおいて他にないだろう。
 たとえば、東京からは姿を消しつつある艶やかな芸者衆が支える、この町の料亭文化をひとつとっても、花柳界が存在し、しかも芸者と学生という対極にある人間が交差する町は神楽坂以外にない。閉ざされた花街界と開かれた大学とが調和を図っている。夕暮れともなると、お座敷に向かう華やかな着物姿の芸者と、ファストファッションの学生がすれ違うコントラストが、町の風情にすんなりとけこんでいる。東京の町がえげつなく崩され、見る影もなくなってしまった昨今、成熟したトラディションの象徴である芸者と、明るいモダンな学生とが共存する光景は東京の貴重な文化遺産だろう。
 神楽坂の町は明治以降、多くの文人墨客の足跡を残し、彼らの作品に書きとめられている。坪内逍遙、夏目漱石、森鷗外、尾崎紅葉、泉鏡花、永井荷風、田山花袋らの文豪が神楽坂を書いている。他にも多くの文化人が活躍する舞台として、この町は磨かれてきたのである。
 神楽坂の魅力はパリの魅力に似ているとよく言われる。じつはフランス人にもっとも読まれている日本の文学作品は、意外にも谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』。フランスでもっとも権威のあるプレイアッド叢書に、日本人作家の代表として収録されているのが谷崎潤一郎である。日本文化から失われてしまった淡い陰と深い闇の美しさを、彼らフランス人が彼の作品に感じ取っている。薄明かりや暗闇のなかに美を見出す日本人の感性に、自分たちにはない神秘的で異国的なものを見ているのである。
 ここ10数年、フランス人が神楽坂に住むようになったのは、石畳の残る裏道にほのかに光がさす景色に日本的美意識を発見しているからだろう。ともすれば、外国人から指摘されるまで、その魅力に気づかない私たち日本人だが、こんな素晴らしい町が東京に存在していることに、もっと自覚的になってもいいはずだ。
 日本の町には明るく賑やかな表通りとは対照的に、薄暗がりにひっそり息づく路地があり、そんな光と影のコントラストがフランス人を強く惹きつけている。そもそもフランス文化の中心にあるのは光の世界であり、この世のすべてを明るい光の下にさらし、物事を解釈するといった合理的な精神が尊ばれる。だから、明晰でないもの、曖昧なもの、不明確なもの、つまり象徴的にいえば、それらの事象とは対照的な闇、暗がり、薄明かりはそもそも彼らにはなじまない。ときに人間は自分が信奉する価値とは正反対なものに惹かれるが、フランス人は日本文化に内包される薄明りや陰や闇の文化に強く反応するからこそ、谷崎作品に魅せられているのである。
 いまから5、6年前のこと。日本文化の良さを保存する神楽坂に26階建ての高層ビルがそびえたった。バカも休み休み言えと大いに憤慨した。誰がどう考えても愚挙&暴挙でしかないだろう。だいたい、こんな愚劣な発想が生まれること自体まったく理解できない。当時聞いたところによれば、その高層ビルを建設する不動産会社とゼネコンがともに不況の折、いつ合併や倒産してもおかしくない会社だというのだから、もはやブラックユーモア。当然ながらパリでは、美しい景観を破壊するような計画は絶対にもちあがらない。昔から国家や行政の力が強いから、一企業の無茶苦茶な計画が実現するなんていう愚かなことはあり得ない。パリジャンにしても、自分たちの住んでいる環境を壊すような計画などハナから取り合わない。
 しかし2つの例がある。よく知られているように、6、7階の建物が屋並みをそろえたパリの街並みは19世紀の半ば、ときの最高権力者ナポレオン3世の命の下、オスマン男爵の手によって造られた。その後、1889年にエッフェル塔が建てられたとき、パリの景観を破壊するグロテスクな建築物であるとモーパッサンが猛反対した。ところが、モーパッサンは塔の1階にあるレストランではしばしば食事をしたという。その理由を、「パリで塔が見えないのはこの場所だけだ」(ロラン・バルト『エッフェル塔』)とうそぶいたというから可笑しい。
 20世紀に入り、パリの整然とした屋並みからまたひとつグッと首をもちあげたのが、1973年に完成した59階建てのモンパルナスタワーで、高さは210メートル。当時エッフェル塔に肩を並べる建造物が誕生したと話題になった。でも、不思議なのは、エッフェル塔にしてもモンパルナスタワーにしても、建築計画がもちあがった段階では賛否両論かまびすしかったにもかかわらず、いざ誕生するや反対派は自分たちの抗議をケロリと忘れたフリをしたことだ。両者はともにいまやパリを代表する高層建築としてすっかり景観になじんでいる。フランス人の変わり身の早さは、どうやら彼らのライフスタイルの信条なのかもしれない。
 さて、プティ・パリと呼ばれる神楽坂と本家パリの共通点は何か。
 そもそも、神楽坂とパリとでは町の規模が違いすぎて比較できない。そこでひとつのエリアであるサン・ジェルマン地区やサン・ミッシェル地区などと比べるほうが無難だろう。まあ、戦前からパリの文化や芸術、教育や思想の中心地で、知名度において国際的レベルのサン・ジェルマン、サン・ミッシェルと神楽坂を比較するのは酷なようだが、ご愛嬌だと思ってください。もちろん両者の共通点はある。つまり、文化人が居住した歴史的な町、伝統ある老舗、オシャレな雰囲気、ぶらぶら散歩できるくらいのほど良い広さ、町のなかだけでほぼ用が足りる便利さ、賑やかな表通りと静かな裏通りのコントラスト、多彩な文化活動、多くの異文化との共存、外国人の居住など。
 神楽坂に住むフランス人はこう話す。
 「神楽坂のチャーム・ポイントは、小さな規模の町に日本の古き良き文化が保存されていること。それだけではなくて、町としてたえず活性化して発展していること。たとえば、お年寄りと若者がうまく共存していて、お年寄りの知恵と若者のエネルギーが衝突しないで調和している。レストランにしても、上は格式のある老舗料亭から下は安くて旨い定食まであるし、またフレンチ、イタリアン、スペインなど各国料理の店や素敵なバーもある。パリと似たような裏道や路地や横町もかわいい。他の町では失われてしまった多様性に、フランス人は憧憬と一種の神秘性を感じるのだと思う」
 多くのフランス人が住む神楽坂は、「ヴィラージュ・デ・フランセ(フランス人村)」と呼ばれるまでになった。鋭敏なセンシビリティを持ち、オープンマインドで諸外国の文化を受容し、町の美学に強くこだわるフランス人さえ賞讃する神楽坂には、汲めども尽きせぬ魅力がそなわっている。神楽坂がプティ・パリと言われる所以である。
 ひとたび賑やかな表通りを入っていけば、そこここに見える町の精彩に癒され、ときめくだろう。「古いものは新しい」を実証する神楽坂にはまった人々は、かならずこの町に戻ってくるだろう。
 神楽坂が世間の注目を一挙に集めるようになるのは、テレビドラマ「拝啓、父上様」が放映された2007年からである。 
 同年1月から3月まで12回にわたりフジテレビ系列で放映された「拝啓、父上様」の平均視聴率は、約13・2パーセント。まずまず及第点。脚本を担当したのが倉本聰で、彼の手腕がまんべんなく発揮された見応えのあるドラマだった。
 倉本聰と言えば、名作「北の国から」をはじめとする大物脚本家である。21年間にわたりフジテレビで放映された人気シリーズが、国民的なドラマであることは間違いない。そんな倉本が満を持して書いたのがこの作品である。
 ある年代以上の人々は、このタイトルを見ただけで、その昔放送された懐かしいドラマを思い出すはずだ。それは75年のヒット作「前略おふくろ様」。そう、「拝啓、父上様」は「前略おふくろ様」の姉妹編なのである。材木の町・木場の移転が噂に上るようになったころ、東京深川の料亭を舞台にした「前略おふくろ様」は、地方から上京して料亭修業にあけくれる主人公を萩原健一が熱演した人情物である。
 それから30数年という歳月が流れ、倉本聰が新たに神楽坂の老舗料亭を舞台に執筆した。主役を演じたのは人気アイドル「嵐」の二宮和也で、板前修業中の二宮がほのかに恋心をいだく相手が黒木メイサ。
 ドラマのもうひとつの主役が、背景となった神楽坂を彩る坂と裏道と石畳が折りなす魅力的な町模様。二宮が狭い道を縦横にかけぬける重要なシーンが、カメラのフレームをはみ出すようでなかなか痛快に描かれていた。
 二宮和也は人気アイドルにしては珍しく芝居が上手い。名匠・クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」でも好演し、昭和の匂いを感じさせる貴重なキャラクターだ。なにかの雑誌でイーストウッドが日本の映画館関係者に会うたびに、「ニノは元気か?」と二宮のことを気にかけているという記事を見たことがある。現在のアメリカ映画を代表する名監督に、そんなに気に入ってもらえるなんて役者冥利につきるだろう。
 倉本聰が生まれ故郷の東京を離れて北海道に転居したのは1974年。「前略おふくろ様」を書いたのは、その翌年だ。「北の国から」の執筆は、その7年後。北海道への転居が、脚本家として大きな転機となったことは容易に想像できる。
 「ぼくの作品の系統として、いろんな系統があるんですね。ひとつが北海道に行ってからの『北の国から』に代表されるような、北海道舞台の自然対人間っていうドラマ。もうひとつが、北海道に行くより以前に書いた『前略おふくろ様』をはじめとしたドラマです。
 ぼくも東京でずっと過ごしていたから、「失われていく東京」を書きたいというのがあって。『前略おふくろ様』は、母親が死んだときに母親の遺品から出てきた遺書と、とっくに死んだ父親が送ったラブレターをベースにして書いたんです。実は、結婚前に父親が母親に送ったラブレターを見て、ちょっとショックを受けたんです。」(『拝啓、父上様 オフィシャルガイドブック』)
 そういう意味で「前略おふくろ様」は、倉本が亡き母親に捧げたオマージュだと言えるだろう。背景にそんな私的な事情が隠されていたとはつゆ知らなかったが、倉本作品からは主人公の母親に対する思慕の感情が強く伝わってくる。しかも放送された当時、深川にはまだ料亭や芸者が健在だったから、独特の艶やかな雰囲気がかもし出され、作品にインパクトを与えていた。(続く)

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*現在、月刊誌「小説推理」(双葉社)に連載しているエッセイです。タイトルは「東京とパリ『日仏』閑話休題」。すでに15回まで終わり、最終の20回まで続きます。順次、再録します。

第1回(2013年9月10日)
 なんともとぼけたタイトルをご容赦いただきたい。
 ある日の昼下がり、神楽坂に住む私のご近所でもある、当誌発行元の親しい編集者・KY氏と四方山話をしていた。その折、神楽坂物語なんてものを書いてみようかな、とふとつぶやいて言質をとられてしまったのが運の尽き、そしてあとの祭り。引くに引けず、こうして連載をはじめるに至った次第である。
 2000年代後半から、神楽坂という町がテレビや新聞雑誌などで盛んにとりあげられるようになり、いまや全国区に有名になった。町にまつわるエッセイや本も数多く書かれ、これまでに私も雑誌の求めに応じて、神楽坂に関するエッセイを書いてきた。だが、花柳界歴史的な背景に持つ神楽坂の町の不思議な魅力を知りつつも、これ以上屋上屋を重ねても仕方ないだろうと逡巡する気持ちがどこかにあり、それがこの連載をためらっていた大きな理由である。
 それに神楽坂住民といっても、神楽坂で産湯を使い、生まれも育ちも神楽坂、というわけではなく、人生の途中からこの町に住みはじめた者としての「よそ者」意識はかなり強い。いわば地域コミュニティの外側にいる「ストレンジャー」であり、折口信夫が言うところの周縁部に住む「マレビト」の類である。本来、こういう人々はコミュニティと一定の距離を保ちつつ、そのコミュニティが閉塞状態に陥った際にコミュニティをリフレッシュする役割を担っているという。そんな理屈をいささか承知してはいたが、私ごとき一介の物書きが、生まれも育ちも生粋の地元民を押しのけて書いたとしても、たいして神楽坂のお役に立てそうにもない。そんなことはおごがましく、短いエッセイならいざしらず、連載などとしゃしゃり出るのはよそうと誓っていたのである。
 この私、太目で強面に見えるけれど、その実ハニカミ、テレ屋、人見知り、社交ベタ、へそまがり、見栄っ張り、ひねくれ、頑固、いい加減、あきっぽい、無定見などと短所だけは際限なくある、大して取り柄のない男だ。
 私が生まれ育ったのは隅田川の東側の、正真正銘の東京下町。先のマイナスゾーン的性格をはぐくむのは、概して下町育ちだという偏見の持ち主である。結局は、あんたの資質の問題だろうと言われれば二の句をつけないけれど。そんな性格上の欠陥にふりまわされつつも、加齢とともに人並みに己を知るようになったつもりではいる。でも、神楽坂について多少なり書いてみようかなという思いがふつふつ沸いてきたときでも、結局は前向きの気分にブレーキをかけてしまう優柔不断な性格でもあるのだ。
 そんな状態がしばらく続き、いざ連載をはじめようと決意してみれば、今度はどんなふうに話を展開したらいいのか、あれこれ考える日々が続いたのである。決してもったいぶっているわけじゃなく、私なりに既存の神楽坂関連書とは異なる視点から、この町の魅力にどこまで迫れるか、それをどう伝えられるか思い悩んでいたからだ。
 それならまずタイトルを決めようと、先のKY氏とお喋りしていたら、期せずして異口同音二人して口をついたのが「東京とパリ『日仏』閑話休題」。
 さて、このタイトルを「東京とパリ」「日仏」「閑話休題」の3つに分けたとき、前者の2つについてはいささか説明を要する。というのは、東京生まれの私がある時期を境に「東京とパリ」を往復する生活をはじめたからである。 
 東京下町に生まれた私はどこで人生行路を踏み外したのか、30歳半ばの70年代後半フランスへ渡り、そのままパリに住みついてしまったのである。そもそも下町生まれのガキが、なまじ知識や教養なんてものを意識しはじめると、流行り病にとりつかれるのが関の山。そして、やたらに隅田川を越えた西側の動きが気になる。隅田川の東側の下町の人間にとって山の手とは隅田川を越えた西側全体を指す。昔は「陸の孤島」と言われた下町生まれは、自らの土地を「文化果つる所」と呼んで卑下していたのである。そして、華やかな文化はいつも墨田川を越えて下町にやって来たのだから。
 というわけで、下町育ちのませたガキは、山の手の知識や教養や文化が気になりだすと、いつの日にか必ずやと、下町脱出をもくろむようになる。なまじ山の手へのコンプレックスが強烈だから、その度しがたい気持ちのせいで、私の場合はある種、一般人とは脱出の形が異なってしまったのだ。 
 地元の小学校を出た私は、念願かなって山の手の中高一貫の私立校に進んだ。せっかく進学したものの、故あって高校1年の夏休み前に行われた編入試験を受け、下町の公立高校に途中入学してまいもどり、卒業後は山の手の大学に進学するという、前述した私の性格の一端を表わすように、また先々の変則的な人生を暗示するように、二つのエリアをめまぐるしく往復したのである。先が思いやられるような行路をたどりながらも、ともあれ山の手にたどりついた。
 そのころ都電はまだ縦横に走っていて、山の手の中学へは錦糸町始発の都電28番に地元で乗車し、途中茅場町で15番に乗り換え終点まで向かう。朝早く家族が寝静まっているうちに起きだし、お手伝いさんがつくってくれた弁当をカバンに突っこんで通学。現在の地下鉄東西線は15番の路線をなぞったもので、当時「ちんちん電車」と呼ばれた都電に1時間ほどゆられていると早稲田に到着する。
 15番線は日本橋や神田神保町方面から九段、飯田橋、大曲、江戸川橋、関口町、鶴巻町など神楽坂周辺を通過したから、私は若かりしころ、神楽坂と出会っていたわけだ。中学と大学への通学にその都電を利用していたから(大学に入学してから地下鉄の東西線が開通したが、卒業間近だった)、私は行きと帰りにほぼ毎日二度、神楽坂という町とニアミスを続けていたのである。その町は年端の行かないガキどもにとってアンタッチャブルな陰影の濃い別世界、素人の分際では容易に立ち入ることのできない艶やかな異次元空間。
 昼間、妖しげな花柳界は息をひそめて静まりかえる。夜の帳が下りるころ、芸者とお大尽と酒と料理と踊りと三味線が華やかさ世界を彩る、なんていうイメージばかりが先行していた。だが、中学生ともなれば好奇心は旺盛となり、その世界で何が演じられているか見ることはできないものの、空想することくらいはできる。数十年後、その神楽坂に、まさか自分が住むことになろうとは思いもよらなかった。
 ところで、下町の自宅と山の手の中学を往復し、都電で神楽坂の町の脇をすりぬけてゆく、制服制帽の私の生家は日本料理屋である。敷居の高い料理屋ではなく大衆的な大箱店。その店では板前が包丁を研ぎ、老若の仲居が脂粉の匂いがただよわせ、時には板前と仲居が道ならぬ恋に落ち、手に手をたずさえて夜逃げする。ある時は刑期を終えたばかりのいかつい板前が入店したり、仏教に帰依した信心深い板前が働いていた。銀行に小銭の両替に行かせた10代の下板が、その金をもって逃亡したこともある。
 いっぽう、客にしても高度経済成長の時代だから金払いがよく、年がら年中贅沢な宴会が行われていた。時には近在の荒くれ者、今で言うヤクザも大手を振って来店した。当時のヤクザは渡世の義理をわきまえていたから、滅多なことでは素人に手を出さない。しかし、ひとたび両者が酒の勢いに乗じて喧嘩をはじめると、派手な立ち回りを演じて出血騒ぎとなり、パトカーの出番となることもよくあった。私も野次馬気分でそんな喧嘩を見物していたものだ。高度成長という時代の猛烈な勢いが、酒の飲み方や喧嘩の仕方にも表れていたのだろう。
 だから、我が家はサラリーマン家庭とは明らかに異なる特殊な家庭だった。私が中学生ながらも、ぼんやりとだが神楽坂 という町の花柳界の内側で演じられていることを空想できたのは、子供ながらも家業のかまびすしい「風俗」を目のあたりし、胸に焼きついていたからだろう。 
 団塊世代に属する私が大学に進むころ、学生紛争が盛んになり、大学ではロックアウトが続いた。同じころ、フランス文化のさまざまな潮流が彼地から日本におしよせ、フランス文化に関心を寄せていた学生にとって恵まれた時代が到来したのである。ボードレールにヴェルレーヌにランボー、マラルメにヴァレリーにプルースト、ダダイスムにシュールレアリスムに実存主義にアンチ・ロマン、映画のヌーヴェル・ヴァーグなど「教養」が一挙になだれ込んできたからだ。私が進んだのはフランス文学科ではないが、その周辺をうろつくフランス文化好きだったから歓迎組である。
 いまや信じられないだろうが、当時は外国文学への関心が非常に高く、そのなかで女子大生にもっとも人気があったのがフランス文学。だから、仏文趣味の小僧たちは彼女らとお近づきになろうと、日仏学院やアテネフランセにせっせと通い、仏文関係の書物を小脇にかかえては、フランス文学の講義が行なわれている大教室をのぞきに行った。なにしろ教室の大半が女子大生というワクワク景観。普段はデモの後方あたりをうろうろし、暇さえあればジャズ喫茶に通い、マージャンにうつつを抜かしていた当方にすれば、そんな風景にどぎまぎするなというほうが無理というもの。
 私は大学を出てから数年後、諸般の事情もあり下町に戻ることを断念する。そして気がつけば遠く離れたパリ行きという選択肢しか残されておらず、逃避行せざるを得なかった。必要に迫られているとはいえ、そこには何かから逃げようとする意識が働いていて、自分なりに架空の世界をつくろうとしたのではないか。その場所がパリだったのだろう。
 東京下町に生まれた昔の作家は、地域の生活に密着し、地元に生きる人々の息吹や人情を感じながら、たとえ周囲の環境が猥雑であろうとも、その世界に留まり作品を書いた。あるいはそれとは逆に、自分の育った場所とはまったく異なる非リアリズムの架空世界を設定し、そこへ逃げて書いた。彼らは両極端のどちらか一方を選択しなければならず、中間的な立場を取ることができないのが下町の持つ強制力である。
 私の場合、いかに下町コンプレックスから脱出するかという重い命題に対し、もがき苦しみながら解決を模索するのではなく、もっとも安易な方法できりぬけようとしたのは、先に述べた己のやわな性格のなせる業だろう。もし岐路に立たされ、困難な道を選ぶか容易な道を選ぶかと問われたならば、私は迷わず後者を選ぶだろう。易きに流れる選択をするのは、下町育ちの人間によくある気質のひとつだと思う。それに名前をつけるとすれば、たぶん怠惰の虫とも言うべき病。その病を私は骨身にしみて知っている。
 さて、初めてパリに行けば、誰しも「異邦人」としてお決まりのカルチャー・ショックを受ける。私の場合は一つや二つどころではない。いまから30年以上前のケータイやネットもない時代の話だ。日本ではソムリエやフォワグラやカマンベールといった言葉に注釈が必要で、オーディナリー・ワインでさえ外国人や金持ち専用スーパーでしか買えなかった時代だったのだから。
 たとえばそのワイン。
 薄暗い裏通りに面した小さな広場や裏町の狭い公園で、ホームレスのおじさんやおばさんがニコニコしながら、1リットル入りのペットボトルのワインを美味そうにがぶ飲みしている。しかも世界三大高級紙「ル・モンド」を片手に。その光景を目撃して卒倒しそうになった。東京ではワインはまだ手の届かない高級な酒だと思われていたのに、なんとパリではペットボトルに入ったワインが売られていたことに、それを回し飲みするホームレスが存在していたことに、ファーイーストからやって来た新参者は驚愕したのである。
 町のスーパーに入れば、ワインコーナーにはあふれんばかりにピンからキリまでのワインが並び、ホームレスのおじさんとおばさんが痛飲していた、ワインのなかでは最低価格のペットボトルのワインも鎮座。私もそんなペットボトルを1本買って、路地裏の人気のない公園でそっと口飲みしたけれど、日本でのフランスワイン経験が少なかった身にとって、素晴らしくも渋いあの味は、いまでも記憶の底に沈殿はしていながらもたしかに残っている。やがてその渋味がタンニンという成分だと知るに及び、ワインという酒はずいぶん大人の味なんだな、とすでにいい年をした男は思ったものである。
 フランスの子どもたちは食べ物にしてもワインしても、幼い頃から何でも禁じられることがなく、大人と肩を並べて同じ食卓で同じ料理や酒を飲み食いする。だから日本の子どもより舌の成長は速い。癖のある青カビチーズもブーダン・ノワール(豚の血の腸詰)も大人と同じ食卓で同じように食べるし、10歳前後ともなれば、ワインもヴァン・ショー(温めたワイン)だけでなく、量は少ないけれど生のまま人並みに飲む。それを眺めている大人は、さも当然とばかりにうなずく。
 私もそうした光景を、パリの友人宅や彼らが南仏に所有するメゾン・ド・カンパーニュ(別荘)の食卓で何度も目にした。けれども、子どもが大人のなかに交じってワインを飲む姿に違和感はなかった。「ワインを飲みたい」と叫びながら生まれたガルガンチュアの末裔を見る思いだ。さすがにフランス革命の平等思想が貫かれていると、妙に納得したのである。
 ホームレスおじさんおばさんたちがペットボトルに齧りつていた光景は、瞬時に情報を入手できるIT時代には考えられないような、まさに強烈なカルチャー・ショックをもたらした。それから三十数年、いまなおホームレスはパリのあちこちに健在だが、パリのスーパーから1リットル入りのペットボトルのワインは消えた。
 パリに住みはじめた私はフリーライターとして、ペンネームをいくつか持ちながら原稿を書いていた。日本の出版社に依頼されれば、政治や文芸からジャズまでどんなジャンルのものでも引き受けた。21世紀に入るまで日仏の情報ギャップは日本側の圧倒的な入超であり、フランスから大量の情報が日本に流れこむだけだった。日本から彼地へ輸出される情報を1とすると、その逆は100程度。つまり1対100の大差だ。日本からの情報といえば、エコノミックアニマルの代名詞をつけられていたから、もっぱら経済関連記事。その象徴が「ポワチエの戦い」で、日本製品のフランスへの侵略を防ぐためにフランス側が仕掛けた経済戦争だった。経済以外への関心は低かったから、政治や文化関連の記事はきわめて少ない。日本の首相の名前を知っているフランス人はほとんどいなかった。
 ここ15年ほどフランスは日本の情報をよく伝えるようになったが、日本が約150年かけてフランスの情報を移入してきたことに比べれば雲泥の差である。フランスに対する日本人のベースにある気持ちは「憧れ」。戦前から多くの文学者や画家が渡仏したが、それは一方的な恋愛感情に近かった。しかし、日本側のフランス情報の入超といってもジャンルは限られていた。政治経済は申し訳程度で、他は主に文学や音楽などを中心にした文化情報である。ここ十数年はもっぱらファッションと旅行とグルメばかり。だから、フランスに対するイメージはひどく偏ったものだったのである。
 戦前、萩原朔太郎人が「フランスに行きたしと思えど、フランスはあまりに遠し」と嘆息したけれど、約12時間で行ける今日でさえ、フランス情報は限られているのが現実だ。まあ、朔太郎はフランスの土を踏むことはなかったけれど。
 フランス側はどうか。昔は日本という国は中国と地続きだと思い、両国を混同しているフランス人が多く、日本に対する関心は限りなくゼロに近かった。ところがここ十数年、公園を散歩していても、フランス人に話しかけられる機会が多くなったのは、日本のプレザンスが強くなり、多方面の情報が流れるようになったからである。
 いまなお日本はミステリアスな国である。もっと言えば相変わらず「日本の常識は世界の非常識」と思われていて、フランス人に理解できない思考や行動を持つ国という評価は変わらない。それでも日本に関する情報量がグッと増え、日本ではあまり報道されない情報も、たとえばヤクザや被差別部落の問題も他国の問題だからということもあるのだろうが、赤裸々に報道される。フランス人と話していて、意外な事実を知っていることに驚かされることがある。
 親日派の代表格はシラク元大統領をおいて他にいないであろう。彼のおかげで日本はどれほど恩恵をこうむったことか。シラクが大統領に就任中の日仏関係は歴史上もっとも良好だった。聞くところによれば、シラクが日本に興味を持つようになったのは、フランス人の著名な東洋美術研究家との出会いがあったからだという。その後、日本への興味がエスカレートしてゆき、来日回数は約50回。日本の美術、とりわけ刀の鍔が好きでコレクションしていた。
 大の相撲好きで知られ、沖縄サミットに来日した折、サミットが終了したと思ったら夫人と名古屋に飛んで相撲観戦した。来日はサミットに参加するためだったのか、相撲観戦だったのかわからないとフランスのマスコミに皮肉られていた。前任のミッテラン大統領と後任のサルコジ元大統領の来日がそれぞれ3回と2回だったことを思えば、日本人にとってシラクの存在感は群を抜いている。
 日本に駐在していたフランス大使館関係者が言うには、シラクの相撲贔屓は半端ではなかったそうだ。年に6回の場所が開催されているたびにフランス大使館は大忙しになる。なぜなら、シラクに相撲の対戦結果を毎日報告しなければならないからだ。日仏の時差もあるから一苦労。その上、勝ち負けだけでなく、決まり手まで知りたがるというから、もはや病膏肓らしい。シラク大統領の任期中にパリ巡業が行われたし、相撲はすっかりパリジャンに認知されたのである。もっとも、ゲテモノ趣味への興味という側面もあるにはあるけれど。
 親日家のシラクのおかげで1999年にはフランスの日本年、2000年には日本のフランス年が開催されたことは記憶に新しい。フランスの日本年も盛大に行われたが、それを記念するように、新聞や雑誌をはじめマスコミで日本特集が何度も組まれた。そのころ、ちょうど日本で騒がれていたのが援助交際と両親のセックスレス。そんな話題がフランスのマスコミに登場し、「日本では中学生は援助交際、親はセックスレス。日本はいったいどんな国?」なんて記事が大々的に掲載されたこともある。援交に関してはフランスのマスコミははっきりと「売春」と書いていた。
 こうした記事はフランス全土に津々浦々流れていったから、日頃日本に関心も興味もない地方のフランス人は奇妙な記事に戸惑っただろう。20世紀末まで日本についての知識は、ジャポノローグ(日本学者)を除けば、一部の人たちにしか行き渡っていなかったからだ。そんな環境のなかで突然、日本に関するタメにするような記事が掲載されたのだから驚いたはず。
 近年、日本への関心は急速に盛り上がっている。2000年から毎年開催されている「ジャパンエキスポ」の盛況ぶりは知られている。マンガ、テレビゲーム、ファッション、ミュージック、伝統文化などが展示されるが、じつに2011年は4日間で19万を超える入場者がおしかけたというのだから恐れ入る。
 驚いたのは数年前に読んだ記事で、日本のマンガブームもここまで来たかとの思いがしたものだ。その記事によれば、フランスのマンガ好きのリセエンヌ2人が秘かに来日するために家出したというもの。その後、あの2人はどうしたのだろうか。明治以降、熱病のようにフランスに憧れた日本人のなかには、密航までして渡仏した料理人がいたけれど、その逆にフランス人が家出してまで日本に来たがっているというニュースを読んで、私はある種のめまいを覚えたのである。なぜなら、日本人が一方的に憧れ続けた「フランス神話」に対し、フランス人による「日本神話」が誕生した記念すべき瞬間だったから。
 今年3月、「パリ国際ブックフェア」は東北大震災から1年が経つという理由から、応援する意味で招待国として日本を選んだ。招かれたのは大江健三郎、島田雅彦、平野敬一郎、古川日出男、五味太郎、吉増剛造、角田光代、江國香織、萩尾望都など約20人の作家や漫画家。聞くところによれば大盛況。じつに喜ばしい。ノーベル賞作家の大江健三郎のサイン会には連日、長蛇の列ができたという。私はパリ時代、毎年このブックフェアに足を運んだが、日本の出版社のブースはなく(現在も日本の出版社とフランス語圏の出版社との商売は難しいからブースはない)、従って日本人の姿も少なかった。それを思えばまさに隔世の感がする。
 二国の関係は日本人の「フランスへの憧れ」から、徐々にだがフランス人の「日本への憧れ」へと転換しているのかもしれない。明治以降、数多くの日本人がランスに渡り、大量の本が書かれた。つい二十数年前まで朔太郎が歌ったやるせない想いは、フランスに憧れる多くの日本人が共有するものだった。
 しかし、物事は冷静に見ることが肝要だ。日本人はともすれば敢えて井の中の蛙の如く世界を見ようとする習性がある。つまり、日本にとって都合の悪い面には眼を閉じ、都合のいい面しか見ようとしない傾向のことである。欧米で日本文化がブームになったからといって、大将の首でも取ったかのようにはしゃぎ、彼地の大勢の人々がブームに参加していると錯覚しがちだ。今も昔から変わらない、お目出度いナショナリズムと想像力の貧困に呆れかえる。
 どんなにクールジャパンが喧伝され、「パリ国際ブックフェア」に日本文化好きが集まろうが、フランス人の日本への憧憬は、近年になってアニメやコスプレやスシを通じてようやく出てきたもので、日本文化に熱中するフランス人はフランス全体から見れば少数派である。最近はそんなこともなくなったようだが、田舎に住むフランス人のなかには、生涯に一度もパリに上京しないで死んでゆく老人がいる、といった話を私はかつて耳にしたことがある。日本と同じく、フランスも都会と地方の温度差は大きいのだ。だから、アニメやスシのブームは、たしかにそういう現象は起こっているけれど、あくまでもパリや地方の大都市などに限られた地域の話だ。テレビでアニメを観たが、どこの国で製作されているかなんて知らないよ。スシなんて気持ち悪くて食べたことないよ、という人が案外に多い。日本と違い流行に対する考え方と流行の出播の仕方がそもそも異なるのだ。また外の世界にあまり関心を持たないのが、保守的なフランス人の実体である。
 日仏間の通信手段も大きく変わった。パリに住んでいた私など物書きにとって、最初にもたらされた福音がFAXである。それまで日本に原稿を送るのは郵送だけだった。いまじゃ笑い草だが、緊急を要する原稿を、帰国する人を探して東京で投函してもらうよう預けたり、ついには困惑のはてにパリ郊外にあるシャルル・ドゴール空港に行って、見ず知らずの帰国する日本人を捉まえて、事情を話して届けてもらう。考えてみれば、なんとも無謀な仕儀をしでかしたことか。80年代にFAXが市場に出てから約10年後、今度はパソコンが華々しく登場して、やがてネットで送稿できるようになり、通信環境が劇的に変化した。
 私は壮年期の大半をパリで過ごしたが、それを思うと我ながらよく恙なく生きてこられたものだと、妙に感心したり不思議な気持ちになったり。帰国して早いもので12年が過ぎた。光陰矢の如し。
 さて、冒頭のKY氏とパリの生活体験、フランス各地とヨーロッパ各国の取材旅行、パリに住みはじめたころに取材した日本人による人肉事件、ノストラダムスの生涯、映画「太陽がいっぱい」でアラン・ドロンと共演した憧れのフランス人俳優のモーリス・ロネへのインタビューなど、さまざまにお喋りをしているうちに出てきたのが、タイトルの「東京とパリ『日仏』閑話休題」。 
 ともあれ、行き先の見えない船出をした。出たこと勝負、やぶれかぶれ、なんていうのが正直な気持ちである。貧しい頭と拙い心に濾過された、毛色の変わった話題を、危なっかしい積木細工に積んでいく連載になると思うが、ご用のない方は寄ってらっしゃい見てらっしゃい。長い人生で集めてきた数々のがらくたの断片をエッセイ風に、ノンフィクション風に、時にはフィクション風に気取ってみたり。
 蛇行する記事が、いったいどこに着地するやら皆目わからない。貴重な誌面を汚すことになるやもしれぬ連載。
 「閑話休題」で紙幅が尽きた。




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「小説推理」連載エッセイ

プロフィール

Author:宇田川悟
1947年、東京都生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。フランス政府農事功労章シュヴァリエを受章、ブルゴーニュワインの騎士団、シャンパーニュ騎士団、コマンドリー・ド・ボルドー、フランスチーズ鑑評騎士の会などに叙任。著書に『食はフランスに在り』(小学館ライブラリー)、『パリの調理場は戦場だった』(朝日新聞社)、『ニッポン食いしんぼ列伝』(小学館)、『ヨーロッパワインの旅』(ちくま文庫)、『フランス美味の職人たち』(新潮社)、『欧州メディアの興亡』(リベルタ出版)、『フランスはやっぱりおいしい』(TBSブリタニカ)、『フランスワイン紀行』『ヨーロッパ不思議博物館』『書斎の達人』『書斎探訪』『フランス料理二大巨匠物語-小野正吉と村上信夫』(以上、河出書房新社)、『最後の晩餐-死ぬまえに食べておきたいものは?』(晶文社)、『フレンチの達人たち』(幻冬舎文庫)、『フランスワイン、とっておきの最新事情』(講談社+α文庫)、『フランス料理は進化する』(文春新書)、『VANストーリーズ-石津謙介とアイビーの時代』(集英社新書)、『吉本隆明「食」を語る』(朝日文庫)、『超シャンパン入門』『東京フレンチ興亡史-日本の西洋料理を支えた料理人たち』(以上、角川oneテーマ21)など多数。近著に『料理人の突破力-石鍋裕・片岡護・小室光博が語る仕事と生きかた』(晶文社)、『ホテルオークラ総料理長 小野正吉-フランス料理の鬼と呼ばれた男』(柴田書店)。訳書に『旅人たちの食卓-近世ヨーロッパ美食紀行』『フランス料理と美食文学』(以上、平凡社)、『カトリーヌとパパ』(講談社)、『父親はなぜ必要なのか?』(小学館)など。

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